江戸時代の漢方の名医、人格高潔にしてかぎりなく透徹した眼を持っておられた和田東郭先生の語録、『蕉窓雑話』の一節を御紹介する。珍しく美しい花を投げ入れてもまともな生け花にはならないという、生け花についてのお話ではない。
「一人平日より甚花を好むの癖あり。或時花の會に行途中にて蘭花の見ことに開たるを見、金子一両許に買得て直に其葉尽に刈りて僕に携させ、其鉢をばそのまま花屋に取らせて夫より會席に臨み、右の蘭を残らずどっと一瓶に投れたれば、人皆一大美観をなせりとて其膽を称したるあり。今是を思にこれは人そばえと云ものにて、此の如き所作からの人に正直なる人はなきものにて尤悪むべき也。兎角醫を為すものと出家とには尤右の場に處する人多きものにて、是甚慎むべきものなり。」 (近世漢方医学書集成 15, 蕉窓雑話、名著出版)
「人そばえ(人戯え)」とは、人に甘えたわむれること、また人前で妙に力むことと辞書に記載されている。関西弁で申せば「いちびり」、俗受け狙いのパフォーマンスということである。医者と僧籍にあるものはとくと注意せよとは実に耳が痛い言葉である。まあ他の業界にもお仲間が沢山居そうには思えるのだが。卑近なところで、プレゼンテーションの時に、聞いて下さる方々を全く意識しないと言えば嘘になる。説法においても、外連味と紙一重のカリスマ性が聴衆を大いに魅了して、迷える衆生が転迷開悟の講に一心に耳をそばだてるという方便もありじゃないのか。などとぶつぶつ此処で申していると、ばか者、是甚慎むべきものなりと、やはり東郭先生に確実にお叱りをうけるに違いない。
「一人平日より甚花を好むの癖あり。或時花の會に行途中にて蘭花の見ことに開たるを見、金子一両許に買得て直に其葉尽に刈りて僕に携させ、其鉢をばそのまま花屋に取らせて夫より會席に臨み、右の蘭を残らずどっと一瓶に投れたれば、人皆一大美観をなせりとて其膽を称したるあり。今是を思にこれは人そばえと云ものにて、此の如き所作からの人に正直なる人はなきものにて尤悪むべき也。兎角醫を為すものと出家とには尤右の場に處する人多きものにて、是甚慎むべきものなり。」 (近世漢方医学書集成 15, 蕉窓雑話、名著出版)
「人そばえ(人戯え)」とは、人に甘えたわむれること、また人前で妙に力むことと辞書に記載されている。関西弁で申せば「いちびり」、俗受け狙いのパフォーマンスということである。医者と僧籍にあるものはとくと注意せよとは実に耳が痛い言葉である。まあ他の業界にもお仲間が沢山居そうには思えるのだが。卑近なところで、プレゼンテーションの時に、聞いて下さる方々を全く意識しないと言えば嘘になる。説法においても、外連味と紙一重のカリスマ性が聴衆を大いに魅了して、迷える衆生が転迷開悟の講に一心に耳をそばだてるという方便もありじゃないのか。などとぶつぶつ此処で申していると、ばか者、是甚慎むべきものなりと、やはり東郭先生に確実にお叱りをうけるに違いない。