まず桜井先生は石巻の大きなお店の息子さんとかで、社会の先生でした。
ちょっと足が不自由な方でしたが、いつも背広を着て、この先生の社会科は重点をきっちり教えてくださるという感じでしたし、黒板の字は見事でした。
一番覚えていることは、「所変われば品変わる」と一年生の社会科の始めに板書して説明されたことでした。地理の説明ですが、普遍的な面もあります。さっそく習ってノートに赤く書いたのでした。後に自分が社会科の授業をする時にもこの言葉とともに思い出す先生でした。
熊谷先生は、石巻のお寺の息子さんだったとかで、国語の先生でした。よく覚えているのは後述の先生の恋愛の件とともに中学生の私たちに「読み聞かせ」をしてくれたことでした。いくつかの漢詩文の朗読を朗々と読み上げてくれたほか、記憶に残る読み聞かせの本は「ジキル博士とハイド氏」でした。後年、購入して読んだのはもちろん、映画でも見ました。その当時はドラマの展開にワクワクしているだけでしたが、実は人間について深く考えさえられるものでした。
後に、小学校に勤めた時に、読み聞かせを退職まで続けてやることになる原点でした。この先生の朗読を重点にした国語の授業のお蔭で、漢詩や漢文にも興味を持つことができ、高校でもこの分野は好きになることができました。
説田先生は理科の先生でしたが、本来は社会科の先生だという話もありました。今でいう、免許外先生で資格は臨時的に与えられていたのでしょうか。 夏休み中は大学に通って資格をとる勉強をしていると来たことがありました。2年生の時に、理科に関することを聞きに行った折に、分からずにしきりに事典を調べながら答えてくれたことが印象的でした。先生も勉強するんだということを教えてくれたような気がしました。
卒業後は年賀状などを通して、働く人々や地域のためにさまざまな活動をしていると知らせてくださり、励まされていました。
ところが、あの津波以後、全く連絡が取れなくなりました。無事でいてくださることを念じるのみです。
日下先生は英語の先生でした。この先生との関わりは衝撃的でした。ある日の英語の時間に、私はあくびをしてしまったのでしたが、運悪く?先生に見つかったうえ、先生のご機嫌がななめだったのか教室にあったテニスラケットでゴツンとやられてしまいました。とても痛かったと思うのですが、今記憶にあるのは、その後英語がとても好きになっていったことと、新婚家庭の先生のうちの引っ越しの手伝いに友だちと行ったことや、先生の赤ちゃんの面倒を見たことを覚えています。
先生には、英語の歌で「オールド ラングザイン」などを教えてもらいました。今覚えているのは、最初のコーラスの部分までであとは覚えていません。当時は、内容も考えないで耳で覚え、物悲しい曲ということもあって、心に残っていたのでしょう。その後、調べてみると次のようなスペルでした。
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?
CHORUS:
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
**日本語訳=旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。
コーラス:
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。
これは、今NHKドラマ「マッサン」で、スコットランド民謡としてよく歌われています。日本では、独自に歌詞をつくって「蛍の光」として歌われてきているものです。
その時には、他にも何曲か覚えたような気がしますが、忘れてしまっています。
小松先生は数学の女先生でした。こまめに面倒を見てくれる先生で、この先生の担任時には特にのびのびと学ぶ事ができ、成績も一番伸びました。
このほか、内海校長は温厚な方で毎年年賀はがきを出していましたが、退職後は社会運動にもかかわり石巻市内で活躍されたということを後年知りました。
私にとって特に大恩あるのは、日下先生、熊谷先生、説田先生のお三人です。私が中学三年時に父親が入院して高校に入れないかもしれないということで、そろって病院まで来て、父親を説得してくれたのでした。そのおかげで、私の高校入学が実現したのでした。(故郷の思い出⑯に)後で知ったのですが、三人とも組合の先生でともにいろいろ活動されていたようでした。私のその後を決めることになる恩人でした。なお、熊谷先生には、教育実習の折にもお世話になりました。
卒業間際に体育館が新築され、床は未完成でシートを敷いて卒業式を行いました。その頃は答辞という形が残っており、たまたま私が卒業式の答辞を読むことになりました。音楽担当の長浜先生が原稿の修正や練習に関わってくださったことを覚えています。卒業式当日は、母親が初めて学校に来て、出席してくれました。
答辞の内容は覚えていませんが、長浜先生が涙を流していたことは鮮明に覚えています。長浜先生は背筋のしゃんとした美人で中学生の私たちにとっては憧れでした。その頃は、前に書いた熊谷先生との交際が私たちの噂になっていました。後に結婚されたのですが、その式が奇しくも先生にとっても稲井中学校最後の卒業式だったのでした。また、いろいろ手をいれてくださり、教えてくださった答辞を無事読み終えたのを確かめて感動してくださったのかもしれません。
この思い出多い中学校の校歌はいまでも歌えるほどです。それは、「北上の流れ そうそうと 緑の平野 ひとすじに 真野川あり 美しき わが稲井に 使命の春秋 ああ三年」と学校の周りの自然の光景が思い出され、とても調子のいいメロディでした。
こうして中学校時代はとても、思い出多い先生方に教えていただき、いたずら小僧で先生に迷惑をかけ『アヒル』ばかりだった小学校時代とはまるで違った少年として過ごすことができたのでした。
この稿をアップした今日29日は、故郷で同窓会が開かれています。友人たちの顔を思い浮かべながら書いています。私は自治会長としての最後の総会があり、残念ながら欠席せざるを得ませんでした。震災後に開かれる最初にして、最後の同窓会かもしれないのに残念!
ちょっと足が不自由な方でしたが、いつも背広を着て、この先生の社会科は重点をきっちり教えてくださるという感じでしたし、黒板の字は見事でした。
一番覚えていることは、「所変われば品変わる」と一年生の社会科の始めに板書して説明されたことでした。地理の説明ですが、普遍的な面もあります。さっそく習ってノートに赤く書いたのでした。後に自分が社会科の授業をする時にもこの言葉とともに思い出す先生でした。
熊谷先生は、石巻のお寺の息子さんだったとかで、国語の先生でした。よく覚えているのは後述の先生の恋愛の件とともに中学生の私たちに「読み聞かせ」をしてくれたことでした。いくつかの漢詩文の朗読を朗々と読み上げてくれたほか、記憶に残る読み聞かせの本は「ジキル博士とハイド氏」でした。後年、購入して読んだのはもちろん、映画でも見ました。その当時はドラマの展開にワクワクしているだけでしたが、実は人間について深く考えさえられるものでした。
後に、小学校に勤めた時に、読み聞かせを退職まで続けてやることになる原点でした。この先生の朗読を重点にした国語の授業のお蔭で、漢詩や漢文にも興味を持つことができ、高校でもこの分野は好きになることができました。
説田先生は理科の先生でしたが、本来は社会科の先生だという話もありました。今でいう、免許外先生で資格は臨時的に与えられていたのでしょうか。 夏休み中は大学に通って資格をとる勉強をしていると来たことがありました。2年生の時に、理科に関することを聞きに行った折に、分からずにしきりに事典を調べながら答えてくれたことが印象的でした。先生も勉強するんだということを教えてくれたような気がしました。
卒業後は年賀状などを通して、働く人々や地域のためにさまざまな活動をしていると知らせてくださり、励まされていました。
ところが、あの津波以後、全く連絡が取れなくなりました。無事でいてくださることを念じるのみです。
日下先生は英語の先生でした。この先生との関わりは衝撃的でした。ある日の英語の時間に、私はあくびをしてしまったのでしたが、運悪く?先生に見つかったうえ、先生のご機嫌がななめだったのか教室にあったテニスラケットでゴツンとやられてしまいました。とても痛かったと思うのですが、今記憶にあるのは、その後英語がとても好きになっていったことと、新婚家庭の先生のうちの引っ越しの手伝いに友だちと行ったことや、先生の赤ちゃんの面倒を見たことを覚えています。
先生には、英語の歌で「オールド ラングザイン」などを教えてもらいました。今覚えているのは、最初のコーラスの部分までであとは覚えていません。当時は、内容も考えないで耳で覚え、物悲しい曲ということもあって、心に残っていたのでしょう。その後、調べてみると次のようなスペルでした。
Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne ?
CHORUS:
For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
**日本語訳=旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。
コーラス:
友よ、古き昔のために、
親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。
これは、今NHKドラマ「マッサン」で、スコットランド民謡としてよく歌われています。日本では、独自に歌詞をつくって「蛍の光」として歌われてきているものです。
その時には、他にも何曲か覚えたような気がしますが、忘れてしまっています。
小松先生は数学の女先生でした。こまめに面倒を見てくれる先生で、この先生の担任時には特にのびのびと学ぶ事ができ、成績も一番伸びました。
このほか、内海校長は温厚な方で毎年年賀はがきを出していましたが、退職後は社会運動にもかかわり石巻市内で活躍されたということを後年知りました。
私にとって特に大恩あるのは、日下先生、熊谷先生、説田先生のお三人です。私が中学三年時に父親が入院して高校に入れないかもしれないということで、そろって病院まで来て、父親を説得してくれたのでした。そのおかげで、私の高校入学が実現したのでした。(故郷の思い出⑯に)後で知ったのですが、三人とも組合の先生でともにいろいろ活動されていたようでした。私のその後を決めることになる恩人でした。なお、熊谷先生には、教育実習の折にもお世話になりました。
卒業間際に体育館が新築され、床は未完成でシートを敷いて卒業式を行いました。その頃は答辞という形が残っており、たまたま私が卒業式の答辞を読むことになりました。音楽担当の長浜先生が原稿の修正や練習に関わってくださったことを覚えています。卒業式当日は、母親が初めて学校に来て、出席してくれました。
答辞の内容は覚えていませんが、長浜先生が涙を流していたことは鮮明に覚えています。長浜先生は背筋のしゃんとした美人で中学生の私たちにとっては憧れでした。その頃は、前に書いた熊谷先生との交際が私たちの噂になっていました。後に結婚されたのですが、その式が奇しくも先生にとっても稲井中学校最後の卒業式だったのでした。また、いろいろ手をいれてくださり、教えてくださった答辞を無事読み終えたのを確かめて感動してくださったのかもしれません。
この思い出多い中学校の校歌はいまでも歌えるほどです。それは、「北上の流れ そうそうと 緑の平野 ひとすじに 真野川あり 美しき わが稲井に 使命の春秋 ああ三年」と学校の周りの自然の光景が思い出され、とても調子のいいメロディでした。
こうして中学校時代はとても、思い出多い先生方に教えていただき、いたずら小僧で先生に迷惑をかけ『アヒル』ばかりだった小学校時代とはまるで違った少年として過ごすことができたのでした。
この稿をアップした今日29日は、故郷で同窓会が開かれています。友人たちの顔を思い浮かべながら書いています。私は自治会長としての最後の総会があり、残念ながら欠席せざるを得ませんでした。震災後に開かれる最初にして、最後の同窓会かもしれないのに残念!
人間、自分一人では生きて行けないと言われます。周囲の人々の助言や励ましがあって今日があると思いました。
そのこと、省みて肝に銘じます。
西田という英語の男性の先生です。
40代後半、服装はおしゃれでべっ甲縁の眼鏡をかけ、きざな感じを与える先生でした。
漱石の坊っちゃんに出てくる赤シャツのような感じです。
たんたんと授業をこなし、時々話す冗談も面白くなく人気のない先生でした。
ある授業の時、黒板に英語で歌詞を書いてその意味を説明しながら歌い始めたのです。
フォスターのオールド・ブラック・ジョーです。
♪ Gone are the days~
曲だけは聞いたことがありました。
先生は丁寧に和訳しながら日本語の歌詞も歌い、英語と日本語両方でクラス全員で合唱したのです。
若き日、はや夢と過ぎ
我が友、この世を去りて
あの世で、楽しく眠り
かすかに我を呼ぶ
オールド・ブラック・ジョー
この歌詞は今でも覚えています。
南部の綿花畑で働く貧しい黒人奴隷の歌であり、若いなりにほのかな奴隷の悲しみを感じたのです。
今、これを書きながらふと疑問に思うことがありました。
西田先生は何故授業と関係ないこの歌を皆の前で歌い、皆と一緒に歌ったのか?
この時、西田先生に何かがあったのではと想像させます。
いろいろな事を考えさせてくれてありがとうございます。
故郷の思い、きっとまた皆とあえることを願っています。
英語の先生はきっと自己表現が上手にできなかったのでしょうね。でもこんな歌を教えてくれたのだから、きっと人種差別などへ敏感に反応する感性を持っている先生だったのでしょうね。
自分も振り返ると順風満帆ではなかったので、悔んだり反省したりすることが多いなあとおもいます。
私は三好先生が印象にのこtt理ます。今でいう朝読をやってくださったとき、私は日本書紀を持って行って、先生に4読んでくださるようお願いをしました。
先生は困った顔をなさっていました。
高校時代は三上先生です。
新婚のアパートによくおしかけました。卒業してからも悩みとかがあると、「すぐ」三上先生のところにお邪魔したものです。おげんきですようか。