キム・ギトク監督のドキュメンタリー作品『アリラン』(2011年)を観た。
世界的映画監督のキム・ギドクは、2008年の『悲夢(ヒム)』の撮影中、ある女優が命を落としかけるという事故にひどくショックを受ける。
そのことが尾を引いて映画を撮れなくなった彼は、トイレもない粗末な小屋に移り住み、家の中にテントを張って暮らし始める。
薪ストーブで炊事する孤独な彼を慰めてくれるのは一匹の猫だけだった。
(シネマトゥデイより)
村のはずれの山あいにある一件の小屋。
周りが覆われていないような小屋だから、寝泊まりはテントの中。
用を足す時は、外で土に小さな穴を掘る。
冬は雪を鍋に入れて、ストーブで湯を作る。
そんな生活だから、たぶん風呂もない。
この映画はドキュメンタリーだが、ギドク自身が言うようにドラマでもあり、ファンタジーにもなっている。
ギドクは、3年にも亘りこのような隠遁生活することになった事について語る。
『悲夢』のラスト辺り。ヒロインの“イ・ナヨン”が、収容所の中で首を吊るシーンの撮影中に、彼女が死にかけたという。
ギドクは、そのことに強い衝撃を受け、映画を撮ることの意味を考え直さざるを得なくなったという。
映画を作るために、一人の人生を断ち切ったかもしれないという痛恨の念。
そんなギドクに、もうひとりのギドクが語りかける。
そして、生のギドクの言うことに疑問を投げかけ叱咤する。
二人のギドクが、このような形で自問自答を繰り返す。
映画についての想い。
それが今では、あの事故がトラウマとなって撮れないこと。
また、ギドクを慕ってきた弟子についても語る。
彼らが資本主義の誘惑に負けて、ギドクのもとを離れていったこと。
ギドクは悩み、葛藤し、そして怒りもし、挙句は泣き出してしまう。
それを、もう一人のギドクが冷静に客観的に見つめ、意見をする。
「アリラン」を歌うキム・ギドク。
熱唱し、ついには泣き唄となってしまう「アリラン」。
アリランは“自らを悟る”という意味の朝鮮民謡。
恨(ハン)の思いがこもった「アリラン峠における上り坂、下り坂」の歌詞は、ギドクにとって人生そのものとなり、そのために感極まって涙を流す。
ラストでギドクは、手製の拳銃によって“引きこもっている自分”を自殺させる。
このことは、自分が落ち込んでいる境遇からの脱出、と解釈すると、この先の自分に希望を見い出しているとも取れる。
この作品で、さすがだなと感心するのは、ギドク一人だけですべて行っているのに、撮影はあたかも第三者の手によっているみたいに見えること。
ただギドクに興味がない人が、この映画を観た場合、或いはなんら面白くも何ともないかもしれない。
そうであっても、これは仕方がないことだと思う。
何事も興味の持ち方は人それぞれだから。
世界的映画監督のキム・ギドクは、2008年の『悲夢(ヒム)』の撮影中、ある女優が命を落としかけるという事故にひどくショックを受ける。
そのことが尾を引いて映画を撮れなくなった彼は、トイレもない粗末な小屋に移り住み、家の中にテントを張って暮らし始める。
薪ストーブで炊事する孤独な彼を慰めてくれるのは一匹の猫だけだった。
(シネマトゥデイより)
村のはずれの山あいにある一件の小屋。
周りが覆われていないような小屋だから、寝泊まりはテントの中。
用を足す時は、外で土に小さな穴を掘る。
冬は雪を鍋に入れて、ストーブで湯を作る。
そんな生活だから、たぶん風呂もない。
この映画はドキュメンタリーだが、ギドク自身が言うようにドラマでもあり、ファンタジーにもなっている。
ギドクは、3年にも亘りこのような隠遁生活することになった事について語る。
『悲夢』のラスト辺り。ヒロインの“イ・ナヨン”が、収容所の中で首を吊るシーンの撮影中に、彼女が死にかけたという。
ギドクは、そのことに強い衝撃を受け、映画を撮ることの意味を考え直さざるを得なくなったという。
映画を作るために、一人の人生を断ち切ったかもしれないという痛恨の念。
そんなギドクに、もうひとりのギドクが語りかける。
そして、生のギドクの言うことに疑問を投げかけ叱咤する。
二人のギドクが、このような形で自問自答を繰り返す。
映画についての想い。
それが今では、あの事故がトラウマとなって撮れないこと。
また、ギドクを慕ってきた弟子についても語る。
彼らが資本主義の誘惑に負けて、ギドクのもとを離れていったこと。
ギドクは悩み、葛藤し、そして怒りもし、挙句は泣き出してしまう。
それを、もう一人のギドクが冷静に客観的に見つめ、意見をする。
「アリラン」を歌うキム・ギドク。
熱唱し、ついには泣き唄となってしまう「アリラン」。
アリランは“自らを悟る”という意味の朝鮮民謡。
恨(ハン)の思いがこもった「アリラン峠における上り坂、下り坂」の歌詞は、ギドクにとって人生そのものとなり、そのために感極まって涙を流す。
ラストでギドクは、手製の拳銃によって“引きこもっている自分”を自殺させる。
このことは、自分が落ち込んでいる境遇からの脱出、と解釈すると、この先の自分に希望を見い出しているとも取れる。
この作品で、さすがだなと感心するのは、ギドク一人だけですべて行っているのに、撮影はあたかも第三者の手によっているみたいに見えること。
ただギドクに興味がない人が、この映画を観た場合、或いはなんら面白くも何ともないかもしれない。
そうであっても、これは仕方がないことだと思う。
何事も興味の持ち方は人それぞれだから。