『ラルジャン』(ロベール・ブレッソン監督、1983年)を観た。
現代のパリ。
高校生のノルベールは、父親にお金をもらおうとして断られ、借金を返せなくなり、クラスメートの友人に相談。
彼はノルベールに一枚の500フラン札を渡すがそれはニセ札で、カメラ店で安い額縁を買い女主人からツリを貰う。
後にニセ札だと気づいた主人は妻をなじったが、ガソリンの集金に来た若い店員イヴォンに黙って支払った。
それをカフェの昼食代に使おうとしたイヴォンは、カフェの店主と争って警察に通告された。
イヴォンは刑事とともにカメラ店に行き、潔白を証明しようとするが、主人はイヴォンの顔に見おぼえがないという。
幼い娘と妻エリーズがいるイヴォンは裁判に掛けられ、カメラ店の若い店員リュシアンも偽証して・・・
(Movie Walkerより)
その後、イヴォンは有罪にはならなかったが失職し、理由も知らずに銀行強盗の片棒を担ぎ、再び逮捕される。
結果、3年間入獄することになる。
その獄中のイヴォンのもとをエリーズは黙って去ってゆく。
一方、偽証したリュシアンは、店のカメラの値段を誤魔化して差額を着服し、それが元でクビになる。
そのため、店の金を盗んだのを始め、詐欺、窃盗をしては他人に施し、慈善事業みたいなことをする。
妻に見捨てられ、子供も病気で失ったイヴォンの人生は、元々は無実の嫌疑から出発しながら、どんどん悪い方向へと邁進する。
出所後は、泊ったホテルの夫婦を殺害し金を奪ったりする。
そして、後をつけていった老婦人に、親切にも納屋に泊めさせてもらい、そこに留まりながらも、最後には一家を惨殺する。
この作品は封切り時に劇場で観、その感想は、内容が理解不可能で一人取り残されたようなモヤモヤ感だけが漂った。
それを今回また観て、結局は、『バルタザールどこへ行く』(1966年)の時も感じたように、物語の流れが分かりにくかった。
要は、状況説明が一切ないために、筋がどうなっているのか一度観ただけでは理解しにくい。
例えば、二度に渡っての殺害時。
そのシーンは、具体的には描かれない。
特にホテルの場面では、間接的に、手を洗う水道水に多少血が混じる程度でお終い。
それを想像力でカバーしようとしても、場面はもう先に進んでしまっている。
そればかりか、いくら金のためといえ、何で殺人までするのか理由が何も示されない。
これがブレッソン流なのだと言い返されれば、それはそうなのだが、つまり心理描写をすることを拒否している。
場面と場面の間(ま)が完全に省略されているので、続けて二度鑑賞してやっと全体が理解でき、成る程と頷く。
そうなると予備知識なしで、お金を払って劇場で観た時は、よく理解できなくって損した気分だけが残ったのは当然か。
そのように意識的に演出された作品群の中で、この作品がブレッソンの遺作となってしまい、そのことが印象に残る。
現代のパリ。
高校生のノルベールは、父親にお金をもらおうとして断られ、借金を返せなくなり、クラスメートの友人に相談。
彼はノルベールに一枚の500フラン札を渡すがそれはニセ札で、カメラ店で安い額縁を買い女主人からツリを貰う。
後にニセ札だと気づいた主人は妻をなじったが、ガソリンの集金に来た若い店員イヴォンに黙って支払った。
それをカフェの昼食代に使おうとしたイヴォンは、カフェの店主と争って警察に通告された。
イヴォンは刑事とともにカメラ店に行き、潔白を証明しようとするが、主人はイヴォンの顔に見おぼえがないという。
幼い娘と妻エリーズがいるイヴォンは裁判に掛けられ、カメラ店の若い店員リュシアンも偽証して・・・
(Movie Walkerより)
その後、イヴォンは有罪にはならなかったが失職し、理由も知らずに銀行強盗の片棒を担ぎ、再び逮捕される。
結果、3年間入獄することになる。
その獄中のイヴォンのもとをエリーズは黙って去ってゆく。
一方、偽証したリュシアンは、店のカメラの値段を誤魔化して差額を着服し、それが元でクビになる。
そのため、店の金を盗んだのを始め、詐欺、窃盗をしては他人に施し、慈善事業みたいなことをする。
妻に見捨てられ、子供も病気で失ったイヴォンの人生は、元々は無実の嫌疑から出発しながら、どんどん悪い方向へと邁進する。
出所後は、泊ったホテルの夫婦を殺害し金を奪ったりする。
そして、後をつけていった老婦人に、親切にも納屋に泊めさせてもらい、そこに留まりながらも、最後には一家を惨殺する。
この作品は封切り時に劇場で観、その感想は、内容が理解不可能で一人取り残されたようなモヤモヤ感だけが漂った。
それを今回また観て、結局は、『バルタザールどこへ行く』(1966年)の時も感じたように、物語の流れが分かりにくかった。
要は、状況説明が一切ないために、筋がどうなっているのか一度観ただけでは理解しにくい。
例えば、二度に渡っての殺害時。
そのシーンは、具体的には描かれない。
特にホテルの場面では、間接的に、手を洗う水道水に多少血が混じる程度でお終い。
それを想像力でカバーしようとしても、場面はもう先に進んでしまっている。
そればかりか、いくら金のためといえ、何で殺人までするのか理由が何も示されない。
これがブレッソン流なのだと言い返されれば、それはそうなのだが、つまり心理描写をすることを拒否している。
場面と場面の間(ま)が完全に省略されているので、続けて二度鑑賞してやっと全体が理解でき、成る程と頷く。
そうなると予備知識なしで、お金を払って劇場で観た時は、よく理解できなくって損した気分だけが残ったのは当然か。
そのように意識的に演出された作品群の中で、この作品がブレッソンの遺作となってしまい、そのことが印象に残る。
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