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水村美苗 「日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で」

2009-02-18 | 読書(芸術、文学、歴史)
だから「続・明暗」は、出版年(1990年)からは相当遅れたが、以前興味をもって読んだ。「明暗」の文体を見事に駆使し、それなりの結末に導いていたと記憶する。 この作家にとって、これまで最大の作品であるはずの「本格小説」(2002年)も何度が手にとっては見たが、上下二巻の分量に尻込みして読まずにいた。 そして今回この刺激的な表題の本が出たのだが、これは小説ではなく評論だ。 「最近体調がずっと悪かった」と自身が断っているごとく、「新潮45+」に何年かかけて連載したものをまとめたようだ。全部で七章からなるが、最初の章に持ってきた「アイオワ大学での世界小説家研修へ参加」のエッセイは、当の雑誌の方でたまたま最近目にしていた。

続く第二章は、パリに招待され日本の小説に関する講演をした話しだが、最初の二章は、この「体調の悪い」作家が、日本語で小説を書くことの不可能性をやや愚痴っぽく綴る感がある。つまり「英語が普遍語となった今、英語を母語としない小説家がいかに不利な立場か(P.82)」という嘆きであり、12歳の時からの20年間アメリカに住んで教育をうけたものの英語に馴染めず、ようやく一大決心をして日本に帰り小説家になってみたが、日本の文学の状況は、かつての栄光とはかけ離れた有様で、「雄雄しく天をつく木(作家)が聳え立つ林はなく、平たい風景が一面広がっており、すべてが小さくて幼稚な遊園地のようだった(P.58)」と失望するのである。

第三章と四章では、日本が、明治維新後、西洋の世界に直面し、進んだ彼の地の文化や政治、社会を学ぶために、血の出るような努力をして、英語、フランス語、ドイツ語を習得し翻訳していく過程で、日本語が<国語>として成熟し、奇跡のような短期間で世界レベルの日本近代文学が花開いた経緯が語られる。著者が日本語と日本文学を心底愛していることが良く伝わってくるし、事例も豊富で楽しく読める部分だ。

同時に最近、日本語で良い文学が書かれず、小説が読まれなくなってしまったのは、世界のグローバル化とインターネット全盛の中で「普遍語」となった英語が、世界各地の<母語>、<国語>を侵食しているからだ。 「一つのロゴス=言語=論理」が暴政をふるう世界はなんとまがまがしいことか(p.93)」と、著者は大いに憤慨して見せるのだが、そこには少々論理の飛躍があるように思う。 というのも、グローバル社会の必然として英語を学ぶ人が増えたとしても、それを自分の<母語>として完全に読みこなし、ましてや書きこなすことは、全く容易なことではないからだ。 言葉とは、浴びるほどに読み、書く鍛錬を積んでこそ、その人の血となり肉となって思考力の源泉になることは、著者が一番良く知っているはずだ。むしろ英語が「普遍語」なのは大いに結構。 なぜなら「普遍語」があれば、今まで何十という異なった母語を学ばなければ相互理解が出来なかった国々の人達と、曲がりなりにも意志の疎通ができるようになるからだ。 それでもその対話の深さは、あくまで普遍語の習熟度に左右されるのである。かなり英語ができるようになっても、それで優れた文学を書くことはほとんど不可能だ。 もしろ本当にその言語を「読める」人が、自らの<母語>に訳したものを読んだほうが、はるかに鑑賞できる内容となる。 著者が指摘しているように、日本の先達が明治維新以降、必死に翻訳したきた膨大な海外の文学、三大ヨーロッパ言語の文学はもとより、ロシア文学、スペイン・ラテン文学、トルコ文学などを、日本語で全く問題なく素晴らしく堪能できるのだから。

Amazon.co.jpを見ると、本書に対する評価は相当分かれている。明治以降の近代文学の成立を、この黄金期の小説を耽読した著者が、「福翁自伝」や「三四郎」を引きながら辿る四章(「国語の誕生」)や五章(「日本近代文学の奇跡」)はとてもいいと思う。 そして「読みつがれるべき言葉」が読まれなくなり、書かれなくなっている現状を憂える気持ちは良く分かるし、映像や音楽など文学以外の多様な娯楽が出現し、書籍に代わるインターネット出版、オンライン「図書館」などが、本を読む貴重な時間を奪っているのも確かだ。 そこで最後の第七章で著者の提示する対策は、本人も月並みと断っているが、もっとちゃんと国語教育をしよう、ということだが、それを凡庸と非難するつもりはない。 読む習慣が、好きにさせる秘訣でもあるし、子供たちにしっかり読ませる教育は大切だ。

本書は、日本語と日本文学についてのかなり優れた知識を持って書かれているし、専門家の文学史家や学者でもない限り読む価値はあると思うが、著者が答えを見つけたかった、なぜ今、多くの人をひきつける本物の文学、「読み継がれるに値する文学」が少なく、幼稚な遊園地のような光景が日本文学に現出しているかは、結局突き止められてはいない。 本は確かに読まれなくなった。 特に長い小説などはそうだろう。 メールやインターネットで情報の交換が瞬時に行えるようになれば、ゆっくり考えて書いたり、読んだりする機会は減る。 それが人間の思考力を衰退させているのも確かかもしれない。 現代でも優れた小説や文学は、時に生まれているはずなのだが、文芸批評というものがほとんど廃れ、売り手の流通システムに乗っているだけでは、良い本がそれと紹介されない、何が本当に良いか分かり難い、という悩ましい状況がある。 

しかし、かつてのように多くの人が日常的に小説を話題にしなくなったとしても、「読み継ぐ」人達、「叡智を求める人間」がいなくなるということはないだろう。小説の販売部数は減ったかもしれないが、代わりにこれだけ多くの人が、何千万というHPやブログで「書いている」のである。 その中には、著名な文筆家や学者顔負けの知性も潜んでいるかもしれない。 本書についてのamazon.co.jpの23の読者コメントのうちには、なるほどと思わせる意見や批評も含まれている。

日本人は、潜在的に良い小説に、面白い文学に巡りあいたいと思っているはずだ。日本語が完全に英語に取って代わられることは当面ないし、世界の「une literature majeure」と認められている日本文学はそう簡単に滅びはしないだろう。著者が言うとおり、国語と国民国家は分かちがたく結ばれているわけで、日本でもし英語しか話されない時代が来れば、それはもう日本ではない。「カラマーゾフの兄弟」の新訳が(たとえ簡便な訳で全部で5巻もあるにしても)「100万部突破」するような国は、おそらく世界のどこにもないはずだ。

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