こんばんは。
24時間テレビが終わりました。
今朝、『ヨシノリ先生』を観て、思い出した事があります。
その前に。
中学3年生の担任になり、26年前に突然『網膜剥離』になり、手術のため、中学3年という大事な時期に、担任をしていた子供たちと離れなくてはいけなくなったヨシノリ先生。
『金八先生』にあこがれ、熱血先生になったヨシノリ先生。
26年目の再会。
担任をしたクラスで、気にかけていた子供たちと再会し、立派に育った子供たち。みんなが、先生に感謝していました。
立派に育った子供たち。と言っても、26年前ですから、もう40歳ぐらいですよね。
で。そんな、熱血でもないし、ヨシノリ先生と比べたら、ちっちゃな事なのですが、私自身の事を思い出しました。
私は、大学を卒業して、大阪の私立の男子高校の教員になりました。
私の両親は、私が卒業した福井県立福井商業高等学校の前身の女学校時代に、父は学校の校務員。母は事務員として知り合いました。
父が30歳。母が20歳の時です。
それから、母は9人の子供を産み、その9番目が私です。
父と母の想いの中では、子供の内の誰かが、学校の先生になる事を望んでいたことを、ある時に知りました。
でも、私の上の兄が、初めて大学に進学し。でも、教員の道には進みませんでした。
私は、大学には行けないと思っていたので、いろんな経緯があり、福井商業高校に入学しました。
幸い、三男の兄が、自衛隊から全日空に採用され、ジャンボジェットのFE(フライトエンジニア)という職種で働く事になり、その兄が、私を大学に行かせてくれる事になりました。
私立の大阪経済大学に合格できて、その時に、高等学校の商業科の教員免許を取得しました。
父、母が『誰かが学校の先生になる』事を望んでいた。その最後に果たせるのは私でした。
ところが、大学在学中に、アルバイト先でかみさんに出会い、末っ子の私と、4人姉妹の長女のかみさんと。かみさんの両親の事を見れるように、熊本に行くことも考え、大学卒業前の就活では、熊本の『寿屋』というスーパーへの就職を考えていました。
その試験の日に、熊本まで行っての帰りに、大学に寄って、掲示板を見た時に、ある私立の男子校の商業科教員の募集が張り出されていて。その学校の採用試験を受けて、採用してもらえる事になりました。
この選択は、かみさんの両親よりも、私の両親の事を優先した事になります。
ただ、私の中では、教員として、熊本に行くことも考えての事でした。
大学を卒業し、大阪の男子高校に商業科教員として採用され、1年間は商業科の授業を担当する教員として過ごしました。
2年目になり、初めて担任になり、2年生のクラスを受け持つ事になりました。
その年の5月頃だったと思います。
ある朝、ふと自分のクラスの教室に行った時に、5人の生徒が教室で喫煙していました。これを見逃すわけにはいきません。
5人は停学になりました。
その停学明けの前日。日曜日に家庭訪問に行きました。
ただ、朝から何も食べていないのに、胃が重たくて。
自分の車で、生徒たちの家を周り、夜に家に帰ってから。その時には、かみさんとは同棲していました。
夜になって、1日、何も食べていないのに、家で吐血してしまい、かみさんの運転で、近くの救急病院に行きました。
それから、数回、1時間に1回、吐血を繰り返し。そのまま、入院。
検査の結果は、多発性潰瘍という病気で、胃の中に13個の潰瘍が一度にできていました。
それで、胃の下3分の2を切除する手術を受けることになり、手術をしたのですが。
当初は、長くても1か月程度の入院だったのですが、2か月入院する事になり、結局、そのまま夏休みに入ってしまいました。
私が初めて担任を持ったクラス。2か月で私が入院してしまい、子供たちには何もしてあげられないままでした。
退院して、それから急遽、決めて。その夏休み中にかみさんと結婚することを決めて。8月22日に結婚式を挙げました。
2学期には、学校に戻り。でも、1日6回に分けて
の食事。
毎日、弁当を持たせてくれたのですが。その弁当も、2回に分けないと食べれない。
やんちゃな子供たちも、私のことを分かっていてくれて、2学期、3学期と、担任としての役割を少しでしたが、果たすことができました。
その学校では、修学旅行が、2年の3月にあり。大阪の南港からフェリーで鹿児島の志布志に行き。バスに乗り換え、鹿児島の知覧から宮崎を経由して、熊本の阿蘇、そして、大分の別府。別府からフェリーで大阪へ戻るコースでした。
別府で、最後のお土産屋さんに立ち寄り、フェリーに向かう、短い時間に。
バスガイトさんにお願いして、マイクを借りて。担任していた生徒達に伝えました。
『ごめんなさい。先生は、この3月で学校を辞めます。病気をして、みんなに迷惑をかけたのに、学校を辞める事にして、ごめんなさい。』
その後、生徒達は、いろんな言葉をかけてくれました。
それは、私にとっては嬉しいものばかり。やんちゃな生徒も。
その翌年度は、勤めていた男子校の先輩の先生に紹介していただき、今度は女子高の非常勤講師。アルバイトです。
この時、かみさんも仕事を辞めて、アルバイト。
若いから出来た事ですね。2人してプータロウ(今のフリータですね)生活。これ、結婚してからですよ。
私は、非常勤講師をしながら、商業科の教員免許だけでは弱いので、社会科の教員免許を取る為に、大学の夜間学部にもう一度通い、(本当は1年では無理だったのですが、大学側の間違いで、1年で必要な単位が取れて)社会科の高校、中学の教員免許を取得しました。
しかし、公立の採用試験は、そんな簡単ではありませんでした。
それで、そろばんの出来ない商業科の教員ですから、これからは『コンピュータだ』って思い、でも、結婚していたので、専門学校に行く余裕もなく、素人で雇ってくれる会社を見つけて、そこで仕事をする事になって。
ハマってしまいました。コンピュータの世界。
それで、今に至っています。
私の仕事のスタートは教員でした。
でも、ヨシノリ先生の様な、熱血先生ではありませんでした。
担任を持って、すぐに病気になり、生徒達を観てあげられなかった教員でした。
ヨシニリ先生の26年前。よりも、もっと前の35年前です。
あの生徒たちも、50代になっています。
女子高の生徒たちも、ほぼ同じ年代。
今日の『24時間テレビ』を観ていて、長らく忘れていた。私の20代前半の頃の事を思い出しました。
そう言う意味でも、今日は『ありがたい。いい1日。』でした。
今日も、家飲みしています。
酔っ払いの、戯言です。
ここで書いた、いろんな経緯は。
『手術の思い出』
『縁とか運とか』
のカテゴリーで書いていますので、よろしければご覧ください。
では、また。
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24時間テレビが終わりました。
今朝、『ヨシノリ先生』を観て、思い出した事があります。
その前に。
中学3年生の担任になり、26年前に突然『網膜剥離』になり、手術のため、中学3年という大事な時期に、担任をしていた子供たちと離れなくてはいけなくなったヨシノリ先生。
『金八先生』にあこがれ、熱血先生になったヨシノリ先生。
26年目の再会。
担任をしたクラスで、気にかけていた子供たちと再会し、立派に育った子供たち。みんなが、先生に感謝していました。
立派に育った子供たち。と言っても、26年前ですから、もう40歳ぐらいですよね。
で。そんな、熱血でもないし、ヨシノリ先生と比べたら、ちっちゃな事なのですが、私自身の事を思い出しました。
私は、大学を卒業して、大阪の私立の男子高校の教員になりました。
私の両親は、私が卒業した福井県立福井商業高等学校の前身の女学校時代に、父は学校の校務員。母は事務員として知り合いました。
父が30歳。母が20歳の時です。
それから、母は9人の子供を産み、その9番目が私です。
父と母の想いの中では、子供の内の誰かが、学校の先生になる事を望んでいたことを、ある時に知りました。
でも、私の上の兄が、初めて大学に進学し。でも、教員の道には進みませんでした。
私は、大学には行けないと思っていたので、いろんな経緯があり、福井商業高校に入学しました。
幸い、三男の兄が、自衛隊から全日空に採用され、ジャンボジェットのFE(フライトエンジニア)という職種で働く事になり、その兄が、私を大学に行かせてくれる事になりました。
私立の大阪経済大学に合格できて、その時に、高等学校の商業科の教員免許を取得しました。
父、母が『誰かが学校の先生になる』事を望んでいた。その最後に果たせるのは私でした。
ところが、大学在学中に、アルバイト先でかみさんに出会い、末っ子の私と、4人姉妹の長女のかみさんと。かみさんの両親の事を見れるように、熊本に行くことも考え、大学卒業前の就活では、熊本の『寿屋』というスーパーへの就職を考えていました。
その試験の日に、熊本まで行っての帰りに、大学に寄って、掲示板を見た時に、ある私立の男子校の商業科教員の募集が張り出されていて。その学校の採用試験を受けて、採用してもらえる事になりました。
この選択は、かみさんの両親よりも、私の両親の事を優先した事になります。
ただ、私の中では、教員として、熊本に行くことも考えての事でした。
大学を卒業し、大阪の男子高校に商業科教員として採用され、1年間は商業科の授業を担当する教員として過ごしました。
2年目になり、初めて担任になり、2年生のクラスを受け持つ事になりました。
その年の5月頃だったと思います。
ある朝、ふと自分のクラスの教室に行った時に、5人の生徒が教室で喫煙していました。これを見逃すわけにはいきません。
5人は停学になりました。
その停学明けの前日。日曜日に家庭訪問に行きました。
ただ、朝から何も食べていないのに、胃が重たくて。
自分の車で、生徒たちの家を周り、夜に家に帰ってから。その時には、かみさんとは同棲していました。
夜になって、1日、何も食べていないのに、家で吐血してしまい、かみさんの運転で、近くの救急病院に行きました。
それから、数回、1時間に1回、吐血を繰り返し。そのまま、入院。
検査の結果は、多発性潰瘍という病気で、胃の中に13個の潰瘍が一度にできていました。
それで、胃の下3分の2を切除する手術を受けることになり、手術をしたのですが。
当初は、長くても1か月程度の入院だったのですが、2か月入院する事になり、結局、そのまま夏休みに入ってしまいました。
私が初めて担任を持ったクラス。2か月で私が入院してしまい、子供たちには何もしてあげられないままでした。
退院して、それから急遽、決めて。その夏休み中にかみさんと結婚することを決めて。8月22日に結婚式を挙げました。
2学期には、学校に戻り。でも、1日6回に分けて
の食事。
毎日、弁当を持たせてくれたのですが。その弁当も、2回に分けないと食べれない。
やんちゃな子供たちも、私のことを分かっていてくれて、2学期、3学期と、担任としての役割を少しでしたが、果たすことができました。
その学校では、修学旅行が、2年の3月にあり。大阪の南港からフェリーで鹿児島の志布志に行き。バスに乗り換え、鹿児島の知覧から宮崎を経由して、熊本の阿蘇、そして、大分の別府。別府からフェリーで大阪へ戻るコースでした。
別府で、最後のお土産屋さんに立ち寄り、フェリーに向かう、短い時間に。
バスガイトさんにお願いして、マイクを借りて。担任していた生徒達に伝えました。
『ごめんなさい。先生は、この3月で学校を辞めます。病気をして、みんなに迷惑をかけたのに、学校を辞める事にして、ごめんなさい。』
その後、生徒達は、いろんな言葉をかけてくれました。
それは、私にとっては嬉しいものばかり。やんちゃな生徒も。
その翌年度は、勤めていた男子校の先輩の先生に紹介していただき、今度は女子高の非常勤講師。アルバイトです。
この時、かみさんも仕事を辞めて、アルバイト。
若いから出来た事ですね。2人してプータロウ(今のフリータですね)生活。これ、結婚してからですよ。
私は、非常勤講師をしながら、商業科の教員免許だけでは弱いので、社会科の教員免許を取る為に、大学の夜間学部にもう一度通い、(本当は1年では無理だったのですが、大学側の間違いで、1年で必要な単位が取れて)社会科の高校、中学の教員免許を取得しました。
しかし、公立の採用試験は、そんな簡単ではありませんでした。
それで、そろばんの出来ない商業科の教員ですから、これからは『コンピュータだ』って思い、でも、結婚していたので、専門学校に行く余裕もなく、素人で雇ってくれる会社を見つけて、そこで仕事をする事になって。
ハマってしまいました。コンピュータの世界。
それで、今に至っています。
私の仕事のスタートは教員でした。
でも、ヨシノリ先生の様な、熱血先生ではありませんでした。
担任を持って、すぐに病気になり、生徒達を観てあげられなかった教員でした。
ヨシニリ先生の26年前。よりも、もっと前の35年前です。
あの生徒たちも、50代になっています。
女子高の生徒たちも、ほぼ同じ年代。
今日の『24時間テレビ』を観ていて、長らく忘れていた。私の20代前半の頃の事を思い出しました。
そう言う意味でも、今日は『ありがたい。いい1日。』でした。
今日も、家飲みしています。
酔っ払いの、戯言です。
ここで書いた、いろんな経緯は。
『手術の思い出』
『縁とか運とか』
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