小学校低学年の頃である。
兄たちが、『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)をテレビでやると興奮していた。
そしてその当日、兄の同級生の家で、我々低学年の子供もどうにか観せてもらえることになった。
ただし、テレビのある座敷には上がらせてはもらえないのである。
土間から、遠くにあるテレビの画面を必死になって凝視するより仕方がなかった。
と言っても、内容はわからず、兄たちが夢中な様子を見て、それだけですごい映画なんだと、こちらも夢中になった。
もっとも、当時はテレビ自体がめずらしく何かが映っていればよかったのである。
その後、高校生の頃か、NHKで放映されて観た時は、実にすごいと思った。
三人の男がそれぞれ丘に集まって来る。流れる主題歌。これが冒頭シーンである。
不気味な雰囲気で、何かが起こりそうでのっけから目が離せない。
結婚式を終え、町を去ろうとする保安官だったゲーリー・クーパーと妻のグレイス・ケリー。
ふたりは馬車で町を離れる。と、立ち止まった馬車は引き返してくる。
クーパーが捕まえた悪漢ミラーが釈放されて、復讐のために列車で町にやって来るのである。
その時刻が正午、「ハイ・ヌーン」。
クーパーが、保安官のバッチを再度つけて、町の人たちに協力を求めるが、みんな及び腰。
刻々と迫る正午。一人、遺書を書くクーパー・・・・
映画時間と実時間をマッチさせた進行は緊張感をより一層増していく。
クーパーの妻と、元愛人とのホテルの待合室での遭遇。人としてのプライドとはこういうものかと二人を見て思う。
そして陰の伏線が、妻のグレイス・ケリーがクエーカー教徒であるということ。
教徒として、暴力は誤りであるという信念から、グレイス・ケリーにとって決闘なんてことはもっての外である。
何気ない設定だが本人としての意味合いは重大であり、後半の決闘シーンの山場にもなっている。
やはり、宗教より愛か、と私は勝手に思うが、アメリカ人にとってはもっと深刻な話に違いないと感じる。
この映画はシナリオが素晴らしいし、後にモナコ王妃となった彼女も何ともいえないほど美しい。
この映画をどうしても劇場で観たいと思っていて、二十歳前の頃にやっと名画上映館で観ることができた。
その時は本当に感動してしまった。やはり、映画は映画館で観るのが一番であるとつくづく実感した。
その後、結婚したての頃、またテレビで放映したので、風邪で熱を出し寝ていた妻を無理やり起こし、
布団を身体に巻き付けた状態で座らせて観せた。どうしても観てほしかったのである。
その後も何度か観たが、今では購入した廉価版のDVDをたまに観て楽しんでいる。
1959年にハワード・ホークスが、『真昼の決闘』は保安官が一般市民に協力を求める姿が気に食わないとして、
『リオ・ブラボー』を作った。
『リオ・ブラボー』も一級娯楽作品として素晴らしいけれど、やはりいつまでも心に響くのはこちらじゃないだろうか。
断わり。
すごく印象に残った作品を、後々に懐かしく見直してみると、記憶に残っている場面がなかったり、全然違っていて、
ビックリすることがある。
今後、個々の作品のことを書くとした場合、「実際の作品の場面にそんな箇所はない。間違っている、インチキである。」
というようなことが多々出てくるかもしれない。
このブログは、人に作品の紹介を目的として書くのではなく、自分自身の思い出話なのである。
故・淀川長治さんのように作品の場面、場面を精確に思い出し語れれば素晴らしいけれど、良かったな、面白かったな、
の印象を積み重ねた私ではそうはいかない。
しかし、間違った記憶であるとしても、それは私なりに糧になっていると思うし、私自身の心象風景である。
であるので、私の記憶にあるとおりの紹介になると思っている。
兄たちが、『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)をテレビでやると興奮していた。
そしてその当日、兄の同級生の家で、我々低学年の子供もどうにか観せてもらえることになった。
ただし、テレビのある座敷には上がらせてはもらえないのである。
土間から、遠くにあるテレビの画面を必死になって凝視するより仕方がなかった。
と言っても、内容はわからず、兄たちが夢中な様子を見て、それだけですごい映画なんだと、こちらも夢中になった。
もっとも、当時はテレビ自体がめずらしく何かが映っていればよかったのである。
その後、高校生の頃か、NHKで放映されて観た時は、実にすごいと思った。
三人の男がそれぞれ丘に集まって来る。流れる主題歌。これが冒頭シーンである。
不気味な雰囲気で、何かが起こりそうでのっけから目が離せない。
結婚式を終え、町を去ろうとする保安官だったゲーリー・クーパーと妻のグレイス・ケリー。
ふたりは馬車で町を離れる。と、立ち止まった馬車は引き返してくる。
クーパーが捕まえた悪漢ミラーが釈放されて、復讐のために列車で町にやって来るのである。
その時刻が正午、「ハイ・ヌーン」。
クーパーが、保安官のバッチを再度つけて、町の人たちに協力を求めるが、みんな及び腰。
刻々と迫る正午。一人、遺書を書くクーパー・・・・
映画時間と実時間をマッチさせた進行は緊張感をより一層増していく。
クーパーの妻と、元愛人とのホテルの待合室での遭遇。人としてのプライドとはこういうものかと二人を見て思う。
そして陰の伏線が、妻のグレイス・ケリーがクエーカー教徒であるということ。
教徒として、暴力は誤りであるという信念から、グレイス・ケリーにとって決闘なんてことはもっての外である。
何気ない設定だが本人としての意味合いは重大であり、後半の決闘シーンの山場にもなっている。
やはり、宗教より愛か、と私は勝手に思うが、アメリカ人にとってはもっと深刻な話に違いないと感じる。
この映画はシナリオが素晴らしいし、後にモナコ王妃となった彼女も何ともいえないほど美しい。
この映画をどうしても劇場で観たいと思っていて、二十歳前の頃にやっと名画上映館で観ることができた。
その時は本当に感動してしまった。やはり、映画は映画館で観るのが一番であるとつくづく実感した。
その後、結婚したての頃、またテレビで放映したので、風邪で熱を出し寝ていた妻を無理やり起こし、
布団を身体に巻き付けた状態で座らせて観せた。どうしても観てほしかったのである。
その後も何度か観たが、今では購入した廉価版のDVDをたまに観て楽しんでいる。
1959年にハワード・ホークスが、『真昼の決闘』は保安官が一般市民に協力を求める姿が気に食わないとして、
『リオ・ブラボー』を作った。
『リオ・ブラボー』も一級娯楽作品として素晴らしいけれど、やはりいつまでも心に響くのはこちらじゃないだろうか。
断わり。
すごく印象に残った作品を、後々に懐かしく見直してみると、記憶に残っている場面がなかったり、全然違っていて、
ビックリすることがある。
今後、個々の作品のことを書くとした場合、「実際の作品の場面にそんな箇所はない。間違っている、インチキである。」
というようなことが多々出てくるかもしれない。
このブログは、人に作品の紹介を目的として書くのではなく、自分自身の思い出話なのである。
故・淀川長治さんのように作品の場面、場面を精確に思い出し語れれば素晴らしいけれど、良かったな、面白かったな、
の印象を積み重ねた私ではそうはいかない。
しかし、間違った記憶であるとしても、それは私なりに糧になっていると思うし、私自身の心象風景である。
であるので、私の記憶にあるとおりの紹介になると思っている。