
きっかけは、私の山の師匠のB氏のお誘いだ。標高800m足らずの富士吉田市役所から、一気に3776mの頂上まで駆け上がる富士山登山レースに彼はここ数年出場している。普通なら10時間は優にかかるルートを、4時間半で頂上まで到達しないと失格という耳を疑うようなレースだが、今回は7月末のレース前の足慣らしということでお付き合いいただいた形だ。
富士登山のルートは4つある。 最もポピュラーなものは、富士吉田からスバルラインで5合目(2,200m)まで上がって、そこから登るコース。今回はそれは避けて、須走口五合目(1,950m)へ向かった。 ところが、梅雨明けの3連休の中日のためか、土曜の真夜中に到着してみれば駐車場は満杯で、あふれたクルマが警備員の誘導で下り車線に沿って延々と路肩に駐車している。 この混雑には二人とも驚愕。 一時は引き返して御殿場口(1,450 m)から行こうかと話したが、結局4キロ近く下った車列の最後尾に駐車し、そこから登り始めた。 時に日曜の子の刻、零時30分。
両側を木々に囲まれた真っ暗な道の上には、満天の星空。 時折同じようにあぶれたクルマのヘッドライトが下りてくる。 本来のスタート地点の須走口五合目に付いたのは、午前1時10分。 ここから頂上まで1800mの登攀だ。 真っ暗な道を、ヘッドライトの明かりをたよりに進む。 前後にしばしば他の登山者の話し声が聞こえるが、黙々と高度を上げていく。 最初の一時間は結構なペースで登り、一時間で600m近くアセントしただろうか。 「このペースなら四時間強で頂上につき、ご来光も上で拝めるかも」とB氏。 しかし、やはり高度が上がるにつれて息が上がって足の動きが鈍る。 6合目を過ぎるあたりから私のペースはかなり落ちた。 寝てないせいかなんとなく頭に圧迫感があり、3200m以上の高度に余力を残しておかないと、高山病にならないとも限らないと思う。
4時前になると早くも東の空は明るみを帯びてくる。 夏至を過ぎてしばらく経つが、日の出はまだ早い。 山中湖とその向こうの白い雲海が淡いオレンジに染まっていく。 何度か山で経験した日の出前の一番美しい時間。 4時30分過ぎ、東の空の薄い雲の上に灼光が瞬き、一瞬にして世界は光に満たされる。頂上を仰げば、灰色の砂と所々の黒い岩の顕れた山肌が頂上付近まで見渡せ、その間に何軒かの山小屋が見える。
(山中湖とご来光)
(八合目手前から頂上方面)
午前5時過ぎ、本八合目(3,400m)に至る。 富士吉田からのルートと合流。 ここから先は、登山道に人が群れている。 若いカップルやパーティ、子供連れ、外国人、犬連れ。 老若男女ありとあらゆる人達が山頂を目指す。 白い噴煙を上げて歌に詠まれた昔から、日本の国民的ヒーローである富士山。 江戸時代には「富士講」のブームがあったが、今はそれに劣らぬ富士登山ブームのようだ。 山が開くわずか2ヶ月の間に30万人が訪れる(一日5千人!)。 9合目から上は、まさしく渋滞となり、5歩進んで10歩待つといった次第。 所々警備員が立ち、ディズニーの人気アトラクション待ちのごとく、2列縦隊でゆるゆると進む。 路肩には、酸素不足で高山病に倒れたのか、単なる寝不足休憩なのか知れぬ人々が、あちこち横になっている。
(9合目あたりの渋滞)
(やっと着いた頂上も混雑)

(火口には万年雪が)
7時08分、頂上に至る。 8合目から頂上までの350mに2時間もかかった計算だ。 すぐにお鉢巡りに歩き出し、最高点の剣が峰方面では、遥かに北アルプスから、長大な南アルプスの全容までくっきりと見え、南は駿河湾の海岸線に至る。 名古屋の街も見えそうなほどだ。 さらに南に回れば、愛宕山とその先の伊豆半島には雲がかかる。 麓に向かってなだれ落ちる稜線の鷹揚で屈託のない長さとスケールは、海岸線を除いては目にすることが稀だろう。

(南アルプスの向こうに中央アルプスも)
(御殿場口方面)
8つの峰を一周すると優に一時間はかかるというお鉢巡りだが、浅間大社本宮で下山のストック代わりに、多くの登山者が手にしていた修験棒を手に入れ、300円払って打刻もしてもらう。

8時50分、鳥居前で写真をとって、いよいよ下山を開始。 下りは登りとは別の道がつけてあり、砂に小石の混ざった路に靴をすべらしながら、つづら折をどんどん下る。 最初の30分で800m下降。7合目あたりからはさらに砂が深くなり砂走り状態になる。 小石が混ざっているので注意しないと足を取られるが、巧みに大きめの石をよけながら、小走りに駆け下りる。 やがて膝と大腿の筋肉が笑いだす。 砂塵を舞い上げ、時につんのめりながらも、B氏に遅れず2200mの休憩所までほとんど一気に駆け下りた。喉も体も砂埃にまみれ、カラカラの口を最後の水で潤す。
残りは樹林の道を2キロ少々下り、10時15分に五合目に到着した。上り6時間かかったコースを1時間半で下ったことになる。 因みに、御殿場口への下山道の本家砂走りは、一面小石のない見事な茶褐色の砂で、遥かに安全で気持ち良いとのことだ。
ようやくトイレに行き、顔も洗う。 昨晩満杯だったはずの駐車場に、今はクルマが入っていく。 ここから昨晩の駐車地点まで4キロもあり、これが思いのほか長く感じる。 11時過ぎにクルマに到着。 駐車の列はさらに下まで一キロ以上伸びている。 温泉を目指してすぐに出発と思いきや、登ってきたバスが下りの大型ミニバンと出くわして立ち往生。 後方にどんどん詰まってニッチもサッチもいかない。 結局先頭のミニバンを筆頭に乗用車数台を5合目までUターンさせて、なんとかバスを通させる。 駆けつけた警察はほとんど役に立たず、最後は立ち往生したクルマのドライバーが数人、現場を仕切ってなんとか開通させた。
それで富士を登って何か私の中で変わったか。 いつも見晴るかすあの霊峰の上に立ったという思いもあるが、その姿は、以前となんの変わりもなく相変わらずそこにある。出向かないと姿が見えない多くの山々と違って、富士はいろんな場所から見える。 風呂屋の壁、絵葉書、毎年のカレンダーでも始終お目にかかるし、何よりその単純な紡錘状の山容は、一度目にすれば子供にも簡単に描ける。 深田久弥は、その単純で大きな山を「偉大なる通俗」と呼んでいる。「それは万人向きである。何人をも拒否しない、しかし何人もその真諦を掴みあぐねている(日本百名山)」
富士山の登頂記録は、633年に遡るそうだ。 これは人間が世界の高山に登った最古の記録で、1000年近く破られなかったという。 「世界各国にはそれぞれ名山がある。しかし、富士山ほど一国を代表し、国民の精神的遺産となった山は他にないだろう。」 けだしである。万葉の歌人や芭蕉、北斎はもとより、古代以前に東京の地に住み着いた縄文人たちも、今より遥かに海岸線の侵入した陸の岬から、「不二」を朝夕に眺めたことであろうから、その姿は日本人の脳裡に焼きつけられているに違いない。
今回の混雑を見ても、富士登山が容易になりすぎたきらいはあるけれど、次は御殿場口の砂走りも体験してみたいし、かつての富士講のように一合目からゆっくり時間をかけて登ってもみたいとも思うのだ。
(須走口五合目より富士山)
富士登山のルートは4つある。 最もポピュラーなものは、富士吉田からスバルラインで5合目(2,200m)まで上がって、そこから登るコース。今回はそれは避けて、須走口五合目(1,950m)へ向かった。 ところが、梅雨明けの3連休の中日のためか、土曜の真夜中に到着してみれば駐車場は満杯で、あふれたクルマが警備員の誘導で下り車線に沿って延々と路肩に駐車している。 この混雑には二人とも驚愕。 一時は引き返して御殿場口(1,450 m)から行こうかと話したが、結局4キロ近く下った車列の最後尾に駐車し、そこから登り始めた。 時に日曜の子の刻、零時30分。

両側を木々に囲まれた真っ暗な道の上には、満天の星空。 時折同じようにあぶれたクルマのヘッドライトが下りてくる。 本来のスタート地点の須走口五合目に付いたのは、午前1時10分。 ここから頂上まで1800mの登攀だ。 真っ暗な道を、ヘッドライトの明かりをたよりに進む。 前後にしばしば他の登山者の話し声が聞こえるが、黙々と高度を上げていく。 最初の一時間は結構なペースで登り、一時間で600m近くアセントしただろうか。 「このペースなら四時間強で頂上につき、ご来光も上で拝めるかも」とB氏。 しかし、やはり高度が上がるにつれて息が上がって足の動きが鈍る。 6合目を過ぎるあたりから私のペースはかなり落ちた。 寝てないせいかなんとなく頭に圧迫感があり、3200m以上の高度に余力を残しておかないと、高山病にならないとも限らないと思う。
4時前になると早くも東の空は明るみを帯びてくる。 夏至を過ぎてしばらく経つが、日の出はまだ早い。 山中湖とその向こうの白い雲海が淡いオレンジに染まっていく。 何度か山で経験した日の出前の一番美しい時間。 4時30分過ぎ、東の空の薄い雲の上に灼光が瞬き、一瞬にして世界は光に満たされる。頂上を仰げば、灰色の砂と所々の黒い岩の顕れた山肌が頂上付近まで見渡せ、その間に何軒かの山小屋が見える。

(山中湖とご来光)

(八合目手前から頂上方面)
午前5時過ぎ、本八合目(3,400m)に至る。 富士吉田からのルートと合流。 ここから先は、登山道に人が群れている。 若いカップルやパーティ、子供連れ、外国人、犬連れ。 老若男女ありとあらゆる人達が山頂を目指す。 白い噴煙を上げて歌に詠まれた昔から、日本の国民的ヒーローである富士山。 江戸時代には「富士講」のブームがあったが、今はそれに劣らぬ富士登山ブームのようだ。 山が開くわずか2ヶ月の間に30万人が訪れる(一日5千人!)。 9合目から上は、まさしく渋滞となり、5歩進んで10歩待つといった次第。 所々警備員が立ち、ディズニーの人気アトラクション待ちのごとく、2列縦隊でゆるゆると進む。 路肩には、酸素不足で高山病に倒れたのか、単なる寝不足休憩なのか知れぬ人々が、あちこち横になっている。

(9合目あたりの渋滞)

(やっと着いた頂上も混雑)

(火口には万年雪が)
7時08分、頂上に至る。 8合目から頂上までの350mに2時間もかかった計算だ。 すぐにお鉢巡りに歩き出し、最高点の剣が峰方面では、遥かに北アルプスから、長大な南アルプスの全容までくっきりと見え、南は駿河湾の海岸線に至る。 名古屋の街も見えそうなほどだ。 さらに南に回れば、愛宕山とその先の伊豆半島には雲がかかる。 麓に向かってなだれ落ちる稜線の鷹揚で屈託のない長さとスケールは、海岸線を除いては目にすることが稀だろう。

(南アルプスの向こうに中央アルプスも)

(御殿場口方面)
8つの峰を一周すると優に一時間はかかるというお鉢巡りだが、浅間大社本宮で下山のストック代わりに、多くの登山者が手にしていた修験棒を手に入れ、300円払って打刻もしてもらう。

8時50分、鳥居前で写真をとって、いよいよ下山を開始。 下りは登りとは別の道がつけてあり、砂に小石の混ざった路に靴をすべらしながら、つづら折をどんどん下る。 最初の30分で800m下降。7合目あたりからはさらに砂が深くなり砂走り状態になる。 小石が混ざっているので注意しないと足を取られるが、巧みに大きめの石をよけながら、小走りに駆け下りる。 やがて膝と大腿の筋肉が笑いだす。 砂塵を舞い上げ、時につんのめりながらも、B氏に遅れず2200mの休憩所までほとんど一気に駆け下りた。喉も体も砂埃にまみれ、カラカラの口を最後の水で潤す。
残りは樹林の道を2キロ少々下り、10時15分に五合目に到着した。上り6時間かかったコースを1時間半で下ったことになる。 因みに、御殿場口への下山道の本家砂走りは、一面小石のない見事な茶褐色の砂で、遥かに安全で気持ち良いとのことだ。
ようやくトイレに行き、顔も洗う。 昨晩満杯だったはずの駐車場に、今はクルマが入っていく。 ここから昨晩の駐車地点まで4キロもあり、これが思いのほか長く感じる。 11時過ぎにクルマに到着。 駐車の列はさらに下まで一キロ以上伸びている。 温泉を目指してすぐに出発と思いきや、登ってきたバスが下りの大型ミニバンと出くわして立ち往生。 後方にどんどん詰まってニッチもサッチもいかない。 結局先頭のミニバンを筆頭に乗用車数台を5合目までUターンさせて、なんとかバスを通させる。 駆けつけた警察はほとんど役に立たず、最後は立ち往生したクルマのドライバーが数人、現場を仕切ってなんとか開通させた。
それで富士を登って何か私の中で変わったか。 いつも見晴るかすあの霊峰の上に立ったという思いもあるが、その姿は、以前となんの変わりもなく相変わらずそこにある。出向かないと姿が見えない多くの山々と違って、富士はいろんな場所から見える。 風呂屋の壁、絵葉書、毎年のカレンダーでも始終お目にかかるし、何よりその単純な紡錘状の山容は、一度目にすれば子供にも簡単に描ける。 深田久弥は、その単純で大きな山を「偉大なる通俗」と呼んでいる。「それは万人向きである。何人をも拒否しない、しかし何人もその真諦を掴みあぐねている(日本百名山)」
富士山の登頂記録は、633年に遡るそうだ。 これは人間が世界の高山に登った最古の記録で、1000年近く破られなかったという。 「世界各国にはそれぞれ名山がある。しかし、富士山ほど一国を代表し、国民の精神的遺産となった山は他にないだろう。」 けだしである。万葉の歌人や芭蕉、北斎はもとより、古代以前に東京の地に住み着いた縄文人たちも、今より遥かに海岸線の侵入した陸の岬から、「不二」を朝夕に眺めたことであろうから、その姿は日本人の脳裡に焼きつけられているに違いない。
今回の混雑を見ても、富士登山が容易になりすぎたきらいはあるけれど、次は御殿場口の砂走りも体験してみたいし、かつての富士講のように一合目からゆっくり時間をかけて登ってもみたいとも思うのだ。

(須走口五合目より富士山)
私は、もうずっと以前の1979年か80年と88年か89年の計2回、どちらも一般的なスバルライン五合目から登りましたが、登り始めのうちはスカートにサンダル履きの女性がいたり、頂上近くなると年配の方が路肩でへばっていて渋滞を引き起こしたりと、他の山登りではあまり目にしない光景にびっくりした記憶があります。
このところすっかり運動不足で、yasumaruさんの行動力を羨ましく思います