日刊スポーツによると、85・87年の日本選手権を優勝した清嶋彰一選手が近々引退届けを出すと報じている。
昨年6月に練習中に足を骨折。回復が思わしくないことに加え、50歳という年齢のこともあって、本人曰く、
「体力の限界」
と、あの「大横綱」と同じ表現を使って事実上の引退表明をした。
清嶋はもともとバレーボールの選手で、駒大時代はセッターとして1年から主力として活躍。さらに、全日本級の実力があるといわれていたが、当時、全日本チームは大型化をまい進していた時期でもあり、身長が180センチそこそこの清嶋には「お呼びがかからない」と見られていた。清嶋もそのことを覚悟していたみたいで、2年で中退し、その後競輪転身。
逆に競輪界では「大型先行選手」と言われた清嶋は、体をフルに使ったパワー走法で、同じくバレーボール出身の滝澤正光とともに、中野浩一を大いに苦しめ、また、数々の名勝負を演じてきた。
清嶋の先行スタイルは、「ローリング走法」、「ダッチロール走法」とも言われ、一度前に出ると一旦ペースを緩めて相手の出方を伺い、後方からの仕掛けがないと見るや一気にスパートをかけるというものであった。そのあたりが、同じ「大型先行選手」として良きライバルでもあった滝澤正光の怪力走法とは違っていた。
84年の競輪祭決勝、当時絶不調だった中野浩一をさしおいて、清嶋に人気が集中するも、中野-井上の巧妙な作戦に嵌って、何もできないまま3着に終わり、悔し涙にくれていたが、翌年の立川・日本選手権では常に「名コンビ」と言われた山口健治-尾崎雅彦を従え堂々と逃げ切って初タイトル。しかしこの大会、中野が欠場していたこともあって、清嶋はいささか心残りな面があったみたいだ。
87年の千葉・日本選手権でも、滝澤が準決勝で脱落していたとはいえ、お得意のローリング走法を駆使して、この年、世界選のケイリンを制するなど、日の出の勢いにあった本田晴美に番手に入られるという厳しい戦いを強いられながらも、直線に入って本田に「脚を三角に」回らせ、大外を強襲してきた戸辺英雄の猛追を退けて優勝。またこの当時のダービーは、滝澤→清嶋→滝澤→清嶋→滝澤、といった流れで2人が優勝をたらいまわしにしていた。
また、85~88年のグランプリだが、道中風を切って走っていた選手は一体誰か?答えは唯一人。そう、清嶋であった。
その後、奥さんの郷里である福井に移籍。人情味溢れる性格からか、多くの弟子を抱えるも、やがて、当時福井のボス的存在であった鷲田善一と「抗争状態」となり、ついには訴訟問題にまで発展するなど、その当時は競輪界の「トラブルメーカー」として名前が常に挙がっていた。
福井を追われた清嶋は当時はまだ競輪が根付かない地であった沖縄に移籍。すると、輪界一「人情味の厚い」男として知られる清嶋を慕ってか、その後多くの選手が沖縄へと転籍した。
ま、清嶋についてのエピソードっていろいろあるみたいなんだが、何か、引退と聞くと寂しいねぇ。
とりわけ、中野浩一に対しては並々ならぬ「敵意」があり、中野の著書である、「競輪へ行こう」でも書かれていたが、新人の頃、中野にうまく自分の後位に入られ、そのたびごとに「番手捲り」されて、いつか中野を力でねじ伏せたい、という思いを抱いていたみたいだ。すると、いつの間にか中野に後ろに入られても番手捲りはおろか、交わされなくなり、中野に、
「一番やりにくい相手」
と言わしめた。
ところで清嶋は確か、中西龍太郎と共同オーナーでリゾートマンションを経営しているんだろ。ま、引退してもしばらくの間は「安泰」だろう。