花紅柳緑~院長のブログ

京都府京田辺市、谷村医院の院長です。 日常診療を通じて感じたこと、四季折々の健康情報、趣味の活動を御報告いたします。

盛岡の桜は石を割って咲く│『壬生義士伝』

2017-06-18 | アート・文化


先の「木瓜の詩」の記事において、学会の学術講演会や研究会に出張する機会を得たお蔭で国内の津々浦々を訪問することが出来たと書いた。そのような動機がなければ生来出不精な私があちこちを旅する事はなかったに違いない。そして各地の土地ならではの自然や風俗、訪れた季節の風趣が、その折に拝聴した講演や発表した演題などの記憶と相まって折に触れて今もなつかしく思い出されるのである。

昨今専門医制度が大きく変化を遂げてから、ますます増大する各地からの参加者の便宜をはかる為に、中央から離れた地方での開催が減った感がある。会場へのアクセスが容易で多人数を収容できる施設がある新幹線沿線の大都市での開催が多くなり、かつて会場を取り巻いていた地方独自の文化の香りなど、少しも漂ってこない学術講演会や研究会になってゆくのは時代の趨勢なのだろう。何が第一義に求められるかと申せば、会場内での開催内容の充実と遅滞ない進行が本義であることは言うまでもないのだから。

学会と言えば、耳鼻咽喉科の大学医局に入局した際に初めて入会したのが日本耳鼻咽喉科学会である。その後は自分の環境や興味の変遷とともに、途中で入会した学会があれば退会した学会もあった。滲出性中耳炎関連で肺炎球菌を用いた基礎研究に携わっていた頃には日本細菌学会に入会していたが、四月初めに盛岡で総会・学術講演会があり、かの有名な「石割桜」が見られると喜び勇んで出立した。ところが彼の地の桜の開花は畿内より遅いことを全く考えておらず、ようやく辿り着いたら全て蕾のままであった。些か色褪せてきた冒頭の写真が、御縁のなかったその折の未だ桜咲かずの「石割桜」である。
 なお学会参加記念で配られた土産ではなかったと思うのだが、会場内で乾燥わかめの一袋を頂戴して盛岡から帰京した。ひたすら臨床畑を歩いて来た両親がわかめの袋を見るなり、基礎系の学会は飾り気なく質実なのやねえとしみじみと感心していた。

「石割桜」の話は、浅田次郎著の時代小説『壬生義士伝』において、主人公の吉村貫一郎が南部藩、藩校の明義堂で助教を務めていた時、将来を担って立つ藩校の子らに語り聞かせる檄にある。豊かな西国の子らに伍して如何に身をば立て国を保つべきかと教えたその言葉を末尾に掲げた。吉村貫一郎は下級武士ながら碩学、能筆であるとともに北辰一刀流免許皆伝で、やむにやまれぬ事情で脱藩した後に新選組隊士となり、その先々で仁義礼智信の五常を貫いて最期を全うした男である。誰に対峙しても何処にあるとも真直ぐに立ち、石割桜の石を割って見事に咲き散っていった南部の武士(もののふ)である。
「盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、北さ向いても咲ぐのす。んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねぞ。南部の武士ならば、みごと石ば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けて、あっぱれな花こば咲かせてみろ。」
(浅田次郎著:文春文庫『壬生義士伝』上, p401-402, 文藝春秋, 2002)