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「僕は、その青桐や牡丹を見て、芸術というものは絶えず自然に対して謙譲でなければならぬということを久しぶりに肝銘させられた。
しかし、どうして今更らしくそんな事に気がついたのだろう。
おかしな話だが、その時一緒に居た友達も同じような感慨を述べていた。
そして、二人で話し合ったのであるが、つまり、この例でもわかるように、この十年ばかりの間というもの、我々は何事に対しても実に思い上がった態度で接してきたのではないかということ-------また、何事に関しても、静かに考える余裕というものを失っていたのではないかということである。そしてそれと同時に、この牡丹と青桐の美しさは、我々にもう一つの事をつくづくと考えさせてくれたのである。
それは一口にいうと禅坊主臭くなるが、柳は緑、花は紅ということなのだ。」
(黒澤明著:牡丹と青桐│大岡信, 田中澄江, 塚谷裕一監修:花の名随筆5「五月の花」, p42-46, 作品社, 1999)
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穀雨の末候は、穀雨花として知られる牡丹の花咲くである。庭の牡丹はこの一週間で全ての蕾が花開き、早い品種はすでに花弁を散らし始めている。昨年夏の猛暑にやられて花芽がつかなかった株が少なからずあり、中国安徽省産、鳳丹皮の薬用牡丹も、二株のうち一株は葉が茂るばかりで花は咲かずであった。それでも今年は新たに新潟産の「春日山」と「時雨雲」の二品種が加わり、また鳳丹皮の一株は例年より小ぶりながらも九輪の花を咲かせてくれた。若い頃は唯々仰々しく賑やかに思えて、左程好きではなかった牡丹の花である。歳を重ねるにつれて増々と心魅かれる様になったのは何故だろう。
銀屏に燃ゆるが如き牡丹哉 明治三十年 正岡子規