ポケットの中で映画を温めて

今までに観た昔の映画を振り返ったり、最近の映画の感想も。欲張って本や音楽、その他も。

清水宏・2~『有りがたうさん』

2020年07月15日 | 日本映画
以前にも観たことがある、『有りがたうさん』(清水宏監督、1936年)を観てみた。

鉄道のある町まで天城街道を峠二つ越えて走る定期乗合バスが、南伊豆の港町を出発する。
東京に売られてゆく若い娘と母親、いわくありげな黒襟の女、偉ぶった髭の男、その他が客として乗り込む。
運転手は若い青年で、バスに道を譲ってくれる人たちに「ありがとう」と挨拶をすることから“有りがたうさん”と呼ばれている。

出発したバスの車内では、男の客が娘の母親に向かって、「娘さんで良かった、男の子だったら働こうにも働き口がない」と世間話をする。
それを聞いていた運転手も「この頃は毎日失業者が村に帰ってくる」、と合わせる。
それに対して、“有りがたうさん”のすぐ後ろに座っている黒襟の女が、「それでも帰る家がある人は幸せだよ、私なんかは帰る家も分からなくなってしまった」と言う。

そのような人々を乗せて、バスは走って行く・・・

この映画は、オールロケによるため、当時としては先駆的だったと言われている。
そればかりか、車内の人たちの会話と、舗装もされていない山道を行く人々の情景から、その当時の世相が見てとれる。

それは例えば、
すれ違うバスが止まった時に、知り合いのおばさんから「娘さんはどちらへ」、と聞かれた娘の母親が「東京まで」と答えると、
そのおばさんの娘が、「私、東京で“水の江ターキー”を見てきたのよ」とか話す。
また、道を歩いている旅芸人がバスを止めて、後から歩いてくる娘たちのためにことづけを頼んだりする。
そればかりか、村の娘もやはりバスを止めて、流行歌のレコードの購入を依頼したりする。

当時の時代背景は、相当暗い。
産気づいた家に行くために、途中から乗って来た医者は、
「不景気で増えるのは赤ん坊ばっかり。男の子はルンペン、女の子は一束いくらで売られていく。」と話す。
それを聞いている母親と娘。
この17歳の娘は、今まさしく売られていく途中なのだ。

バスがトンネル前で休憩する。
追いかけてきた道路工夫として働く朝鮮労働者の娘は、「道路工事が終わって信州のトンネル工事に行くの」と言う。
「ここで亡くした父のお墓の前を通る時は、時々水をまいてお花を差してあげてね」と、“有りがたうさん”にお願いする。
駅まで送ってあげるよと言う“有りがたうさん”に、娘は、「みんなと一緒に歩くの」と言うのが、印象深い。

“有りがたうさん”は、シボレーのセコハンが安く手に入りそうだから自分でバスの開業をしようと考えている。

二つ目の峠を越える時、
“有りがたうさん”は、「この秋になって、もう8人峠を越えたんだよ。峠を越えた女はめったに帰って来ませんよ」と言う。
彼は、売られていく娘が気になるし、秘かに惹かれている。
黒襟の姐さんはそれに気づいていて、「有りがたうさん、東京にはきつねや狸ばっかりなんだよ。
シボレーのセコハン買ったと思えば、あの娘さんはひと山いくらの女にならずに済むんだよ。
峠を越えた女はめったに帰って来ないんだよ」、と促す。

この黒襟の姐さんが、桑野通子でとっても魅力的である。
“有りがたうさん”は上原謙。
そう言えば、桑野通子の娘、桑野みゆきは若くして引退したし、上原謙の息子、加山雄三は今ではおじいさん。
それを考えれば、随分と古い古い映画だけど、この作品はいつまで経っても共感できる要素がある。
それは、世相を反映しての暗い内容とせず、ユーモアと、上原謙の明るさ善良さが前面に出ていることも関係しているかも知れない。

翌日バスは、売られていくはずだった娘と母親を乗せて、帰り道を港に向かって走る・・・
コメント (2)
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