花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

萬物静觀皆自得│大和未生流の花

2015-09-05 | アート・文化


「萬物静觀皆自得」は、程顥(ていこう)作、秋日偶成二首・其ニの頷聯の詩句である。かつて華道大和未生流、初代御家元の御真筆で「萬物静觀皆自得」一行書の掛軸を皆で拝見したことがある。華道を生涯の天職となさった初代御家元が、文人としてあらゆる領域においても他者の追従を許さない天賦の才を有しておられたことを、雄渾で流麗な書を拝して改めて窺い知った。それとともに、大和未生流の創設を決断された、その発心の御心の一端に触れる思いがして襟を正したのである。

秋日偶成二首・其ニの大意は以下の通りである。全詩を末尾に掲げた。
------のんびりとした生活になってからは、何事においても心は穏やかであり、覚めれば朝日はすでに東窓に赤々とさしこんでいる。 まわりを静観すれば、萬物は本性のままに在るべきところに在り、変わりゆく四季の趣は人生と同じである。道理は天地有形の一切を超えて通じ、思想は風雲変幻の世に浸透する。富みて奢らず、また賢なるかな回やと讃えられた顔回の如く、陋巷にありても其の道を楽しむ。男としてこの境地に至るならば、これぞ真の英雄である。

程顥は、字は伯淳、号は明道、明道先生の名で知られ、弟の程頤(ていい)とともに二程子と並び称される北宋の思想家である。天地と人は一体であり、宇宙萬物の中に内在する本体である「理」を、自らの内に感じて通じることの重要性を唱えた。花を活ける際の心構えとしてしばしば引き合いに出される利休七則の「花は野にあるように」は、その意味するところの実践となると甚だ容易なことではない。秋日偶成の詩意を辿る時、その野とはそれぞれの花が本性のままに自足する在処(ありか)なのであろうかと思うのである。

生け花からは離れるが、松尾芭蕉の俳文、蓑虫説跋には、「翁にあらずは、誰か此むしの心をしらん。「静にみれば物皆自得す」といへり。此人によりてこの句をしる。」と、この「萬物静觀皆自得」を引用した一節がある。芭蕉の「蓑虫の音を聞にこよくさのいほ」の句に大いに感じるところがあった山口素堂は、蓑虫説を記して蓑虫の心を詳らかに表した。この素堂の静観の眼を通して、芭蕉は「萬物静觀皆自得」の真意を初めて知ることが出来たと絶賛している。さらには英一蝶(多賀朝湖)が描いた蓑虫の絵の趣にも触れて、「猶閑窓に閑を得て、両士の幸に預る事、簑むしのめいぼくあるにゝたり。」と、両氏の厚意に預かり蓑虫は面目この上もないと感謝の言葉で締めくくっている。

秋日偶成二首   程顥
寥寥天氣已高秋, 更倚凌虚百尺樓。世上利名羣蠛蠓,古來興廢幾浮漚。退安陋巷顏回樂, 不見長安李白愁。兩事到頭須有得、我心處處自優游。
閑來無事不従容, 睡覺東窗日巳紅。萬物静觀皆自得, 四時佳興與人同。道通天地有形外, 思入風雲變態中。富貴不淫貧賤樂, 男兒到此是豪雄。

寥寥たる天氣已に高秋、更に凌虚百尺の樓に倚る。世上の利名羣蠛蠓、古來の興廢幾くの浮漚。退き安んず陋巷顏回の樂しみ、見ず長安李白の愁い。兩事到頭須く得ること有るべし、我が心處處として自づから優游。
閑來事として従容ならざるは無し、睡り覺むれば東窗日已に紅なり。萬物静觀すれば皆自得、四時の佳興は人と同じ。道は通ず天地有形の外、思いは入る風雲變態の中。富貴にして淫せず貧賤にして樂しむ、男兒此に到らば、是豪雄。

《参考資料》
堀切実編:芭蕉俳文集下, 挨拶・返礼の文(四)10「蓑虫説」跋, 岩波出版, 2014
程顥, 程頤:二程集上, 河南程氏文集巻第三, 銘詩,中華書局出版, 2008


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