花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

リアル学会とWEB学会

2023-11-04 | 日記・エッセイ


四年ぶりに遠方に出向きリアル学会に出席した。新幹線を乗り継ぎ約四時間、第82回日本めまい平衡医学会•学術講演会が開催の新潟市に到着した。本年のテーマは「めまい診療の標準化」である。COVID-19の影響で2020年以降、医学関係の学術集会、講演会や研究会はオンライン配信、オンデマンド配信のWEB学会となった。そして本年度5月の5類移行からは、従来通り現地参加も行われるハイブリット形式での開催が主流となり、今後もこの傾向は続くのであろう。homeを離れることなく参加可能で、専門医更新に必要な点数も取得できる、加えて自由な時間にオンデマンド配信で数多くの講演を拝聴できるWEB学会は、参加者にとって有難い利点が多い。一方、私の様な生粋のアナログ人間にとり、学術集会や研究会で拝聴する医学情報や知識をより有効に消化吸収し自家薬籠中のものとする上で、リアル学会ならではの臨場感が必要条件となることを今回のリアル参加で痛感した。
 振り返れば、《本棚・其一│紙本と電子書籍」》(2022/10/1)に記した様に、紙本それぞれの嵩、厚みや質感、纏う装丁の意匠など、読み手の五感にからむ強調因子を欠く電子書籍(これはあくまで私の感慨である)と紙本との対比に、WEB学会VSリアル学会は何処か似ている様に思えてならない。

猿沢池の龍のはなし

2023-07-29 | 日記・エッセイ

奈良 興福寺│土屋光逸 昭和12年

『宇治拾遺物語』、六<蔵人得業、猿沢の池の竜の事>は、蔵人得業恵印が悪戯心で立てた立札「この池より龍が登らんずるなり」から話が始まる。ゆかしき事かなと騒ぎ立てる世間の人々のみならず、仕掛け人までもが反対に煽られて、一同は固唾をのんで当日見守ることになる。しかしながら「興福寺の南大門の壇の上に登り立ちて、「今や竜の登るか登るか」と待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。」で終わる。

一方、これを出典とする芥川龍之介著<龍>では、「恵印の眼にはその刹那、その水煙と雲との間に、金色の爪を閃かせて一文字に空へ昇って行く十丈あまりの黒竜が、朦朧として映りました。が、それは瞬く暇で、後はただ風雨の中に、池をめぐった桜の花がまっ暗な空へ飛ぶのばかり見えたと申す事でございます」で、云わば“嘘からでた実”の顛末となった龍が昇天する。しかし言葉を吟味すれば、むしろ“実(立札)からでた虚(神話・伝説の龍)”の話に違いない。

事を為した当事者の思惑から遥かに乖離して無限に広がりゆく熱閙、仕掛けた本人をも飲み込む怒涛の如き集団心理の破壊力は凄まじい。この<龍>に似通ったモチーフは他の小説にもある。<枯野抄>で芭蕉の臨終に際して弟子共が抱く各自各様の思惑、中心の師は置き去りにされて既になきものである。そして<或日の大石内蔵之助>では、事を起こした能動者の大石内蔵之助は、世間が作り上げる活劇中に否応なく並べられた受動者となり、そうありなむという一色に塗りつぶされてゆく。小説の最後は、「このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、このいいようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。-----内蔵之助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、何時までもじっと彳んでいた。」で結ばれる。
 渦中のど真ん中に居て取り残されてゆく当該人物が立ち尽くす処は、感傷が寄り添う寸分の隙もない硬質の絶対的孤独である。

参考資料:
小林保治, 増古和子校注・訳:日本古典文学全集「宇治拾遺物語」, 小学館, 2017
芥川龍之介:「或日の大石内蔵之助 枯野抄」, 岩波書店, 2017

而して今

2023-07-23 | 日記・エッセイ

あさぎり(奈良公園)│笠松紫浪 昭和12年

先日、午前診療終了後、恩師宅に夏の表敬訪問で伺った。梅雨明けの炎天から降り注ぐ容赦ない陽射しに加えて、余す所無く整備された石畳からの照り返しを浴びながら、ひたすら黙黙と奈良の三条通を歩き続けた。生駒山系の暗峠を越えて大阪に至る暗峠奈良街道に連なる三条通は、JR奈良駅から春日大社の一の鳥居まで続く東西道路である。さらに南に下る高畑町の母の生家に滞在した昔日、早起きして向かった緑溢れる春日野の飛火野は、人の世をいまだ知らぬ子供にとり至福のまほろばだった。

修羅の道

2023-07-22 | 日記・エッセイ


生来、打ち勝つ、勝ち取る、競り勝つとかの類が苦手である。淡白と格好をつけたいのではなく、単に元気不足の気虚だからに過ぎない。しかし好むと好まざるに拘らず、現世は競争社会である。周りを見渡せば其処彼処、“撃ちてし止まん”の気概に溢れ、他人との勝ち負けのみならず、克己を含めて闘うことが心習いとなっている。もとより俗世の僻隅で亀の様に身を竦めていようとも、不条理な混沌に巻き込まれない保証はない。ささやかに身の丈の花で咲いています、という不参入表明は何程の意味もなく、知らぬ間に不可抗力で旗幟鮮明の旗印を高々と背負っていることがある。

御受賞記念祝賀会に伺う

2023-07-16 | 日記・エッセイ

祇園祭宵山/徳力富吉郎

7月15日、瑞宝双光章受賞の栄に浴された西村完生先生の記念祝賀会が京都市内で開催された。令和五年春の叙勲において御受賞になられた栄誉を寿ぎ、地域医療・保健・介護に長年携わってこられた御功績に敬意を表し、西村先生御夫妻の益々の御健勝と御多幸を願って一同が参集した。京都は本年も、疫病退散を祈願する御霊会を起源とする祇園祭が1日の吉符入りから1か月にわたり執り行われ、15日は前祭の宵々山である。

器のこと

2023-05-14 | 日記・エッセイ


花器という名を冠するも花を挿すことを拒む器がある。外に開いた口はあるが、挿した花を鎮めず浮き上がらせる器がある。そうかと思えば、拙い手に委ねられた花を恬然と容れて自ずから定まる器がある。
 “器の大きさ”の違いは外物の受容性にある。貪着で塞がれた、あるいは取捨の分別に縛られた器がある。反対に、来り寄るものを泰然と擁し、また其の去るを止めず、無尽の空(うろ)を蔵することも忘れた器がある。

法要に参列する

2023-04-23 | 日記・エッセイ


4月22日、往生即成仏の教えの御寺で恩師を偲び一同が法要に参列した。御院主様の読経が始まる前、MJQのSoftly, as in a morning sunriseを含む音楽が堂内に流れていた。

花を分くる峰の朝日の影はやがて有明の月を磨くなり
     聞書集   西行

器量

2023-04-15 | 日記・エッセイ


詰まるところ、おのれの器の大きさを以てしか相手の器は測れない。他者をしたりげに誹謗するは、我は小器という高らかな宣言に他ならない。之を叩くに小を以てすれば小鳴し、之を叩くに大を以てすれば大鳴す。師と学徒の関係に限らないことを知れば、襟を正さずにはいられない。