いまはもう伐られてしまったソメイヨシノ。
「開放区」91号「男のことば」24首より・・・2011/5
大きめの余震の中を作業場の板金ハンマーの音は途切れず
現実に起きてしまった光景を幾度も見せられ見続けている
福耳の枝野氏話すあいだにも炉心溶けゆくしどろもどろに
ガソリンの価格表示もガソリンもなくなる昼のガソリンスタンド
「仕方ない」「どうしようもない」やはりその「やむを得ない」がもっとも適す
平成二十三年春の列島にもサクラガ咲イタ。咲イテクレタ。と
3/11(火)曇 東日本大震災発生の日
今日という日は感傷的になる。2万7600人がまだ避難生活をしている。
2011年(平成23年)3月11日14時46分に発生した東日本大震災。
14年前の金曜日。わが社の年度末の繁忙期のさなかの大地震。
ボクは事務所にいて、いまにも倒れそうなPCを抑えて揺れが収まるのを
待っていたが、事務局長の妹は「逃げろー」と叫びつつ外へ避難した。
地震後の呆然とした空気のなかを苦笑いしつつ、みな無事でありました。
珍しく母から工場に電話があり「死ぬかと思ったよ」と言った。
これが母との最期の会話となった。
定時に仕舞って帰宅難民となった同居人を迎えに行った。
大渋滞が発生していてバス停の長い列からクルマのドアを叩く知らない人。
何時間かかるかわからないよ。と、その人も乗せて大手町に向かった。
結局、同居人と落ち合うことはできたけれど帰る気力はなくクルマで眠った。
マグニチュード9は、アメリカ地質調査所の情報によると
1900年以降、世界で4番目の規模の地震だったとのこと。
宮城県栗原市で最大震度7、東京では概ね震度5だった。
地震による津波の被害は想像を絶するもので、原発の水素爆発は衝撃。
まもなく計画停電が始まり、ガソリンが買えなくなり、政治家の
「第二次世界大戦敗戦以来の日本の危機」との言葉が怖ろしかった。
生業では当時、わが社の戦力として当てにしていた外国人研修生が
寮に引き籠ってしまって、毎日泣きたい思いで働いた記憶。
計画停電が実施されれば工場はストップ。モノ作りができないのは
やむを得ないが、その分売り上げが止まるのが恐怖でしかなかった。
それでも何事もなかったかのように櫻は咲いた。やけに美しく思った。
ボクはこの前年に住宅ローンを組んだ庵に暮らしていて、書棚やテレビが
倒れてるだろーなーと恐る恐る帰宅したけれどどうにか無事で、計画停電も
実施されない地域だったので恵まれてはいた。
ボクに14年後があるとは思わずに生きていた。
おしまい。