私たちは家族から始まり、交友、趣味、活動などさまざまな分野で他とのかかわりを持って生活しています。当たり前だけど。でもそれが深まるとそれなりにいろいろな問題が出てきて、ちょっとしたことが原因で気まずくなることも経験している人が多いのではないでしょうか。相手のせいにしたり、自分が原因と悩んだり・・・・。
そんなときに、この香山氏のネット上の記事が考えさせてくれるような気がします。
以下は香山氏の記事からその概略。(アンダーラインや色文字などは私がつけたもの)
他者と自分を比較していがみ合うのではなく
小さな違いを前提として共存する姿勢を
人間は比較された相手を憎んでしまう生き物
*よく考えれば、まったく同じ条件の人は誰もいません。
私はこうなのにあの人は違うなどと比較しても意味がないのに、人は人、私は私と振る舞うことが、なかなかできないものです。
自分と他人を比較して「小さな違い」に一喜一憂するのは、人間の根源的なことかもしれません。
旧約聖書「創世記」に出てくるカインとアベルの兄弟の話を覚えておられるでしょうか。カインとアベルは、ヤハウェという神に収穫物を捧げます。兄カインは農作物を、弟アベルは羊を差し出しました。しかし、ヤハウェはカインの捧げ物を無視してアベルの羊だけに関心を示します。すると、嫉妬にかられたカインはアベルを殺してしまうという話です。
興味深いのは、普通に考えれば、なぜ私の捧げ物に関心を持ってくれないのかとヤハウェに文句を言うべき話にも思えます。
しかし、旧約聖書に書かれているのは、自分の状況を他人と比較されて理不尽な思いをした人は、背景(この場合はヤハウェ)にあるものではなく比較された他人(この場合はアベル)が憎くなってしまうということです。
*共通項があっても人それぞれの状況はまったく異なる
共通点がある中での比較から生じる「小さな違い」のほうが、より複雑な問題になることが多いようです。
たとえば、企業で働く女性を例に取りましょう。
職場で働く女性という共通項はあるものの、「結婚して子どもがいる女性」と「シングルの女性」の間には、埋めがたい溝が横たわることがあります。
子どもがいる女性は、育児をしながら働いている自分はたいへんだと思っています。一方のシングルの女性は、子どもがいる女性が定時に帰ってしまうので、その分の仕事を押し付けられて自分のほうがたいへんだと思ってしまいます。
外から見ると働く女性としてひとくくりにされてしまいがちですが、両者の間にある温度差は目に見えないだけに深刻だという報告も出されています。
職場の女性問題ではお互いがまったく理解し合っていないわけではありません。それぞれが共感し合い、抱えるたいへんな状況にエールを送る場合も多いものです。
ただ、同じ状況だから悩みを共有して仲良くやれるというほど、単純にはいかないものです。むしろ、人間は同じ状況だからこそ「小さな違い」を敏感に感じ取り、それに苦しんでしまうことがあるのです。
*共通することと小さな違いを使い分ける姿勢を
同じ悩みを抱えた者同士は、みんな同じでなければならない。違うとなったら何も一緒にできない。人はそう考えてしまう傾向があります。
「小さな違い」だから乗り越えられるという考えには無理があります。反対に、「小さな違い」に目をつぶっていると気がつかないうちにストレスを溜めてしまいます。
同じ体験をした者同士は、共通する部分があるのは紛れもない事実です。
その一方で、家族の状況や仕事の状況は人それぞれ違って当然です。価値観のすべてを共有できるわけではないということも正しく認識しておく必要があるでしょう。
共通の基盤のなかにも「小さな違い」があることを前提として、共有すべきところと個人がそれぞれ対処すべきところをほどほどに使い分けていく。
こうした姿勢を持つことによって、お互いの理解が深まるのではないでしょうか。
(香山リカ氏記事の大要)
今、いろいろな面で協力して大きな力に立ち向かわなくてはならない時です。さまざまな分野で取り組んでいるときに、ふっと何かこんな問題が意識されたときに、人間というものはこういう本質的というか弱点ともいうべきものも持っているということを知っているといいのかもしれません。
そんなときに、この香山氏のネット上の記事が考えさせてくれるような気がします。
以下は香山氏の記事からその概略。(アンダーラインや色文字などは私がつけたもの)
他者と自分を比較していがみ合うのではなく
小さな違いを前提として共存する姿勢を
人間は比較された相手を憎んでしまう生き物
*よく考えれば、まったく同じ条件の人は誰もいません。
私はこうなのにあの人は違うなどと比較しても意味がないのに、人は人、私は私と振る舞うことが、なかなかできないものです。
自分と他人を比較して「小さな違い」に一喜一憂するのは、人間の根源的なことかもしれません。
旧約聖書「創世記」に出てくるカインとアベルの兄弟の話を覚えておられるでしょうか。カインとアベルは、ヤハウェという神に収穫物を捧げます。兄カインは農作物を、弟アベルは羊を差し出しました。しかし、ヤハウェはカインの捧げ物を無視してアベルの羊だけに関心を示します。すると、嫉妬にかられたカインはアベルを殺してしまうという話です。
興味深いのは、普通に考えれば、なぜ私の捧げ物に関心を持ってくれないのかとヤハウェに文句を言うべき話にも思えます。
しかし、旧約聖書に書かれているのは、自分の状況を他人と比較されて理不尽な思いをした人は、背景(この場合はヤハウェ)にあるものではなく比較された他人(この場合はアベル)が憎くなってしまうということです。
*共通項があっても人それぞれの状況はまったく異なる
共通点がある中での比較から生じる「小さな違い」のほうが、より複雑な問題になることが多いようです。
たとえば、企業で働く女性を例に取りましょう。
職場で働く女性という共通項はあるものの、「結婚して子どもがいる女性」と「シングルの女性」の間には、埋めがたい溝が横たわることがあります。
子どもがいる女性は、育児をしながら働いている自分はたいへんだと思っています。一方のシングルの女性は、子どもがいる女性が定時に帰ってしまうので、その分の仕事を押し付けられて自分のほうがたいへんだと思ってしまいます。
外から見ると働く女性としてひとくくりにされてしまいがちですが、両者の間にある温度差は目に見えないだけに深刻だという報告も出されています。
職場の女性問題ではお互いがまったく理解し合っていないわけではありません。それぞれが共感し合い、抱えるたいへんな状況にエールを送る場合も多いものです。
ただ、同じ状況だから悩みを共有して仲良くやれるというほど、単純にはいかないものです。むしろ、人間は同じ状況だからこそ「小さな違い」を敏感に感じ取り、それに苦しんでしまうことがあるのです。
*共通することと小さな違いを使い分ける姿勢を
同じ悩みを抱えた者同士は、みんな同じでなければならない。違うとなったら何も一緒にできない。人はそう考えてしまう傾向があります。
「小さな違い」だから乗り越えられるという考えには無理があります。反対に、「小さな違い」に目をつぶっていると気がつかないうちにストレスを溜めてしまいます。
同じ体験をした者同士は、共通する部分があるのは紛れもない事実です。
その一方で、家族の状況や仕事の状況は人それぞれ違って当然です。価値観のすべてを共有できるわけではないということも正しく認識しておく必要があるでしょう。
共通の基盤のなかにも「小さな違い」があることを前提として、共有すべきところと個人がそれぞれ対処すべきところをほどほどに使い分けていく。
こうした姿勢を持つことによって、お互いの理解が深まるのではないでしょうか。
(香山リカ氏記事の大要)
今、いろいろな面で協力して大きな力に立ち向かわなくてはならない時です。さまざまな分野で取り組んでいるときに、ふっと何かこんな問題が意識されたときに、人間というものはこういう本質的というか弱点ともいうべきものも持っているということを知っているといいのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます