風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

父の遺言状

2019年03月17日 | 「新エッセイ集2019」

 

父の命日で、天王寺のお寺にお参りした。
父は86歳で突然に死んでしまったのだが、父の死後、遺品の整理をしていた母が、ある封書を見つけ出して小さな騒ぎがおきた。それは一見さりげなくみえる1通の遺言状だった。
その遺言状は、父が書き残したものではなく、父が長年親しくしていたある女性が書いて父に渡していたものだった。
その間の詳しい事情は誰にも分からないのだが、父としても、そんなものを持っていても、誰かれに見せられるものではなかったろうし、とりあえず、引き出しの奥にでも仕舞っておく以外になかったものとみえる。
その頃、女は体調をくずして市内の病院に入院していたらしく、父がしばしば見舞いに行ったりしていたことも後にわかった。
だが、そんな父が先に死んでしまい、女が書いた遺言状だけが残された。

その遺言状を見ていちばん驚いたのはぼくの妹だった。
遺言状の宛名が父ではなくて妹の名前になっていたのだ。たどたどしい文字ではあったが、遺産のすべてを妹に譲渡するということだけは、分かりやすい文ではっきりと書かれてあった。
当初、妹は戸惑っていた。
父と女とのことで一番苦しめられたのは私かもしれない、と妹は言った。
けれども、会ったこともない女から、それも幾度となく憎んだりもした女から、そんな曖昧なものを受取る筋合いはなく、そうなった経緯を、ぜひ父から聞いておきたかったと言って悔しがった。
おそらく父はその顛末を妻にも娘にも話すことはできなかっただろう。あるいは、今わの際にでも話そうと思っていたのだろうか。
だが、父にはその時は来なかった。

ぼくは18歳で家をとび出したので、父とその女とのことはほとんど知らなかった。すべてぼくが家を離れてから起きたことであり、噂くらいは聞いたかもしれないが、ふたりの関係が長い間続いていたことなど初めて知った。
ぼくよりも10歳年下の妹はずっと渦中にあった。
中学高校時代の過敏な年頃を、いつも夫婦のいさかいの中で過ごしたという。夜になると、店をしめて父はいなくなり、続いて母が舌打ちをしながらどこかへ出かけてしまう。やりきれない空気の中で妹はじっと耐えるしかなかったという。
そして、両親の晩年まで、いちばん近くで暮らしたのもこの妹だった。

何らかの形で娘にしてやれることがあれば、と父が考えたことがあったとしたら、それは娘に対する贖罪の気持ちもあったかもしれない。妹としては、そんな父親の気持を推し量ってみることはできた。
それと同時に、身寄りもない女の先行きについても、何かしら父から託されたのではないかと、そんな曖昧さが、妹の気分を重くするのだった。もしもの場合、誰かが女の面倒をみなければならないかもしれなかった。
期待するほどの財産があろうなどとも考えられず、死んだあとに、身辺のがらくたなどを寄越されても、整理しきれないものが増えるばかりで、妹としては、ただ迷惑なだけの遺言状が託されたみたいだった。

父と女とでどんな話し合いがあったのか分からないが、何らかのものを遺言状という形で、自分らよりも若いひとりの人間に託したかったのだろうか。
そのことは、かなり重みのある決意だったかもしれない。遺言状というものの重みではなくて、それを書いたということに重みがあったのだ。
遺言状にも消費期限というものがあるのかどうかは知らない。けれども当初、その遺言状のまわりにあった重たい空気のようなものは、時がたつにつれて、次第に軽いものになっていったようにみえる。
そのことに関して何らかのトラブルがあったわけでもなく、時間とともに妹も距離をおいて考えられるようになったという。

まだ桜が開花する前だった。その朝、いつもより父がよく寝入っているので、そんな朝はそれまでも幾度もあったことだろうが、いつものように母が起こそうとすると、すでに父の体は何の反応もなかった。
心臓が突然止まったらしい。死亡推定時刻は夜中の1時頃だろうとのことだった。ひとつの夜具にいつもふたりで寝ていながら、母は朝まで父が死んだことに気づかなかった。それほど静かな死だった。
その日はどこかに出かける予定があったらしく、父は前夜、きれいに髭を剃って寝たという。だが出かけた先は、ふたたび帰ることのない遠い黄泉の国だった。
さよならという最後の言葉も、父は誰にも告げることはなかった。
そして、父自身の遺言状もない。

 

★エッセイ集を本にしました
(A5判・本文168頁)
ご希望の方には差し上げます。
PC版はサイドメニューの「メッセージ」から、
スマホ版は「コメント」(公開非表示)から、
送付先をお知らせください。

まだ少々残っております。

  

コメント (4)    この記事についてブログを書く
« 春は花の香りがする | トップ | 春愁 »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (yo-yo)
2019-03-17 21:41:47
のりさん
読んでいただき、ありがとうございます。

当事者が亡くなってしまえば、謎も
謎のままですね。解けないままでも
記憶の中には残ってしまいますが。

返信する
はじめまして (のり)
2019-03-17 21:32:16
短編小説を読んだような気がしています。 謎に満ちた人の世ですね。
返信する
こんばんは (yo-yo)
2019-03-17 21:26:16
つゆさん
いつもコメント、ありがとうございます。

身寄りのなかったその人も認知症になり、
最後はどうなったのか詳しくは分りません。
遺言状もとっくに自然消滅したようです。

返信する
Unknown (aya7maki)
2019-03-17 17:55:00
こんにちは〜つゆです。

その女性は、身寄りのない人だったのでしょうか。
遺言状にも時効があるのかもしれない、という言葉、しみじみ感じ入りました。
返信する

「新エッセイ集2019」」カテゴリの最新記事