ちょっと前に知人に夕刊のこの記事を紹介されました。2018年10月から15回にわたる記事です。「たいまつ」新聞のむのたけじの名は知っていましたし、「詞集たいまつ」も若いころに読んでいました。
それでも、昨今のTVや新聞などが本来の役目を十分果たしていないのではないかと思っていたので、この記事に接して改めてその発言を追ってみました。新聞紹介者の関心の高さに学ぶとともに、さまざまな人との交流などは省略して、私の関心事に限定して紹介します。
むのは敗戦の直前に朝日新聞社をやめて、戦中の新聞社へのけじめから秋田に帰った。1948年「たいまつ」を週刊新聞として発行する。以後1978年まで780号まで続く。その第一号では東北人に向けて自立心を呼びかけた。
「沈黙の中に爆発しなければ沈黙の中に滅亡するだけである。」と。
そのむのが、退社は失敗だったと思わせられたのは2004年の琉球新報の「沖縄戦新聞」を目にした時という。その新聞は04年から05年にかけて14回にわたり、沖縄戦の特集を組み、戦時中の新聞の報道を検証したものであった。それによれば例えば1945年5月5日は「日本軍の総攻撃失敗」となるとはずだと同新聞。ちなみにこの年の4月には沖縄戦で25万人死亡し、集団自決などがあった。
講演会で、むのは「みんなが教え合う。これが教育の基本です。」といい、講演については「聞き手の胸に届き得るのはせいぜい一本の釘である」といっていたという。
101才でなくなる3か月前、東京の護憲集会で次のように話していた。
「戦争とは何か。これは常識では考えられない狂いですね。」「死にたくなければ相手を殺せ。(中略)戦争によって社会正義が実現できるでしょうか。人間の幸福が実現できるでしょうか。出来るわけがありません。」
平和運動に向けては「生きるとは、たたかうこと。たたかうとは続けること。」
1997年82歳のおりに「詞集たいまつ」を発行。私が若いころに読んだのもこれである。
「始めに終わりがある。抵抗するなら最初に抵抗せよ。」
1986年「講談はだしのゲン」をだした講談師の神田香織はむののビデオで
「戦争の永久放棄は、日本の憲法によって初めて宣言された最も輝かしい言葉です。日本人の唯一の誇りともいうべきものです。」などと言っていたことを知る。
さかのぼって1940年(昭和15)2月2日、3年前開始の日中戦争についての軍部の政治介入に毅然とした態度をとっていた斉藤隆夫(立憲民政党)の反軍演説を、うのも聞いて記事に載せていた。その反軍演説。
「唯いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際主義、曰く道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べ立てて・・」と美辞麗句の基に国民を戦争に駆り立てる政府への批判。ところが議事録からほぼ削除、のちには軍部からの圧力と同調する議員によって議員除名。
今日も権力者が国民を騙すためにさまざまな美辞麗句や架空の数字を並べて、さまざまな法案などを通します。文字通り戦争をできるようにする戦争法案なのに、安全保障上の必要とか、架空の脅威などマスコミを利用して宣伝しその気にさせます。
2015年の安保法制の折には、「安保法制をめぐる議論を聞くと、日本は再び誤った道を歩むかどうかの瀬戸際にいる。主権者たる我々国民自身が声を挙げなくてはいけません。」としきりに訴えていたという。
2016年5月に亡くなる晩年には、就学時前の幼少期にこそしっかりした教育が必要だということに思いを致したといいます。
15回連続のこの記事は多くの人々が、うのから学んだ姿がわかるし、記者の思いも想像します。しかし私としては、うのの姿勢と当時のマスコミを通して、現在のTV/新聞のジャーナリストの姿勢について追及するような企画を組んでほしかった。
当時のような軍の圧力などがまだない中で、必要以上に政権を忖度をしたり、記者クラブなどですり寄ったりして「官邸発表」「警察発表」などをそのまま流すような報道姿勢ではなく、法案や国会の審議の問題などを批判的に国民の前に提起してほしいものです。その点に触れて次回は、河野外相の「次の質問どうぞ」を。
それでも、昨今のTVや新聞などが本来の役目を十分果たしていないのではないかと思っていたので、この記事に接して改めてその発言を追ってみました。新聞紹介者の関心の高さに学ぶとともに、さまざまな人との交流などは省略して、私の関心事に限定して紹介します。
むのは敗戦の直前に朝日新聞社をやめて、戦中の新聞社へのけじめから秋田に帰った。1948年「たいまつ」を週刊新聞として発行する。以後1978年まで780号まで続く。その第一号では東北人に向けて自立心を呼びかけた。
「沈黙の中に爆発しなければ沈黙の中に滅亡するだけである。」と。
そのむのが、退社は失敗だったと思わせられたのは2004年の琉球新報の「沖縄戦新聞」を目にした時という。その新聞は04年から05年にかけて14回にわたり、沖縄戦の特集を組み、戦時中の新聞の報道を検証したものであった。それによれば例えば1945年5月5日は「日本軍の総攻撃失敗」となるとはずだと同新聞。ちなみにこの年の4月には沖縄戦で25万人死亡し、集団自決などがあった。
講演会で、むのは「みんなが教え合う。これが教育の基本です。」といい、講演については「聞き手の胸に届き得るのはせいぜい一本の釘である」といっていたという。
101才でなくなる3か月前、東京の護憲集会で次のように話していた。
「戦争とは何か。これは常識では考えられない狂いですね。」「死にたくなければ相手を殺せ。(中略)戦争によって社会正義が実現できるでしょうか。人間の幸福が実現できるでしょうか。出来るわけがありません。」
平和運動に向けては「生きるとは、たたかうこと。たたかうとは続けること。」
1997年82歳のおりに「詞集たいまつ」を発行。私が若いころに読んだのもこれである。
「始めに終わりがある。抵抗するなら最初に抵抗せよ。」
1986年「講談はだしのゲン」をだした講談師の神田香織はむののビデオで
「戦争の永久放棄は、日本の憲法によって初めて宣言された最も輝かしい言葉です。日本人の唯一の誇りともいうべきものです。」などと言っていたことを知る。
さかのぼって1940年(昭和15)2月2日、3年前開始の日中戦争についての軍部の政治介入に毅然とした態度をとっていた斉藤隆夫(立憲民政党)の反軍演説を、うのも聞いて記事に載せていた。その反軍演説。
「唯いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、いわく国際主義、曰く道義外交、いわく共存共栄、いわく世界の平和、かくのごとき雲をつかむような文字を並べ立てて・・」と美辞麗句の基に国民を戦争に駆り立てる政府への批判。ところが議事録からほぼ削除、のちには軍部からの圧力と同調する議員によって議員除名。
今日も権力者が国民を騙すためにさまざまな美辞麗句や架空の数字を並べて、さまざまな法案などを通します。文字通り戦争をできるようにする戦争法案なのに、安全保障上の必要とか、架空の脅威などマスコミを利用して宣伝しその気にさせます。
2015年の安保法制の折には、「安保法制をめぐる議論を聞くと、日本は再び誤った道を歩むかどうかの瀬戸際にいる。主権者たる我々国民自身が声を挙げなくてはいけません。」としきりに訴えていたという。
2016年5月に亡くなる晩年には、就学時前の幼少期にこそしっかりした教育が必要だということに思いを致したといいます。
15回連続のこの記事は多くの人々が、うのから学んだ姿がわかるし、記者の思いも想像します。しかし私としては、うのの姿勢と当時のマスコミを通して、現在のTV/新聞のジャーナリストの姿勢について追及するような企画を組んでほしかった。
当時のような軍の圧力などがまだない中で、必要以上に政権を忖度をしたり、記者クラブなどですり寄ったりして「官邸発表」「警察発表」などをそのまま流すような報道姿勢ではなく、法案や国会の審議の問題などを批判的に国民の前に提起してほしいものです。その点に触れて次回は、河野外相の「次の質問どうぞ」を。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます