「短歌は日常をすくい取って詠う」と言っても、平穏な時には作ろうという意欲はなかなか湧かないものです。感動や怒り、嘆きなどが大きいときに気持ちを整理するためにあるいはその時の気持ちを大事にしたいために詠いたくなることが多かったようです。
そのために、詠われた時には激しいものが多かったと思います。今は改善されているかもしれませんが、1980年代、私が30代から40代ごろの問題意識です。
(1)メモ帳も提出せよと言いつのる校長なれば言い争いぬ
1980年代の初めですが、それまで指導案などは教師の授業のアウトラインであるし、細かな備忘録なども含まれているので提出ということが厳しくは要求されませんでした。
所が管理職によっては、上意下達の方法として出す教師出さない教師をチエックして毎回そのことを言うことがありました。公教育の教師であるという理由なども付けました。その挙句にメモ帳も出せということになり、朝から言い合いになることもありました。
管理職から見ればいうことを聞かない教師ということになるのでしょうが…。
(2)身重の教師に体育つらければ教師辞めよと言い放つ校長のあり
女教師にとっては、男子と対等にやれる仕事という面ではやりがいがあると思います。しかし、この頃は妊娠すると、親からは何かと言われることもあり、さらに職場でも大変でした。
体育などは同学年に交代できる条件がない場合、管理職が手配してくれればいいのですが今のように権利が十分保障されない面が見られました。学年や組合で何度も解決について交渉したものです。
「人命の尊さを教える身にして身重の教師を罵倒せしとは」
肩身の狭い思いをして勤めている身重の教師にひどいことを言う管理職もいました。何人の女教師が苦しんだことでしょう。もちろん、親切にいろいろ配慮をしてくれた校長もいたこと言うまでもありません。人権感覚がまだまだの時代の雰囲気です。(1980年ころ)
(3)代替えの授業はせずといい張りし上司いてまた流産つづく
管理職と言っても、教師なのだからこんな時には一時的に体育などの授業をしてくれるようにと頼んでもやってくれない場合がよくありました。あの学校でも流産したそうだよという話がよく聞こえてきました。
「同性に手を差し伸べぬ上司いて流産に泣く教師のいでし」
女性の管理職でもそのようなことがあるので、これは示し合わせているのではと思ったことでした。ちなみに、妻が隣町の教員の我が家でも次女は2か月も早く生まれましたが、明らかに運動会などの練習での過労がたたったのでした。未熟児で生まれましたからとても心配したものでした。
教師は子どもが待っていると思うとついつい無理をしがちなのです。このような悲劇や苦労とさまざまな運動の末に、最近はだいぶ補助してくれるような制度ができました。それでも日本はまだまだで、少子化の原因にも・・・・。(1980年頃)
(4) 母体保護語る会議に女教師の発言するは二三人のみ
自分の体は自分で守らないといけないと言っても、制度が不十分では個人の努力には限界があります。この時期には、母体保護をどうするのか、代わりの授業はどうするのかなどについて職員会議でも話題になりました。肝心の女性の発言が少なかったこともありがっかりしたこともありました。当人はなかなか言えないことなのに・・・・。
同僚の健康問題などで発言しないのでは、教室の子どもにも顔向けができないのではと思ったものです。(1980年頃)
そのために、詠われた時には激しいものが多かったと思います。今は改善されているかもしれませんが、1980年代、私が30代から40代ごろの問題意識です。
(1)メモ帳も提出せよと言いつのる校長なれば言い争いぬ
1980年代の初めですが、それまで指導案などは教師の授業のアウトラインであるし、細かな備忘録なども含まれているので提出ということが厳しくは要求されませんでした。
所が管理職によっては、上意下達の方法として出す教師出さない教師をチエックして毎回そのことを言うことがありました。公教育の教師であるという理由なども付けました。その挙句にメモ帳も出せということになり、朝から言い合いになることもありました。
管理職から見ればいうことを聞かない教師ということになるのでしょうが…。
(2)身重の教師に体育つらければ教師辞めよと言い放つ校長のあり
女教師にとっては、男子と対等にやれる仕事という面ではやりがいがあると思います。しかし、この頃は妊娠すると、親からは何かと言われることもあり、さらに職場でも大変でした。
体育などは同学年に交代できる条件がない場合、管理職が手配してくれればいいのですが今のように権利が十分保障されない面が見られました。学年や組合で何度も解決について交渉したものです。
「人命の尊さを教える身にして身重の教師を罵倒せしとは」
肩身の狭い思いをして勤めている身重の教師にひどいことを言う管理職もいました。何人の女教師が苦しんだことでしょう。もちろん、親切にいろいろ配慮をしてくれた校長もいたこと言うまでもありません。人権感覚がまだまだの時代の雰囲気です。(1980年ころ)
(3)代替えの授業はせずといい張りし上司いてまた流産つづく
管理職と言っても、教師なのだからこんな時には一時的に体育などの授業をしてくれるようにと頼んでもやってくれない場合がよくありました。あの学校でも流産したそうだよという話がよく聞こえてきました。
「同性に手を差し伸べぬ上司いて流産に泣く教師のいでし」
女性の管理職でもそのようなことがあるので、これは示し合わせているのではと思ったことでした。ちなみに、妻が隣町の教員の我が家でも次女は2か月も早く生まれましたが、明らかに運動会などの練習での過労がたたったのでした。未熟児で生まれましたからとても心配したものでした。
教師は子どもが待っていると思うとついつい無理をしがちなのです。このような悲劇や苦労とさまざまな運動の末に、最近はだいぶ補助してくれるような制度ができました。それでも日本はまだまだで、少子化の原因にも・・・・。(1980年頃)
(4) 母体保護語る会議に女教師の発言するは二三人のみ
自分の体は自分で守らないといけないと言っても、制度が不十分では個人の努力には限界があります。この時期には、母体保護をどうするのか、代わりの授業はどうするのかなどについて職員会議でも話題になりました。肝心の女性の発言が少なかったこともありがっかりしたこともありました。当人はなかなか言えないことなのに・・・・。
同僚の健康問題などで発言しないのでは、教室の子どもにも顔向けができないのではと思ったものです。(1980年頃)
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