風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

どこかに

2019年11月04日 | 「新エッセイ集2019」
地球の朝が
いっぱいの落葉にまみれている
どんな嵐が
吹き抜けていったのか
あのひとも
どこからか来てどこかへと去ったが
夢のかけらのような
残されたものを
いまも探しつづけている

千々にくだけた朝は美しい
光のさきの
きっとどこかに
いい国はあるのだろう

落葉をあつめ
質素な暮らしをたのしむ
かたいパンとやわらかい水と
あまい果実と乳と
たどたどしい言葉を
小鳥のように口移しする
もうひとつの朝が
どこかに





あるく

2019年10月30日 | 「新エッセイ集2019」
いつもの道をあるく
遠かったり近かったり
おなじ道なのに同じではない
水たまりだったり穴ぼこだったり
ときには野良の道
ときにはトカゲの道
ただ風の道もあり
足あとばかりをたどる
白い道も

いまは落葉の道
一枚いちまい
赤や黄や灰色や
大きなものや小さなもの
誰かのさよならだったり
忘れ物だったり
てんでにばらまかれた
メモのようで
もう思い出すこともできない

きょうは
葉っぱの絵手紙をかいて
森のポストまで
あるく



(ふわふわ。り)

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いまや東京は外国だった

2019年10月24日 | 「新エッセイ集2019」
所用があり、久しぶりに東京へ出かけてきた。
かつての街の記憶やイメージと、現在の東京の印象には大きな隔たりがあった。
移動はほとんど地下鉄だったが、まるで蜘蛛の巣のように入り組んでいて、おまけに人も多くて、ぶつからないように歩くだけでも大変だった。
行き交う人々も半分以上は外国人で、自分はどこへ行こうとしているのか、いまどこにいるのかさえ判らなくなりそうだった。立ち止まることもできず、人の流れをかいくぐったり押されたりしながら、ひたすら目的の駅名や記号を追いながら歩いた。

駅名だけは馴染みがあったが、駅や街の様子はすっかり変貌していた。
地上に出ると、そこは高層ビルばかりで現代の迷路のようだった。角をひとつ間違えると、とたんに迷子になった。道を尋ねると、相手は外国人だったりして言葉も通じなかった。
いつのまにか東京は外国になっていて、ぼく自身も外国人になっているのだった。
豊洲のホテルでは、受付嬢も日本語が片言で、チェックインの入力操作もうまくいかず、結局は手書きで記名させられてしまった。宿泊客も外国人の方が多かった。ホテルのシャトルバスの運転手も、運転はうまかったが細かい日本語は通じにくかった。

なんとなく新しい東京に拒絶された思いになったので、大阪に帰る最終日、乗換え駅の上野で外に出てアメ横を歩いてみた。おしゃれな東京とは違って、ここには雑駁で人間臭い別の東京があった。客も店員も外国人が多くて、呼び込みも何語かわからない外国語が飛び交っていた。
店頭には生魚が並べられ異臭を放っている。その隣りの店では、派手なTシャツやジャンパーがぶら下がっている。東南アジアのどこかの市場を歩いているみたいで、旅行者の気分になればそれなりに楽しかった。

上野の街は古いのか新しいのか、よくわからないところだった。ついでに古い浅草も見てみたくなり、そこから古い地下鉄に乗って浅草に向かった。
仲見世通りは人でいっぱいで、自分の意志ではなく人に押されて歩いているみたいだった。ここでも多くは外国人で、自分ももはや外国人みたいなものだから、思いきり観光気分に浸ってみるしかなかった。
古いものと新しいものが混在している、そんな中に巻き込まれる戸惑いが楽しかった。焼きたての人形焼きをPayPayで払って食べた。

浅草寺の境内からスカイツリーの先端が見えた。それを目印に、ひと込みを離れて隅田川まで歩く。言問橋の近くでスカイツリーの全貌が現れた。
やっと周りが静かになった。
ゆったりと流れる川と、そこから指さすように空へ延びる塔を眺めているうち、新しさもあり懐かしさもある東京の景色が、静かに蘇ってきた。
まもなくここを離れて、ふたたび西のどこかへ帰らなければならない。ちょっぴり旅愁の風を感じた。
東京の地下鉄の、蜘蛛の巣を抜け出したら、数日間はなれていたネットの蜘蛛の巣が、急に恋しくなった。





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秋の風船

2019年10月16日 | 「新エッセイ集2019」
風のように、かすかな気配で通り過ぎるものがある。
花がしぼんで、やがて散る。
赤や黄色くなった葉っぱが、枝をはなれて落ちる。
潤いのあるものは、しだいに枯れていく。
そのような微かな動きの中に、秋という季節がある。

記憶の秋が、乾いた風に運ばれてくる。
柿が赤く熟れる。
栗のイガがはじける。
アケビの蔓を引き寄せる。
刈り込まれた稲穂のあまい匂いを吸い込む。
夕方になると、傾いた太陽が西の空を焦がしはじめる。きょう一日の秋を収穫したので、空は残った雲を燃やしているのだろうか。

フウセンカズラの実の、膨らんだ風船を収穫する。
食べられる物ではないから、収穫ではないかもしれない。でも摘み取る指先には、収穫の喜びが伝わってくる。
強くつかむと、風船の実はしぼんでしまう。空気を閉じ込めただけの実であっても、豊作の膨らみがある。

フウセンカズラの花は、小さくて白い。
そんな小さな花にも蜜はあったのか、夏のあいだ、黒っぽい蜂がせっせと通ってきたのだった。
実のひとつひとつに夏の空気を残して、あの蜂たちはどこへ去っていったのか。小さな風船に残されたものは、暑かった夏の置きみやげかもしれない。






その風の味は知っている

2019年10月11日 | 「新エッセイ集2019」
新しい風が吹いている。
いい香りがする。どこかで金木犀が咲いているのだろう。いつかのどこかの、記憶の風が遠くから運ばれてくる。
その風を食べてみる。ひんやりとして、甘くておいしい。
すこしだけ心の隙間が満たされる味がする。

古い家だった。その家はもう無いけれど、その庭ももう無いけれど、そして、その木ももう無いけれど、いつかのある時、その木の下でぼくは育った。
大きな金木犀の木だった。雨のように降り注いでくる秋の香りに、あるときは喜びの思いに包まれ、またあるときは、漠然とした不安に襲われたりした。
そんな風がまた吹いている。

小さな庭には椿の木もあった。春にはメジロがやってきた。メジロは飛ぶことを忘れたように警戒心が弱かったけれど、少年の手で捕まえることはできなかった。
山椒の木もあった。ぼくが山からとってきて植えたものだった。指に付いた山椒の匂いは、いつまでも指に残った。
金木犀は甘く、山椒は辛く、椿は酸っぱく、古い記憶もそれぞれの味わいで染められている。

風に呼ばれて、急に金木犀の里へ帰りたくなった。
もう金木犀の風も吹いてはいないかもしれない。とっくに無くなったものばかりで、なにか確かめることができるものがあるだろうか。いまは記憶の道を辿るしかできないのだろうか。
だが、そこに吹いているだろう風の味は憶えている。満腹にはならなくても、食べてみたくなるような懐かしい味があると思う。