風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

林の奥へと光をたずねて

2019年07月14日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(2)そこに光堂


奥州平泉で、ついに雨に追いつかれてしまった。
傘をさして薄暗い林道を抜ける。その先に、光り輝くものはあった。
鉄筋コンクリート造りの覆堂(おおいどう)の中に入ると、全体が透明なガラスの壁に囲われて、まばゆいほどの光を放っているものが、そこにあった。仏像も柱もすべてが金色に輝いていた。890年もの間、金と螺鈿の輝きを失わなかったことに驚く。
中尊寺金色堂。これこそ人が作りだした、千年の光だった。

光を支えた墨のいのちも長い。棟木に「天治元年」(1124年)とか、「大檀散位藤原清衡」などの墨書がひっそりと残っているという。
堂の扉も壁も、軒から縁や床面にいたるまで、漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられている。古い記録(『吾妻鏡』)には「金色堂 上下四壁は皆金色なり」などの記録があり、当時から「金色堂」と呼ばれていたらしい。
このようなものが、建立当初は屋外に建っていたというから、この奥深い山の中でどのような光を放っていたか、まるで夢幻の光景としてしか思い浮かばない。

平泉の黄金に彩られた時代の輝きは、わずか100年ほどだった。
源頼朝によって滅ぼされ、数々の堂宇は夏草の下に埋れてしまったという。
それから500年後、ひとりの旅人が平泉を訪れた。
  「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」
松尾芭蕉である。
旧暦の5月13日、新暦では6月29日だったというから、ちょうど今頃の季節だったのだろう。国破れて山河あり、その場の光景に感動して涙した芭蕉は、『奥の細道』に細かく書きのこす。
「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先ず高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐとみえたり。さても 義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで泪を落とし侍りぬ」。

そのあと、芭蕉は金色堂を訪ねる。
「兼て耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂(ひかりどう)は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ。しばらく千歳の記念(かたみ)とはなれり」。
  「五月雨の降り残してや光堂」
芭蕉の名文によって、すべては書き尽くされている。それ以上ぼくの書けることはない。千歳の記念(かたみ)を胸ふかくに収めて、ふたたび木々のしずくを浴びながら、黙々と雨の坂道をくだる。 







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