春というには、まだ随分と寒かった。
3月初旬の週末の天気は、曇りから霧のような雨にかわり、街は濡れそぼっていた。
それにもかかわらず、ヨーロッパの人々から「東のパリ」と呼ばれ、愛され続けてきたプラハは、中世から近代までの時間が、一つの空間の閉じ込められているような美しい街だった。
確かにパリには、石畳の丸くすり減った隘路から突然姿を現すゴシック寺院に遭遇する驚きや、セーヌの河畔から見はるかすサクレクール寺院やエッフェル塔がある。 プラハの景観は、規模が小さい分、もっと凝縮されて息づいている。 モルダウ河にかかるカレル4世橋は、何度も氾濫に見舞われてはいるが、中世の雰囲気を残す石造りであり、対岸のカテドラルの尖塔やセントジョージ寺院のバジリカとともにそびえるプラハ城は、ブタペストの華麗な城とは違う味わいを醸している。 街を初めて訪れた印象でいえば、パリよりもフィレンツエに近い。
プラハは、13世紀後半以降、ボヘミアの首都、中欧第一の街として栄え、1356年に神聖ローマ帝国の首都となり、皇帝カレル4世が即位すると、その栄華はローマやコンスタンチノープルに匹敵したという。 またルターやカルヴァンの宗教改革に遡ること100年、プラハ大学のヤン・フスがカトリック教会の改革をとなえるが、ローマ教皇の迫害を受け火刑となっている(旧市街の中央広場には、フスの銅像と泉がある。)
1618年には、ハプスブルグ家からボヘミア王となったフェルディナンド2世の治世に対抗して、プロテスタント派のプラハ市民が、国王の側近をプラハ城の窓から投擲するという事件がおき、有名な30年戦争に発展する。結局、ハプスブルグ家とカトリックのジャズイット派が勝利を収める形になり、神聖ローマ帝国の首都がウイーンに移されて街は急速に衰退した。
プラハでは、またユダヤ人のゲットーが明確な形で残っている。 観光名所ともなっているシナゴーク、土地が限られているため盛り土をして埋葬が重ねられ地面が高くなった墓地。 ホロコーストで亡くなった人の名前が壁に延々と書き連ねられた会堂など、一度見たら忘れられないものばかりだ。
かのフランツ・カフカもプラハのユダヤ人の血を引く家庭に生まれ、このゲットー周縁の家に住んだ。 中学からドイツ語学校に行ったというカフカの生立ちを辿ることができる小さなミュージアムが、中央広場のすぐ近くにある。 「城」や「審判」がこの街で書かれたのかと灌漑深い。
長くオーストリー・ハンガリー帝国の一部としてあったプラハは、チェコ語と独自のチェコ クラウンという通貨は維持するが、ほぼ完全にドイツ語圏にあり、英語も大概通用する。 ユーロ札はどの店でも使え、パブや街の至る所にある両替屋は深夜まで営業している。 商店街で初めて実物を見たマテリョーシカは、米粒より小さなサイズの人形に至るまで15個も入っていたのには驚嘆したし、ボヘミアングラスの琥珀やブルーは高貴に輝いていた。 スワロフスキーのシルバーも元はボヘミアから出たのだという。
ミュンヘンから350キロ、クルマで4時間足らずの距離にあるプラハだが、レーゲンスブルグを過ぎ、チェコ国境を越えて東に向かうと途中目立った街も森もない平地が続く。 肥沃で農業が盛んだとは思えなかった。 しかし、そうしてたどり着いたプラハの街は、「100塔の街」と綽名されるほどに多くの中世風の尖塔や教会が、旧市街の赤い瓦屋根の連なる街並みにアクセントを与えている。 そして、その真ん中をゆったりと流れるヴルダヴァ河(モルダウ河)と、それにかかる数本の橋の美しいアーチ状の橋脚が相まって、プラハは灰色の真珠のような薄く妖しい輝きを放ち続けていた。