弘徽殿の女御は、光源氏に敵対する最強の敵役として登場する。右大臣の娘として生を受けた権門出身で、東宮時代からの桐壺帝の第一妃であり、後の朱雀帝の御生母である。輝かしい出自と経歴にも拘らず、桐壺の更衣には桐壺帝の寵愛を奪われ、中宮立后の藤壺の後塵を拝する。同じ憎まれ役でも、内向的で陰陰滅滅の六条御息所に比して、弘徽殿の女御は外向的で良くも悪くも剛毅果断である。昨今忌避される従来の固定観念的に申すならば、前者は陰性で女性的、後者は陽性で男性的である。
和辻哲郎著『日本精神史研究』、<「もののあはれ」について>において、御大は弘徽殿の振舞を女の嫉妬と断罪なさり容赦ない。
「またほかの一例は夫たる帝が悲嘆に沈まれているにかかわらず、お側にも侍らで、月おもしろき世に夜ふくるまで音楽をして遊ぶ弘徽殿びごとき人である。もとより彼女は喜びあるいは苦しむ心を持たぬ人ではない。彼女が帝の悲嘆に同情せぬのは、その悲嘆が彼女の競争者たる他の女の死に基づくゆえんである。しかしたとい、その悲嘆さえもが彼女の嫉妬を煽るにしろ、その嫉妬ゆえに心を硬くして、夫の苦しみに心を湿らさぬ女は、「物のあはれ」を知るとはいえない。」(「日本精神史研究」, p225)
この件に相当する原文は以下の通りである。
「風の音、虫の根につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿には、久しく上の御局にも参上りたまはず、月のおもしろきに、夜更くるまで遊びをぞしたまふなる。(帝は)
いとすさまじうものしと聞こしめす。このごろの御景色を見たてまつる上人、女房などはかたはらいたしと聞きけり。(弘徽殿は)
いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ(我の強い角のある御方)
にて、事にもあらず消ちてもてなしたまふなるべし。」(「源氏物語1」, p35-36)
もとより帝の桐壺の更衣存生での御寵愛は尋常でない。
「(帝は)
人の譏りをも憚らせたまはず、世の例にもなりぬべき御もてなしなり。上達部、上人などもあいなく目を側めつつ、いとまばゆき人の御おぼえなり。唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れあしかりけれと」(「源氏物語1」, p17-18)と、楊貴妃の例を引き合いに、
「天の下にも、あぢきなう人のもてなやみぐさ」(世間の苦々しい持て余しの語り草)になる。
更衣亡き後も帝は、
「なほ朝政は怠らせたまひぬべかめり」(今なお朝のご政務は怠っておしまいになる)の有様で、
「近うさぶらふかぎりは、男女、「いとわりなきわざかな」と言ひあはせつつ嘆く。「さるべき契りこそおはしましけめ。(帝が)
そこらの人の譏り、恨みを憚らせたまはず、この御事にふれたることをば、道理をも失せたまひ、今、はた、かく世の中のことをも思ひし棄てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と他の朝廷の例までひき出で、ささめき嘆きけり。」(「源氏物語1」, p36-37)と、周囲はいたわしい御心労を拝する一方で政(まつりごと)の膠着状態に困惑する。
万乗之君はnoblesse obligeを課せられる階層の頂点に御座す。民草の男とは異なり、どの様な状況下においても、果たさねばならぬ社会的責任と義務から逃れる術はない。そして思ふをば思ひ、思はぬをば思はぬは許されず、思ふをも、思はぬをもけぢめみせぬ心があらまほしである。
最後になるが、堀口大學訳のマリー・ローランサンの詩<鎭靜劑>に、「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」がある。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」は芭蕉の句である。
架空の人物の心情を知る由もないが、情に流されない弘徽殿の女御の眼に映った管弦の後の情景は如何なるものであったのだろうか。
参考資料:
阿部秋生, 秋山虔, 今井源衛, 鈴木日出男校注・訳:日本古典文学全集「源氏物語1」, 小学館, 1994
和辻哲郎著:「日本精神史研究」, 岩波書店, 2015
堀口大學譯:「月下の一群」、新潮社, 1973
今栄蔵校注:新潮日本古典集成「芭蕉句集」, 新潮社, 2006