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平維茂戸隠山に悪鬼を退治す図 / 月岡芳年『新形三十六怪撰』
XVI: Taira no Koremochi Vanquishing the Demon of Mount Togakushi / Stevenson J: Yoshitoshi's Thirty-Six Ghosts, Blue Tiger Books, 1992
能曲『紅葉狩』の前シテは上臈、後シテは鬼女である。信濃、戸隠山に鹿狩に出掛けた平維茂が、山中で紅葉狩に興じるやんごとなき上臈の一行に出会う。林間に酒を煖め紅葉を焼く秋興を妨げまいとの心遣いから、馬を降りて別の道をゆこうとする維茂であったが、請われるままに酒宴の席に加わる。上臈の舞に見惚れ盃を重ねた維茂はやがて酒に酔い臥してしまい、上臈達は彼が寝入ったのを見届けた後に姿を消した。その夢の中に岩清水八幡宮末社の神が顕形し給いて上臈の正体をお告げになるとともに、忝くも霊剣をお授け下さる。目覚めた維茂は化生の姿を現し襲い来る鬼女に立ち向かい、見事に成敗を遂げる。
(『観世流大成版 紅葉狩』廿四世宗家訂正著, 檜書店, 1952)
『紅葉狩』に現れる鬼女は鬼神であり、生身の女人が魔道に落ちた鬼ではない。身分の上下には関わりなく無明の嫉(ねたみ)にとらわれ、瞋恚の焔炎に心を焼かれた『葵上』や『鉄輪』のシテとは異なる鬼である。紅葉狩の宴に始まり一転して最後を締める活劇まで、『紅葉狩』には不気味で陰惨なイメージがなく、それとともに愛欲に翻弄された女人の業や息づく人間性とも無縁の場面展開である。
芳年の妖怪画の集大成である『新形三十六怪撰』(しんけいさんじゅうろっかいせん)は各々芳年独特の解釈で描かれている。「平維茂戸隠山に悪鬼を退治す図」に表される維茂は、夢の中ではなく目覚めて大盃の中に妖かしの異形を見出して正体を知る構図となっている。いまだ覚めぬふりを見せながら、神剣を手に今まさに背後に迫る鬼神に破魔の一太刀を振るわんとする、緊迫した刹那の描写である。
ギリシャ神話の勇士ペルセウスは、メドゥーサ討伐の際に、石化される魔性の力を防ぐためにメドゥーサの姿を盾に映して戦った。もし維茂が酒宴の席で向かい合った貴婦人の外面似菩薩の﨟長けた姿の奥に、早々と内心如夜叉の本性をその眼で見てしまっていたならば、勇猛果敢な維茂であろうとも命運は定かでない。この世には男が直に見てはならぬものがある。