浅野ゆうじの独り言

社会・政治に関連する本の感想や日々の出来事についての私なりの考え方を書いています。

議員年金について

2010-07-26 09:36:29 | 国際・政治

先ほどテレビで議員年金を取り上げていましたので、少し議員年金についての考えを書いてみます。

根本的な問題は、国民年金と同様に、制度を維持するための年金賦課(拠出)者、つまりこの場合は現職議員の減少によって、財政が破たんするというものです。制度は国民年金と同様に、保険のような積立方式ではなく、賦課方式であるため、制度そのものの問題であり、議員の特権という問題ではないと思われます。

実際に、このような賦課方式では、現職議員個人でとらえますと、おそらく年金で受給するであろうと思われる受給額よりも、拠出する負荷額のほうが多くなるケースがすでに出てきているのではないかと思われます。また、国民年金と二重になっているという批判は、国民年金は国民年金として拠出しているのであって、基礎年金としての存在は別の考え方が必要です。

議員の身分とはどこにあるのか、年金だけにとらわれない議論が必要でしょう。

以上


市民活動とは

2010-07-24 08:54:27 | 国際・政治

昨晩、ある市民活動の集会にオブザーバーとして出席し、意見を述べる機会がありました。集会そのものは、市民のある一つの要望を県や市に行うもので、市民活動として有意義なものであると感じていましたが、政治家の存在とは何であろうかと改めて感じさせられました。

こうした要望が、いかに県民や市民のためにあるという大義であったとしても、一部の人を利するための利権行動(必ずしも金銭が伴うものとは限らない)につながりかねないという認識を持たないことにあります。つまり全く関係のない第三者には、その要望に対する税金の投入は全く無駄に映る可能性があるということです。

「政治家はあてにならないから、我々自らが行動を起こし、署名活動をはじめ、デモをするぐらいまでの行動を起こすべきだ。」という発言がありました。確かに市民活動からすれば、そのような考え方は当然であるのかもしれませんが、反面、現実を直視していない発言ではないかと思います。政治家としての私自身の力量は別として、今の政治制度を現実としてとらえ、要望が実現する結果に導くような努力が必要ではないでしょうか。

要望する理念(一般的な大義)を明確にし、多くの仲間を組織化し、それに賛同する政治家を利用する(言葉は悪いですが)、こうした現実的な動きをしなければ、思いは実現しないでしょう。少なくとも税金の投入という公的な要望であるならば。

以上


広報紙の発行について

2010-07-23 07:59:05 | 日記・エッセイ・コラム

どれだけ多くの方にを読んでいただけるのかを考えれば考えるほど、広報紙の作成は難しいと感じています。内容よりも作成し配っているという事実のためだけであれば、難儀はしませんし、単なる報告でとどめるとすれば、事実の列挙で済むのかもしれません。しかし、本来の政治家の広報紙ということを考えればコミュニケーションツールとして重要であるとある方から教えていただきました。読もうと意欲を掻き立てる紙面構成や話題性を限られた紙面で作り上げる難しさはありますが、従来は少し安易に考えていたところもありますので、少し真剣に取り組んでみたいと思っております。

岐阜市は「議会だより」のような議会発信の広報紙を作成しておりません。議会運営委員会で、岐阜市の広報紙を活用して議会報告をしていこうという動きがあります。これまでテレビ放映やインターネット中継で広報に努めるという方向で進んできましたことから、不要ではないかという議論もありますが、幅広く広報に努めるという点からは、まだまだ活字に頼る部分が大きいような気がします。これも内容についてや担当者の問題があり、すんなりとは進まないでしょうが、議会の活性化の一つとして改善していくべきことではないかと思っております。

以上


一口に地域主権といっても

2010-07-22 07:34:25 | 国際・政治

地方分権、または地域主権という言葉は、国から地方への財源とともに権限の移譲をさしています。当然のことながら地方が自立的に行政運営を行うことになりますが、同時に地方がそれだけの責任ある体制になっているのか疑問は尽きません。

たとえば、昨日このブログでも述べたような首長と議会の関係にしても、必ずしもお互いに成熟した関係にない場合は、しわ寄せが住民に行くという結果も想定されます。有権者がそれだけの責任を覚悟しているかどうかにかかっているということになるのでしょう。

首長や議会は住民のしもべであるという考え方をするならば、有権者自身の政治的成熟も要求されるわけです。選挙という審判方法によって、行政の運営を任せることの責任に大きな意味を持つようななるわけです。政治の情報公開と説明責任の進展と有権者の政治的成熟が結び付いてこそ、地域主権が成り立ちます。

政治家は、自らの理念と身を律する自覚が要求されるとともに住民の監視も厳しくする土壌を作らなければならないのかもしれません。

以上


議会を牛耳ろうとする首長

2010-07-21 07:52:18 | 国際・政治

大阪府の橋下知事、名古屋市の河村市長、阿久根市の竹原市長の、議会や議員の対立の報道がされています。それぞれのケースにおいて、対立の構図は違っていますが、二元代表制における議会とは何かという重要なテーマを内包していると思われます。

リーダーシップを発揮しようとすれば、多様な意見を持つ議会での対立は必然であり、議論される場が議会であるとすれば、首長は議会の決定に従うというのが本来の姿です。問題は、首長がそのリーダーシップを発揮するために、議員そのものを自らの配下に置こうとする行動に問題があります。橋下知事の大阪維新の会、たとえそれが政策集団であっても議員の立場が拘束されることになり、議会の形がい化につながります。また、河村市長の場合も、自分の主張が通らないから、議会解散のリコールを求めるという行動は、議会を尊重する行為ではありません。竹原市長は、もうすでに議会は必要ないという行動です。

民主主義は、多様な意見を集約するという政治システムであり、議会制度の在り方を今一度考えるべきではないかと思います。一つ一つの政策に関し、それぞれの賛否は当然あってしかるべきで、そのための議会の議論があるはずです。単に一つの政策や方針で自らの主張を強引に強行しようという態度は、民主主義の体制に逆らうものだと言わざるをえません。郵政選挙の小泉的手法が一つのリーダーシップの発揮方法であったとしても、二元代表制は、首長に全権をゆだねるという制度ではありません。

権力を持つことの怖さは歴史が証明しています。選挙の結果にとらわれることなく、多様な民意を吸収する行政のリーダーとしての良識ある行動を願うばかりです。

以上