風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

秋は酸っぱい香りがする

2015年11月18日 | 「詩集2015」

九州の妹から、カボスが送られてきた。
今年は豊作だったとかで、あおくて懐かしい形をした柑橘が、大きな段ボール箱にいっぱい入っていた。

カボスといえば大分が産地だが、なかでも臼杵と竹田で多く栽培されているようだ。臼杵には樹齢200年ともいわれるカボスの古木もあるが、臼杵は海に面した土地なのでミカンのほうが多く、カボスもミカンに近くて酸味が少ないような気がする。潮風のせいもあるかもしれない。
それに比べて山間地の竹田のカボスは、酸味が強くて香りも勝っているようだ。この酸味が、子どもの頃はあまり好きではなかったが、年とともに記憶の味というものは熟成されていくものらしく、いつしか馴染みの味に落ち着いていくのだった。

秋の味覚といえば、サンマの塩焼きには欠かせないし、寒い日の鍋物もカボスがないと始まらない。そのうちカボス中毒みたいになって、味噌汁から漬物まで何にでも掛けないと間が抜けた感じになってしまう。ぼくは舐める程度にしか呑めないが、二階堂の麦焼酎にもカボスの相性はいい。
ほろ酔い気分になったところで、古い詩のことを思い出した。10年ほども以前に書いた詩だが、どこかでカボスの酸味と繋がっていたのかもしれない。

*

  わらべうた<ぶんご編>

I

ねんむれ ねんむれ 猫ん子
うっつけ うっつけ 兎ん子

猫ん原の 猫ばらみ
夜が更けたら夜這いじゃ 婚(よばい)
穴森様の岩穴ん中
草履持ちが待っちょるき
うちん恋しい人な婿孕み(むこばらみ)
うなぎを捕りよっち川流れ あらま


II

ねんむれ ねんむれ 猫ん子
うっつけ うっつけ 兎ん子

猫ん原の 猫ばらみ
子取り婆さん(産婆)な慣れた手つき
足なか草履をうらがえし
赤子ん臍の緒を竹へごでちょん切る
ミツメ(三日)に名付け 戌の日の悪戯始め
百日たったらモモカ(食い初め)の祝い


III

ねんむれ ねんむれ 猫ん子
うっつけ うっつけ 兎ん子

猫ん原の 猫ばらみ
キチボジン(鬼子母神)で乳もらい
夜泣き、癇(かん)の虫にゃあネギノ様
よだれ(涎)くりにゃあアマリジャコ(カマキリの卵)
ねしょんべんにゃあネズミん黒焼き
それでん駄目なら竹藪にほたりこむ あらま

*****

参考文献=大分県『竹田市史』(民俗編)。
穴森様=同市の嫗岳地区にある池社のこと。『平家物語』にも登場する古い社。
キチボジン=同市内の円福寺境内にある鬼子母神。
ネギノ様=同市の菅生地区にある禰疑野(ねぎの)神社。『日本書紀』の景行天皇記に記述あり。













コスモスの風が吹いている

2015年11月05日 | 「詩集2015」

林を抜けると、とつぜん新しい世界が眩いばかりに出現した。
そこは、コスモスの花ざかりだった。
かつて出会ったものやいま目の前にあるもの、さまざまな季節の記憶がゆるやかに揺らいでいる。どこから来てどこへ行くのか、賑わいと静けさの風が通りすぎていく田舎の、無人駅のような花の駅である。
風が吹くと花の旅立ちがはじまる。どこかにもっと、すてきな世界があるのだろうか。夢想しながら、コスモスの風に運ばれていく。


*

  コスモス

ネットオークションで
小さな駅を買った
小さな駅には
小さな電車しか停まらなかった

小さな電車には
家族がいっしょに乗ることができない
いつのまにか一人ずつ
手を振りながら家を出ていった

せっせと駅のまわりに
コスモスを植える
秋になると満開になって
小さな駅は見えなくなった

風が吹くと
コスモスの花がくるくる回る
耳をすますと遠くで
かすかに電車の音がしている

           (2011)








そこには鳥の世界もある

2015年10月25日 | 「詩集2015」

天王寺のお寺で、母の三回忌の法要をした。
3人の僧侶が読経する前で、焼香をして手を合わせただけの、きわめて簡略な儀式だった。
お寺という場がひとつの結界だとしても、死者と生者が触れ合う一瞬の時間もなかったかもしれない。死者と生者が出会うそこでは、刻々と時を捨てて死者は死につづけ、生者は生きつづけるしかないのだろう。
けれども日常生活においては、母はぼくの記憶の中で生きつづけている。死者も生者もこの世の結界を超えて、ときには夢やある種の気配のように自由な身軽さで生きつづけている。それはそれで素晴らしいことだと考える。

お寺と地続きで、茶臼山という古戦場がある。
ある年の大坂の夏と冬、大勢の武者たちが戦って死んでいった場所だが、すべてのことが嘘だったかのように、今はことさらに静まりかえっている。
薄暗い歴史の森を抜けると、明るい現代の芝生の公園が広がる。
人々は芝生に寝転がって空を仰いでいる。すこし日常の感覚を離れると、芝生はそのまま青い空に続いている。ひととき芝生と空の中間でまどろむ人たちは、そのとき一体どこを浮遊しているのだろう。

公園の向こうには、のっぽのビルが空へ伸びている。
地上60階建て、60層の現代の塔は高さ300メートルもあるらしい。ビルのてっぺんがあるところは、もはや空の場所なのかもしれない。人々がそこから眺めるのは、空ではなく地上の風景だろう。
地上には空があり、空には地上がある。
その中空を飛び交う鳥たちには、どんな世界があるのだろう。
想像すると鳥にもなれそうで、体がだんだん軽くなっていく。











眠りと覚醒のはざまで

2015年10月17日 | 「詩集2015」

夜中に目が覚めた。
みていた夢の続きでもないのに、手のひらに柔らかい感触が残っている。
その感触に懐かしさがある。記憶の底深くに沈んでいたものが、突然なんの脈絡もなく、眠りの切れ目に浮かび上がってきたみたいだった。
ぼんやりと、記憶のさきに知らない人が現れた。
大きな布袋をぶら下げていた。その袋のふくらみをそっと撫でた。なま暖かいものが動いたが、声もかけられなかった。それが子犬との別れだった。

子犬は6匹生まれた。
茶色が2匹、黒が1匹、白が1匹、そして茶色と白のブチが1匹。もう1匹は覚えていない。もしかしたら5匹だけだったかもしれない。
茶色と白のブチだけが、他の子犬よりもよく食べて成長が早かった。いつも真っ先にじゃれついてくるので、いちばん可愛がった。育ちすぎていたからか、ほかの子犬が全部もらわれてしまった後に、1匹だけ手元に残っていた。残っていて嬉しかった。このままずっと残っていてくれと願った。

いつも後ろにくっついてきた。ぼくが細い疎水を跳びこえたとき、跳びそこなって流れに落ちたことがあった。すこしドジな子犬だったのかもしれない。そんなことまで思い出した。
だがそれは、子犬とのわずかな楽しかった思い出にすぎない。
こんな真夜中にどうしたというのだ。手のひらに残った布袋の感触がぬぐいきれず、眠りの続きに入っていくことができなくなってしまった。

あの時どうして、布袋からすぐに手を引っ込めてしまったのか。悲しさや悔しさを、どうして黙って押し込めてしまったのか。その時こころの奥に押し込めてしまったものが、こんな真夜中の、今頃になってまい戻ってきたのだ。
小動物のこころしか知らず、悲しさも悔しさも、ただ受け入れることしか知らなかった無知な少年が、眠りの淵でぼんやり突っ立っている。今頃になって、悔しがり悲しんでいるのは誰だろう。



秋の詩集2015

2015年10月03日 | 「詩集2015」


 シャボン玉

ストローの息に
虹がかかる
ゆらゆらとぽつぽつと
光の橋をわたる

虹は
たったの六ペンス
触れると壊れる

ストローのさきを伸ばす
星まで届いたら
その日のトリップは終わる
小さな息つぎにも
虹がかかる日があった


*

 紙ヒコーキ

空に放った
思いをのせた言葉のように
紙は

風のままに浮くことをやめて
折られて指のさきへ
みずから真っすぐに飛んだ

山をこえ海をわたる
鳥にはなれなかったけれど
翼のままで紙は
ひととき空の
美しい希いとなった


*

 竹トンボ

すいーっと水平に
赤いトンボが
いくども記憶の空をよぎった

ハルジオンの花の上を
シロツメグサの草の上を
プロペラの竹になって
赤いトンボを追った

そうして竹は
羽になった
風になった
記憶の空の果てまで飛んで
我に返って
トンボになった


*

 紙フーセン

高みへ高みへと
打ち上げるそれは
紙に包んだ
一匁ほどの願いごとだった

風の声にさそわれて
その日
ふたつの手をはなれ
ひとつになって昇っていった
あれから

ふと空を
見上げたくなるときがある
ぱんと音がして
紙フーセンのやわらかい手が
雲の背中を打っている