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先の白川博士著『白川静著作集11 万葉集』で明かされる、万葉人の「見る」の始原的な意味は“自然との相互の霊的交感を導く行為”である。《初期万葉》の歌における「見ゆ」、「見れど飽かぬ」が「本来は地霊に対する讃頌の語として、その地を経過するときの儀礼歌に用いるもの」(p,239)であり、「形式的な儀礼歌ではなく、神と人とを同じ次元に結合する、接点としての機能を持つ」(p,537)という指摘である。
興味深いのは、「見ゆ」、「見れど飽かぬ」が「対象とする存在態を主格とし、己をその被動態として、己に働くものとして意識される表現」(p,242)であり、「見る」側が主体ではなく「神からか見が欲しからむ」なのであり、「見る」対象である霊的なものの誘ないに感応して興起するという論述である。
*神からか 見が欲しからむ み吉野の 滝の河内は 見れど飽かぬかも(万葉集・第六)
受身的な「見る」は現代人の感覚からは甚だ奇異に映る。だがこの受動性は崇敬を孕み、天地自然を俯仰する姿勢を表わしている。しかも問答無用の絶対的帰依ではなく、開放感にあふれた双方向性の交感である。霊的交渉の結果として「対象のもつ生命力と同化し、これを自己に吸収する」(p,111)展開が生まれ、そこには天地自然を信じてお任せするという素朴な信頼がある。
末尾に挙げたのは白川博士御編纂の『字通』、『字訓』の抜粋である。「見」に籠められ託された意味は実に深い。そして記された様に「きく」の「聞」もまた同義である。超絶の世界に音源がある声や音を「聞く」、耳鼻咽喉科医の守備範囲を超えた領域である。むしろそれゆえに無関心であってはならない分野である。
見:「象形 目を主とした人の形。卜文に耳を主とした人の形があり、それは聞の初文。見・聞は視聴の器官を主とする字であるが、見・聞の対象は、霊的なものに向けられていた。見は[説文]八下に「視るなり」とあり、視(視)るとは神(示)を見ることである。新しい父母の位牌を拝することを親という。[詩]には「瞻(み)る」(見めぐらす)、[万葉]には「見る」、「見れど飽かぬ」という定型的表現があって、その対象と霊的な関係を持つことを意味する。」
(「字通」, p431 )
*[卜文]:甲骨文;[説文]:漢の許慎選「説文解字」;[詩]:「詩経」
みる(見・視(視):「見は人の上部に大きな目をしるした形で、人の見る動作をあらわす。卜文の形では、聞は人の上に耳を、望は人の上に大きな臣(目の形)をしるしている。見ることによって対者と心が通じ得るという考えがあり、自然との交流も可能であるとされた。[万葉]の「見る」「見れど飽かぬ」と言う表現をもつものは、概ね魂振りの意をもつ歌である。中国の古代では見・省・徳はみな目の呪力による対者との交渉・支配を意味する字であった。」
(「字訓」, p730)
参考資料:
白川静著:「白川静著作集11 万葉集」, 平凡社, 2000
白川静著:「字通」, 平凡社, 1996
白川静著:「字訓」, 平凡社, 1987
青木生子, 井出至, 伊藤博, 清水克彦, 橋本四郎校注:新潮日本古典集成「萬葉集 二」, 新潮社, 1978
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