風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

神は見た、美しかったからである

2016年02月19日 | 「詩集2016」

窓に向かって古い本をひらく
はじめに丘があった
丘はなだらかな放物線をえがき
やわらかくて温かい
ふたつの水をわけて現れた
それは原初のかたち
満々と水をたたえて膨らんでいる
Oh fine!
神は見た、美しかったからである
……と

流れるもの
それは水だろうか
光るもの
それは星だろうか
微塵となって
かたちなく空しいままで
宙をさまようもの

窓の外へ耳をひらく
かすかに聞こえてくる
単調なリズムのくりかえし
夜の底を流れている混沌のひびき
辿ろうとして辿れない
たどたどしい小さな足おと

グミの実のように
丸くて小さい
太陽はまだ果実のままで
燃えることはなかった
甘くはなく酸っぱくもなく
かたちはあるが光はなく
かすかに優しい熱があった
ひとつぶ
ふるえる舌の先で
はじまりの味をさがす

夢のあとに
空へ帰る鳥たちの鼓動が
窓をたたく
すこしずつ彩られてゆく朝の光
Oh fine!
人は見た、美しかったからである
ゲネシス(Genesis)
一つの終わりは一つの始まり
水を分けて
濡れたままで生まれたい
……と





ソーダ水あかき唇あせぬまに

2016年02月11日 | 「詩集2016」

マリさんのソーダ水を
久しぶりに飲んだ
細かい気泡がはじける
みどり色のグラスの向うに
マリさんの憧れ
大正デモクラシーのロマンがみえる

声が少女のようにピアノだったな
白いナース服の背筋が伸びた
オールドミスの天使
ソーダ水を懐かしんだ
横浜の不二家が日本最初だったそうね
白いおしゃれな喫茶店
カウンターもテーブルも白い大理石
コーヒーカップも白
ボーイさんも白のコート
レモン オレンジ ストロベリー
バニラ ラズベリー ルートビア
噴き出すソーダ水
ピカピカの赤銅レバーは
メイド・イン・シカゴだったって

鋭い針をもつ女王蜂
さっさと青い尻を出しななんて
マリさんのソーダ水はチクリと痛かった
平塚らいてうも知らないでしょ
自分の光で輝くこともできない
女は夜の月だって言ったのよ
ずっと昔
女は太陽だったってね
新しい時代に新しい女
与謝野晶子に松井須磨子
ソーダファウンテンのソーダ水
そうだソーダ ソーダ水だよ
みんな元気になるね
スカッとするね
コカコーラだってあったそうだよ

ソーダファウンテンという
店の名を知ったのは
マリさんが横浜に落ちついたあとだった
ブルーストッキング(青鞜)のヨコハマ
バスガール エアガール マリンガール
憧れだったんかな
あの白いナースキャップも

あ~あ
あれもバブルだったんかねえ
ソーダ水の泡つぶみたいなもんかね
今日はふたたび来ぬものを……なんてね
泡が消えたらただの甘い水なのさ
青いソーダ水
ストローのさきで
ぼくの舌が麻痺している
喪失の泡がかけのぼってゆく
白いマリさんが
爽やかに真空になる





白い線路が続いている

2016年01月30日 | 「詩集2016」

白いチョークで
2本の平行線を引きながら
少年の線路は延びていく
始発駅は細い路地のどんづまり
そこには
大きな猫がいた

線路をたどると
記憶の始まりに行きつく
駅と駅を正確につないでいくように
単調な遊びをくりかえす
少年は電車になりたかった

2本の線を引きつづける
手にもったチョークが鉛筆にかわり
鉛筆がマジックペンにかわり
マジックペンがマウスにかわっても
どこまでも線路は延びていく

夢の中から夢のそとへ
景色の中から景色のそとへ
少年の中から少年のそとへ
運んでゆき運ばれてゆく
背中を押す手は
白い線路をつなぐ白い手だった

その先にはいつも
もうひとつの駅があった
長い旅の途上で待っているのは
もうひとつの電車と
どんづまりの古い路地の
白い猫だった





海を釣ったという老人の話

2016年01月21日 | 「詩集2016」

あんた、見かけない人じゃね
海の人かい、陸の人かい
わしはこのとおり
シケた釣竿が1本きりじゃ
釣れても釣れんでもええ
竿はわしの腕みてえなもんかな
ジャコの機嫌もとらにゃならんし
海の柔らかい手にも触っていたい

とりたてち楽しうもねえ
じゃけんど退屈ゆうわけでもねえ
ここは海と陸との境界
わしはもうどっちにも行けんきのう
ずっと海でいのちき(暮し)してきたけ
体はおおかた魚になっちょる
もう潮っからい風でないと息もでけん

何が釣るるか知ったこっちゃねえ
こないだはカモメが釣れよった
あほカモメはわしを釣ったと思うちょるやろ
竿ごとどこぞへ持っていきよった
あいつは今ごろ
沖でこっそり釣りしよるかもしれん

じゃが釣れるんは魚ばっかりじゃないぞ
錆びたあき缶でん釣れよる
空っぽなのについのぞいてしまう
かび臭い四畳半みてえな
古い家族の匂いがしみついちょる
がらんどうの念仏みたいなやつじゃ

釣りに飽いたらごろんと昼寝んするだけ
一日の半分は眠っちょる
眠れば人生あと戻りもでける
夢ん中のわしは年とらん
いつでん血だらけの海を泳ぎよる
マグロの血もわしの血も見分けはつかん
血だってすすり泣きしよる
夢中になりゃ何してん極楽なんじゃ

近頃はのう
ちょいちょい妙な夢も見よる
岩場に必死でしがみついちょる
まわりは時化(しけ)の海
人も魚もおらん
この世とあの世ん水際はあんなもんかの
死ぬのはええが淋しいのは困るな

日暮れもさみしい
もう空が店じまいしよる
まずめ時いうてのう
釣りには時合なんじゃが
わしは寄ってくる魚は釣らん

いけん、えらいこっちゃ
どでかいことをしでかしたみてえじゃ
もう釣りは続けられん
とうとう海を釣ってしもうた




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今年のおみくじは小吉だった

2016年01月09日 | 「詩集2016」

暖かい正月、暖かすぎる正月となった。
昨年の正月と同じように、落葉を踏みながら山道を下り、田んぼの細い畦道を通って、上神谷(にわだに)と呼ばれる古い集落の神社にお参りする。この神社にたどり着くまでの道のりが、ほんの30分ほどの歩行なのに、なんとなく古い時間に戻っていくようで気に入っている。
鎌倉時代の創建と伝えられる国宝の拝殿を潜ってお参りする。
とくに何かを祈願するわけでもないが、すこし畏まって柏手を打つことによって、こうして1年というものが巡って、また新しいなにかが始まったような気分になる。これが正月というものだろうか。

おみくじは小吉だった

小さな神社なので出店があるわけでもない。
ひっそりとした控えめな社務所で、おみくじを引くくらいがいつものお遊びである。今年の運がどうのこうのというのではなく、書かれてある古びた文章を読むのが楽しみなのだ。
例によって五言絶句の漢詩、

   見禄隔前渓
   労心休更迷
   一朝逢好渡
   鸞鳳入雲飛

何のことか解らないので、訳文を読んでみる。
「宝を見てとらんとすれど まえに谷ありてとりにゆかれぬなり」「おもうようにならぬとて心いためず じせつのいたるをまちてよし」「時いたればよき渡りにおうて谷をこえ 宝のところへいたるべし」「ほうおうの雲に羽をのすごとく じざいをえて喜びたのしむべし」とのこと。
いまは目の前の宝物も手にとることはできないようだ。だが後には、鳳凰が雲まで自在に羽を伸ばすように、喜び楽しめるという。最後の言葉で喜ばしてくれる。

小吉だったり末吉だったり、いつもこの手の言葉で満足させられることになる。そして、宝物を追いつづけてくたびれた1年の終わり頃には、鳳凰のようになるだろうという神様のありがたい言葉も、もうすっかり忘れ去っている。