東京で誕生日を迎えるのは、多分17回目だろうが、この日に桜がちょうど満開となるのは初めてかもしれない。 しかも空は青く晴れわたりポカポカと温かく、日本の春を絵に描いたような日曜日となることは一生のうちにも、何度もあるとは思えない。
先週末は、金曜朝から家族で仙台と石巻に向かった。 4月から大学に進学する娘に、被災地を見せておきたいと思った。 東北道を白石インターで降りて岩沼市に出、仙台東部道路を北上する。名取インターで降りて、海岸のほうへ行ってみる。 昨年8月に来たときは、進入禁止になっていた道路が通れて港の傍まで入れた。 瓦礫はキレイに片付けられてはいるが、基礎だけ残った家の跡に、新しい建物を建てる気配はない。
荒浜のあたりの広大な浸水地は、許可車両のみの通行となっているのは、前回と一緒だった。 このあたりは多分、緑地公園にでもするのであろうか。 仙台東インターから再び有料道路に乗り、利府ジャンクションで南三陸道路に入り石巻方面に向かう。 途中、松島海岸インターで降りて、まだ行ったことのなかった松島に立ち寄った。 日本三景に数えられる景観は、多分小島の浮かぶ湾内を周遊船から鑑賞しないと良さがわからないのだろう。 津波は、海の傍の公園も浸水させたはずだが、松の木は枯れてはおらず、本当にここが被害が受けたのかを訝るようだった。
石巻市内で昼食と思っていたが、既に13時近かったので、道路沿いの観光客向けのお寿司屋に入り、家内と私はお任せ寿司をいただいた。 一人3,800円とかなり値段が張ったが、地元のあなごの蒲焼が丸一尾分載っていたし、この店も1m近く浸水し8月まで営業が出来なかったと、お上さんがファイルに入った写真を見せてくれたので、これも支援のうちかと納得する。 隣のテーブルに来た子供連れの家族は、水戸からだった。 娘はアラカルトだったが、仙台牛を炙った握りを美味しいとお代わりをした。
クルマを駐車した土産物屋でデザートにずんだ餅を賞味し出発。 内陸を走る南三陸道には戻らず、海沿いの奥松島パノラマラインをとおり、野蒜から東松島市を通る。 このあたりは常磐線が海沿いを走っており、野蒜駅は津波の直撃を受けたようで、破壊の爪あとが残る。 石巻では、まず昨年6月にPBのボランティアでお手伝いした石巻港に近い浦屋敷地区のお宅の辺りにクルマで入った。 瓦礫は当時より撤去が進んでいたが、住民の方が戻っている家は思いの外少ないようであった。 お手伝いしたCさん宅にはクルマがあり、お住まいのようであったが、その前の家は、キレイになくなって敷地だけとなっていたのにはちょっと驚いた。 庭の泥だしの作業中に、そのお宅の亭主さんが、ここは家を建替えていいのか市の方針が決まらないので困っていると言っていたが、どこかに移ってしまったのであろうか。 東海カーボンや日本製紙の工場のある石巻港から1キロあまりしか離れていないこのあたりは、一階の天井まで浸水し全壊の家屋がほとんどだ。 Cさん宅のように、戻ってきて2階に住み、一階も徐々に手を入れている住民は全体の3分の1にも満たないようだ。 破壊された空き家に囲まれて住むのは決して安全上も好ましくはないのだろうが、それ以外移り住むところもない方もいらっしゃるのだろう。
浦屋敷を跡にし、海岸に近い道路を門脇地区に向かう。 大きな火災が起きて、焼け野原のようになったこの地区は、新しいアスファルトの車道が一本通るだけで、両側はわずかの建物を残して何もない平地になってしまっている。 「ガンバロウ石巻」の看板があるが、この地区は土を盛って緑地公園にすることが決まっていると、この街出身の仙台の販売店の方が翌日教えてくれた。 3階まで全焼した門脇小学校は、烈火で燃え続けたことで知られるが、白い校舎に開いた窓の周辺が黒く焼けただれ、たくさんの黒い穴が底知れぬ深さをみせて、遠めにも長く凝視することは難しかった。 亡くなった人たちのものであろう墓石がその両側にはたくさんあって、遺族の方がクルマで訪れたりしていた。
門脇町を後にして、石巻港から旧北上川の上を、石巻漁港や女川へ通じる大きな橋を渡る。 海面から10メートル以上を渡るこの橋は、流されずにすんだようだ。 石巻は、有数の漁業、水産加工業の街であったが、まだそのほんの一部しか回復していないと報じられている。 日中ということもあったが、確かに漁港あたりに人の気配や喧騒は感じられず、新しい建物の槌音も聞かなかった。
ここで、女川町から雄勝湾をめぐり旧北上川に出て、明日の北上川清掃ボランティアの場所を確認し、あわよくば南三陸町まで走るかとも考えたが、海に突き出した牡鹿半島の真ん中あたりにある女川原発を眺めに行くという誘惑に駆られた。 ナビは、直進して女川町役場などの中心部から、牡鹿半島の北側の道路で行くルートを示していたが、半島の南の海岸を走る県道2号線に入った。 荻浜中など津波が洗った幾つもの小さな入り江を通り抜けたが、道路は地震の影響で至る所でウネリや段差があって、柔らかめのサスペンションのパサートワゴンは大きくストロークすることが頻繁であった。 半島の中央部、尾根近くを走る有料道路は、がけ崩れのためなのか通行止めで、原発には、表(南側)の海岸線を大きく迂回してから遡るルートを取ることになり、思ったより時間がかかる。 しかも、時々に現れる浜は一様に津波にやられており、結局原発まであと数キロという浜で道路工事をしているところで引き返すことになった。 あと少しだったのだが、16時になり、どこを走っているかわからない同乗者たちが気味悪がって引き返すことを主張した。
(冷温停止しているはずとはいえ、原発の至近距離に行くことは、なんとなく不気味な感じがしたのも事実だ。)
帰りは、JR石巻駅周辺をとおり、再び南三陸道に入ったが、片側一車線で結構渋滞している。 東北の有料道路無料が3月末で終わるので、同じように春休みを利用して他県から入ってきたクルマが多いようだ。 仙台-石巻間は、一時間半は見ておかないと厳しい。 結局、東北道の泉インターから降りて、投宿するベストウェスタン仙台に着いたのは、もう7時近かった。 このホテルのまん前には、巨大なコンクリートの観音菩薩像が建っている。 夜目にはちょっと不気味だ。
翌日は、午前中、家族をホテルに残し、仙台南道路を通って、仙台アズテックのエコドライブトレーニングを覗く。 100メートルしか離れていないところに系列販売店があり、ここに挨拶に行くと、なんと店長が石巻市門脇町の出身であった。 正午前に現場を後にして、ホテルで待つ家族をピックアップに走るが、雨も降り出し、道は朝とは違ってかなりの交通量で、結局ホテルに着いたのは、13時。 14時の北上川でのボラ集合時間には、絶望的に間に合わない時間となった。 短時間でも初めてのボランティアを楽しみに待っていた娘が不機嫌なのがわかる。 東北道から南三陸道にはいるが、利府から松島まではやはり渋滞。 石巻市内で二車線になった区間などで飛ばすが、既に14時を回らんとしている。 河北インターでようやく南三陸道を降り、北上川を渡り、飯野川の立派な道の駅を横目で見ながら、あとは受付が遅れていることに一縷の望みをかけて、堤防上の道をすっ飛ばす。 何回かクルマが大きくバウンスし、ギャッと声が車内に響く。
14:20、集合場所の熊谷産業と思しき場所について見れば、ボラ参加者のクルマが、今まさに出発せんと列を作っていた。 クルマの列の傍に立つスタッフと思しき若者に声をかけ、なんとかギリギリセーフで間に合った。 クルマを止め、素早く雨具を羽織り、長靴を履いて、建物の中で受付を済ませる。 後はスタッフのクルマに付いて、堤防の道を来た方角に2キロほど戻ったところが、今日の河畔の清掃作業場所であった。 既に30~40人が作業を開始しているのが見える。 堤防道路のクルマ一台分の路肩に駐車したとき、東京から野口さんを伴ったボランティアバスがちょうど到着した。
北上川の河口からおよそ7,8キロ上流のこのあたりでも、対岸の堤防との距離は、500メートル以上はあるであろうか。 ヨシの繁茂する美しい河原に、津波で流されてきた樹木の枝や家の構造材の端くれなどが、たくさん散らかっている。 茶色っぽく生えてはいるが、枯れているように見えるヨシ原を再生させるには、人手による清掃が必要だということで、登山家の野口健氏が呼びかけているプロジェクトで、作業は今回が2回目である。 地元の「リアスの海を守る会」というNPOと一緒に、東京からバスで参加した人、地元の人、現地集合の人たち総勢100人以上で、2時間足らず、降り出した雨の中の作業であった。 野口氏も精力的に動き、大きな木などを一緒になって担いでいた。
16時半には作業を終えて、強くなってきた雨の中、終礼で野口さんが挨拶。クルマで集合場所に戻り、NPOの名前が入った赤いエプロンを返却する。 ここでハプニングがあった。 東京からボランティアを乗せてきた大型バスが、堤防の路肩に駐車したはいいが、駆動輪が柔らかい盛土の地面に食い込みスタックしてしまったのだ。 野口さんを始め、何十人ものボランティアが雨の中、車内にも入れずレッカー車の救援を待つという事態になった。 地元の小型牽引トラックが間もなく現場に到着したが、巨大なバスをあの柔らかい土壌から救出できるのかわからない中を、自家用車で現場を後にするのは少し後ろめたい感じであった(ほどなく脱出でき、一行は仙台のホテルに入ったことが、参加者のTwitterで間もなく知れたが。)
多くの子供たちが津波の犠牲になり、ニュースでも繰り返し報道された大川小学校は、新北上橋を渡れば目と鼻の先の距離ではあったが、雨も強くなり、あえて見に行きたいという強い気持ちももはや起きなかったので、そのまま来た堤防の道を引き返し、飯野川の道の駅でトイレ休憩と買い物をした。 地元の野菜や海産物などを買い込んだ。 また、河口近くの長間地区の夫婦が書いた津波体験の手記 「海に沈んだ故郷-北上川河口を襲った巨大津波。避難者の心、科学者の目」(堀込光子、堀込智之)もレジした。 被災時から避難生活にいたる夫人の詳細な手記と、津波研究家の夫による被害現場の検証が詳しく、地形によって大きく変わる津波の高さや進路の解説、段波や巻波が起こるメカニズムなどが詳しい。
帰路。 石巻と仙台の間の南三陸道を走るは2日間で4度目になる。 進行方向の西の空が次第に暮れていくが、18時過ぎてもまだ真っ暗ではない。 19時前には、東北道泉インターを下りて地下鉄 泉中央駅傍の牛タン屋に転がり込む。 混んでいて15分くらい待ったが、牛タンづくしのセットで1500円とリーズナブルであった。 20時過ぎ、仙台を後にする、あとは時に眠気と戦いながら、一路東北道を南に下る。 途中福島に入ってから一時間半ほど家内が運転を代わった。 横浜の自宅にはちょうど深夜1時前に帰着。 入浴して床に就いたのは、2時を回っていた。 二日間の走行距離は1200キロを越えてさすがに疲れたが、日曜はまたお台場のイベントに出かけ、疲れは翌週半ばまでとれなかった。