ついに昨日、衆院が解散され来月16日の総選挙となった。
民主党政権の3年余り。この国の統治を変え、新しいヴィジョンと未来を希望した国民の期待は裏切られた、と多くの人は思っている。 2009年9月に誕生した鳩山政権は、「友愛」のスローガンを掲げて、それまでの新自由主義的な社会から方向転換を試みようとしたが、普天間基地の移転問題で躓き、9か月で政権を下りた。 目算もなく「最低でも県外」と表明して、アメリカの虎の尾を踏んだともいえるが、その政治手法の稚拙さには、一般人も呆れた。
継いだ管直人は、「最少不幸社会」という奇妙なスローガンで、社会保障制度改革などに乗り出すかに見えたが、景気対策に足を取られているうちに、3.11によってすべてがリセットされ、首相は原発対応を非難される形で側近の信頼を失い退陣した。 野田内閣には、もはや理念らしきものはなく、単に政権を運営することが目的となり、財務省操縦の下、消費税増税がミッションになってしまった。見映えの良さそうな政策を寄せ集めただけで、強固なヴィジョンと政治手腕を持たない政権は、こうして倒れるべくして倒れた。
民主党の約束していた、行革による10兆円近い財源の創出は幻となり、持続不可能な「子ども手当」や高速道路の無料化は胡散霧消し、財政赤字は拡大した。 震災の復興にかける14兆円の支出などが積って、ついに財政赤字は年50兆円、国の累積債務は1000兆円に上ろうとしている。
デフレの克服と経済成長については、いくら金融緩和を続けてもすでにじゃぶじゃぶとお金が余っている状況では効くわけもなく、国債発行で公共事業を、というケインズが大手を振って復活している。 「成長」の未来を描かないことには、エコノミストも政治家も食えないから、「さっさと不況と終わらせろ」となるのだが、デフレの正体は生産年齢人口の減少であり、所得の遁減が根本にあるから、いたずらに「希望」を語る学者や政治家を、若い世代は信用していない。
「脱原発」も、夏のパブリックコメントの募集と大飯3号機の再稼働がなると、次第に鳴りを潜め、「2030年代に脱原発」と逃げ越しで表明してきた民主が政権から陥落し、もしこれで自民が復権すれば、脱原発はさらに遠のくことになるだろう。 東電の解体、発送分離、そうした大きな変化を伴う改革は、急激な改革を避けたい現状維持勢力によって骨抜きにされた。今後、F2や柏崎刈羽の再稼働が遡上にのぼるだろうが、それも大飯のように、原子力規制委員会と地元の2者間合意で強引に進められてしまうのか。あれほど盛り上がったかに見えた国会前の反原発デモは、何の力にもならずに忘れられていくのか。
3.11と原発事故直後の数か月は、多くの知識人が、「これは敗戦と同じ風景だ。これで日本は変わる」と表明した。しかし、1年8か月経って何が変わったか。大飯は再稼働し、島根3号機と大間原発の工事は再開し、国有化状態の東電はさらに1兆円以上の政府保証を得て存続している。
開沼博の近著「フクシマの正義‐日本の変わらなさとの戦い」(幻冬舎)は、事故から1年半の評論や対談を集めた本だが、結局は「当事者」ではない東京の知識人の安易な脱原発論を批判している。そして、なぜ日本は変われないか、と改めて問う。 中央と地方の間に長年横たわる支配と従属の関係があり、沖縄が米軍基地を厭いながらそれを大和(日本)が必要としたように、福島が原発のもたらす雇用と経済的安定に従属し、電力で東京(中央)に奉仕するという共通の構造がある。 いまだ避難しつづける9万人の苦労や、被爆の心配の中、高線量の地に住み続ける以外ない人々の不安は、次第に忘れ去られる現実。 安易に「希望」や「変革」を語った中央の知識人への強烈な違和感を、このイワキ市出身でまだ20代の著者は繰り返し表明する。
日本人は、「水に流すといった言葉があるように、忘却することを是とする。仏教の無常の思想が流れているためなのか、神仏習合の多神教国だからか、合理性で徹底的に議論を突き詰めたり、絶対的な真理や信念を持つことが苦手である。 震災と原発事故後、「これで日本が変わる」と信じた日本人の忘却が早くも始まっている。 日本には、強い「悪」という概念がないためか。 無常の世の中には、善も悪もいずれすべてが流され許されると考えるのか。 悪を規定できないのは、「悪人なおもて往生する」と教える宗教のせいか。このままでは、また関東大震災のときに寺田寅彦が言ったように「天災は忘れたころにやってくる」と嘆息することにならないか。
かつて広島の原爆慰霊碑に刻まれた言葉の英語訳に違和感を覚えたことがある。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから。」 この後半部分の英訳は、”we will never repeat the evil“とあり、日本語の「過ち」とは意味がよほど違う。 ついでに言えば、主語は誰なのかもはっきりしない。 原爆を投下したのはアメリカだから、アメリカがwe なのか。 日本人が主格とすると、本来被害者の日本人がいう言葉としては変だし、原爆を投下を招いた軍国主義への日本人の懺悔と取るべきなのか。それも倒錯した話である。
いずれにしても、3.11と福島原発事故は、徹底的に記述し、しつこいほどに繰り返し反芻しなければならないはずなのだ。 第二次大戦の反省ぶりを見ても、ヒトラーの時代を徹底的に反省し、残されたベルリンの壁にTopography of terrorを記述し公開しているドイツに較べ、日本の戦争と軍国主義への反省は曖昧なままである。そういえば、かつてノーベル文学賞を受賞した作家の受賞スピーチも、「曖昧な日本の曖昧な私」だった。
今度の選挙で、脱原発、TPP,外交、社会保障などで立場が違う第三の勢力が結集しても、所詮は野合となるであろう。国民は、4年前、安倍晋三が政権を放り出したことは覚えているが、他に入れたい政党もなく、世論調査の示すように自民党に入れる人が多いのかもしれない。 しかし、今朝の新聞に出ていた自民のマニフェストの骨子を見る限り、成長戦略、法人減税、など前世紀型の企業よりの資本主義、自由主義的な政策が並んでいるだけに見える。 橋本の維新の会に石原太陽が合流するそうだから、そこがどれだけ票を集めるかが焦点になるだろうが、独裁者を任じて憚らない関西の若い首長と、中国をシナとよんで憚らない国家主義者の共闘にどれだけ期待できるのか。しかし、自民の亡霊が復活するより、まだ民主党の残滓の方がマシと思うかもしれない。
こうして変われない日本が、またしばらく続くことになるのか。
橋本や石原のような独裁者による急激な変化よりも、徐々に悪化する現状を忍ぶほうを選ぶのが日本人なのかもしれない。本当に信頼できる人格と、しっかりした知性とヴィジョンをもったObamaのようなリーダーが出てくることを待望したいが、それは所詮無いものねだりか。 クリントン元大統領を首相に、という4年前の冗談がまだ通用しそうなことが情けない。そしてその間も、貧困や失業は減らず、若年層は未来に希望を持てないままでいる。 それが普通だとむしろ醒めている。 相変わらず「希望」を語っているのは、それを持てた過去の幸せな世代だけなのかもしれぬ。 若者のシニシズムが一番の敵だと思っていたら、それはシニシズムではなく、単にリアリズムだった、となるかもしれぬ。