教師の日常生活の一面です。家族の死、中国旅行などでの見聞を短歌で表現しました。
(17)花咲きて集う人々の歌声を病みいし我は遠くに聞きぬ
30代の後半は、ストレスなどもあり、よく病院に通いました。自律神経失調症とか、胃炎、胆石症などストレスの典型的な症状でした。今では考えられないほど自然とは無関係な生活でしたし、職場と自宅の往復、深夜まで仕事漬けの毎日でした。
また、融通が利かないこともあり、人間関係もうまく振る舞うことができなかったこともあったと思います。
(18)手を振ると握り返せし病む母の瞳はすでに光を追わず
30数年前、田舎から来て、私たちと一緒に住んでいた母が亡くなりました。あまり長い間は寝込まなかったのですが、・・・。
手を握って振るとかすかに握り返してくれたのでした。 「病む母の臨終の際に幸せの一言残し手を握りたり」
その母が若いころは、戦争もあり苦しいことが多くて大変だったと聞いて知っていました。しかし、晩年に至り、末っ子の我が家でのびのび過ごせて楽しかったとの一言が、私にとっては悲しみの中にもどんなに慰めになったことでしょう。人生の中の楽しかった思い出を胸に終わりたいと思ったことでした・・・・。
(19)中国旅行から
20数年前のこと、学級に中国の子が転校してきたことがきっかけで中国と中国語に関心を持ち始めました。中国語教室に通うなど、いろいろな学習の機会をもち、雲南、上海、北京、重慶などに行きました。
ダムができる前の長江下りもできました。その折に見た中国です。旅行者の目ですから一面的な面もあるかもしれません。
「光るビル砂ぼこりたつ街並みをリヤカー引きの男行き交う」
「高層の大しゃといいしビル街を裸の男リヤカーを引く」
大きなビル街とリヤカーを引く上半身裸の男の落差があまりにも大きく感じられました。
その頃は経済成長の著しい時期のせいか、道路は未整備な場所が多くてどこでも工事という感じでした。
「光るビルブルドーザーの忙しき上海の街浮浪者の群れいる」
これも同じ場所でしたが、大きなビルの下には一面ではこのような人たちも多く見られました。今も経済格差と貧富の差が激しいと言われますから解消されないのでしょうか。
「担ぎ屋は中国の今か半裸で竹棒持ちて我に追いすがる」
重慶で見た光景です。ツアーでしたが、誰に向かっても、荷物を運ばせてくれとてんびん棒を持って追いかけてくる姿がありました。添乗員の人に「関わらないで」といわれましたが、何か複雑な思いでした。もう20年も前なので今ではこのような仕事の人はいないでしょうね。
「客船の窓から見える岩壁にへばりつくごと蓆小屋あり」
「蓆小屋続く岸辺の子どもらは手を差し出しぬ物乞う目にて」
大きな客船での長江下りのおりに、大きな町には止まって下船して見学したりしました。岸辺にはむしろを壁代わりの小屋のような家がたくさん並んでいました。そこでの光景です。アメリカ兵に物乞いをしたという日本の戦後はこのようだったのでしょうか。今はもう解消されていて、過去の話になっていることを!
「白帝の城跡に立ち終焉の劉備思いつ石碑読みたり」
李白の詩「つとに白帝城を発つ」で知られ、三国志の劉備の終焉の地として知られています。今、三峡ダムができてこのすぐ近くまで水が上がっているはずです。つきの町も水没するということを聞きながら、桁違いの大きさに驚いたのでした。
「駕籠かきの今に残るか中国に我は歩きて白帝城へ」
この城へ登るについても、現代の駕籠かきがいっぱいいてびっくりしました。私は自分の足で登りましたが・・・。
(17)花咲きて集う人々の歌声を病みいし我は遠くに聞きぬ
30代の後半は、ストレスなどもあり、よく病院に通いました。自律神経失調症とか、胃炎、胆石症などストレスの典型的な症状でした。今では考えられないほど自然とは無関係な生活でしたし、職場と自宅の往復、深夜まで仕事漬けの毎日でした。
また、融通が利かないこともあり、人間関係もうまく振る舞うことができなかったこともあったと思います。
(18)手を振ると握り返せし病む母の瞳はすでに光を追わず
30数年前、田舎から来て、私たちと一緒に住んでいた母が亡くなりました。あまり長い間は寝込まなかったのですが、・・・。
手を握って振るとかすかに握り返してくれたのでした。 「病む母の臨終の際に幸せの一言残し手を握りたり」
その母が若いころは、戦争もあり苦しいことが多くて大変だったと聞いて知っていました。しかし、晩年に至り、末っ子の我が家でのびのび過ごせて楽しかったとの一言が、私にとっては悲しみの中にもどんなに慰めになったことでしょう。人生の中の楽しかった思い出を胸に終わりたいと思ったことでした・・・・。
(19)中国旅行から
20数年前のこと、学級に中国の子が転校してきたことがきっかけで中国と中国語に関心を持ち始めました。中国語教室に通うなど、いろいろな学習の機会をもち、雲南、上海、北京、重慶などに行きました。
ダムができる前の長江下りもできました。その折に見た中国です。旅行者の目ですから一面的な面もあるかもしれません。
「光るビル砂ぼこりたつ街並みをリヤカー引きの男行き交う」
「高層の大しゃといいしビル街を裸の男リヤカーを引く」
大きなビル街とリヤカーを引く上半身裸の男の落差があまりにも大きく感じられました。
その頃は経済成長の著しい時期のせいか、道路は未整備な場所が多くてどこでも工事という感じでした。
「光るビルブルドーザーの忙しき上海の街浮浪者の群れいる」
これも同じ場所でしたが、大きなビルの下には一面ではこのような人たちも多く見られました。今も経済格差と貧富の差が激しいと言われますから解消されないのでしょうか。
「担ぎ屋は中国の今か半裸で竹棒持ちて我に追いすがる」
重慶で見た光景です。ツアーでしたが、誰に向かっても、荷物を運ばせてくれとてんびん棒を持って追いかけてくる姿がありました。添乗員の人に「関わらないで」といわれましたが、何か複雑な思いでした。もう20年も前なので今ではこのような仕事の人はいないでしょうね。
「客船の窓から見える岩壁にへばりつくごと蓆小屋あり」
「蓆小屋続く岸辺の子どもらは手を差し出しぬ物乞う目にて」
大きな客船での長江下りのおりに、大きな町には止まって下船して見学したりしました。岸辺にはむしろを壁代わりの小屋のような家がたくさん並んでいました。そこでの光景です。アメリカ兵に物乞いをしたという日本の戦後はこのようだったのでしょうか。今はもう解消されていて、過去の話になっていることを!
「白帝の城跡に立ち終焉の劉備思いつ石碑読みたり」
李白の詩「つとに白帝城を発つ」で知られ、三国志の劉備の終焉の地として知られています。今、三峡ダムができてこのすぐ近くまで水が上がっているはずです。つきの町も水没するということを聞きながら、桁違いの大きさに驚いたのでした。
「駕籠かきの今に残るか中国に我は歩きて白帝城へ」
この城へ登るについても、現代の駕籠かきがいっぱいいてびっくりしました。私は自分の足で登りましたが・・・。
今も「格差社会」のあるは人間の
悲劇です。 他国の問題とは思えません。 経済最優先、アメリカ追従の政策でこの国は何処へ。。。