ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

成瀬巳喜男・10~『山の音』

2020年03月03日 | 日本映画
『山の音』(成瀬巳喜男監督、1954年)を観た。

尾形信吾は、妻の保子、息子の修一、その嫁の菊子と一緒に鎌倉で暮らしている。
修一は、重役である信吾の会社に一緒に勤めている。
信吾は、美人で笑顔を絶やさず家事を献身的に行う菊子に好感を抱いていた。
しかし修一は他に女を作り、夜遅くになって帰る日々が続く。

そのような状態の時、嫁いでいる娘の房子が夫に愛想がつきたと二人の子供を連れて、父親である信吾の家に帰ってくる。
房子は、菊子にまだ子どもがいないことや、自分が菊子のように美人だったら、と嫌みを言う。
それに対し、信吾は菊子にも苦労があると、彼女をかばう・・・

舅信吾は何かにつけ、嫁の菊子をいたわり、慈しむような愛情も抱いている。

残念ながら私は、川端康成のこの名作を読んでいない。
だから信吾が、妻保子の若くして亡くなった姉の面影を菊子に見いだしているらしいことは、この映画では表れていない。
あるのは、嵐の夜、保子が「姉が死ななければあっちをお貰いなったでしょう」と言うセリフぐらいである。
そのため、信吾が菊子を不憫に思う気持ちはわかるが、説得されるような動機までに至っていない。

修一にしたって、会社の事務員谷崎や、彼の愛人絹子の同居人である池田との関係が、何だか余りにも近すぎて、
観ていて、絹子が本当に登場するまで、彼女は池田のカモフラージュかと錯覚するほどの人間関係の曖昧さがあったりする。
それに加えてシナリオの弱さは、ラスト辺りで、父信吾が会社で修一に、「今日お前に話すことがあるから早く家に帰れ」と言っていて、
その重要な場面が後に展開されるはずなのに、この後、菊子との別れのシーンで作品は終わってしまっている。

このように見てくると、やはりこの作品は原作を知っていることがベースになっているのか。
そうだとすると、映画は映画で独立していてほしいと思う。

だがこのようにアラを探しても、この作品は強烈な印象を持ち、かつ優れている。
それは一にも、原節子に負っている。
このような控え目で献身的な妻を、なぜ夫修一はそこまで冷淡に扱うのか。
その夫を演じる上原謙が、憎たらしいほど冷たくって際立っている。
こんな綺麗な奥さんを持っていれば、自慢こそすれ邪険にできるはずないのに、このバカが、とつい思ってしまう。
だから余計、原節子の不憫さが目立つ。
そして、舅信吾の山村聡が菊子をいたわればいたわるほど、反って彼女に対しての残酷さが明確になってくる、そんな印象深い作品だった。
コメント
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