ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

『ジミー、野を駆ける伝説』を観て

2016年06月09日 | 2010年代映画(外国)
前回に続けてケン・ローチ監督の作品を観る。題名は『ジミー、野を駆ける伝説』(2014年)。

1932年、国を分断した悲劇的な内戦終結から10年を経たのアイルランド。
アメリカで暮らしていた元活動家のジミー・グラルトンが、10年ぶりに祖国の地を踏み、リートリム州の故郷に帰って来る。
かつて地域のリーダーとして絶大な信頼を集めたジミーは、気心の知れた仲間たちに歓待され、昔の恋人ウーナとも再会。
彼の望みは、年老いた母親アリスの面倒を見ながら穏やかに生活することだった。

しかし、村の若者たちの訴えに衝き動かされ、内にくすぶる情熱を再燃させたジミーは、ホールの再開を決意。
仲間たちも協力を申し出る。かつてジミー自身が建設したそのホールは、
人々が芸術やスポーツを学びながら人生を語らい、歌とダンスに熱中したかけがえのない場所だった。
やがてジミーの決断が、図らずもそれを快く思わない勢力との諍いを招いてしまう……。
(Movie Walkerより)

ジミーと共に、ホールの再開させようとする若者たちのその熱意は、ホール自体が目的ではない。
その集会所でアメリカ仕込みのダンス等をすることは、旧世代の物の考え方からの自由の獲得である。
そのようにして、搾取する側から労働者階級が団結しコミュニティ形成していけないか。
そのことをケン・ローチは訴え、作品を堅苦しくしないために、ホールを象徴として利用する。

ホール利用が活発になると、絶大なる権力を持つ者は、彼らの支配を揺るがす可能性があるものとして、それを恐れる。
神父シェリダンは、心無い妨害を仕出し、教会以外での教育等は認めないと言い出す。
その迫害の目的は、権力側による労働者間の断絶と団結阻害にある。
それに対して、ジミーはみんなの意見を聞いたうえで、会場とは決して言えないような場所だが、演説をし仲間を鼓舞する。

この映画は、古い時代のアイルランドを舞台にしている。
しかし、ジミーが演説するその内容、糾弾する問題はいまだに世界中で解決されず、考え方は現代への警鐘である。
ジミーは演説の最後で言う。
“欲を捨て誠実に働こう。ただ生存するためでなく喜びのために生きよう。踊って歌うために。自由な人間として!”

国外に強制追放させられるジミーに、みんなが声援するラストは、未来には一筋の希望があり、それに向かって頑張っていこうという明るさに満ちている。

ケン・ローチは常に、労働者側に立った映画を作る。
その考え方が端的に表れていると思われる言葉を紹介しておこうと思う。

<以下は、サッチャー元首相が逝去し、その葬儀に800万ポンドかかると言われて答えた時の言葉>

マーガレット・サッチャーは、現代において、もっとも分断と破壊を引き起こした首相でした。
大規模な失業、工場群の閉鎖、地域社会の破壊。それが彼女の残した遺産だったのです。
なるほど彼女は闘士でした。
が、その矛先はイギリスの労働者階級に向けられていたのです。

彼女は、政治的に腐敗した労働党の指導者たちや、組合のあまたのダラ幹たちの協力で、勝利を得ました。
私たちが置かれている現在の悲惨な状態は、彼女の政策が起源なのです。
のちの首相たち、とりわけトニー・ブレアは、彼女とおなじ道のりをたどりました。
彼女こそが猿芝居のオルガン弾きであり、彼はその猿だったのです。
彼女が、マンデラをテロリストと呼び、虐待者であり殺人鬼であるピノチェトを、お茶に招いていたことを忘れることはできません。

私たちはどのように彼女を讃えるべきなのか?
彼女の葬儀を民営化しましょう。競争入札にかけて、最安値を提示した業者に落札させるのです。
(それこそが彼女のやってきたことであり、)きっと彼女も本望でしょう。 
(おや爺のブログ訳を流用)
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