社会との関わりや、日常生活のなかで考えたことを、短歌で表現しました。
平和のこと環境のことなど・・・・。
(8)今もなお疼くとう膝さすりつつ凍てるシベリア大地を語る
戦後帰国した人の話を聞く機会がありました。50年以上たっているのに未だ苦しんでいる人が大勢いるということでした。知人の父親も抑留されてようやく帰れたとその経験を話してくれましたが、戦場では何があっても不思議ではないということで想像を絶するような悲惨さを話してくれました。1998年
(9)シベリアの凍てる大地に捕虜たりし兄の戦死を未だ疑う シベリアでなくなった人々の話を聞くにつけても、兄のこともすぐ思い出しました。
帰ってきた遺骨というのも半信半疑のままであるし・・・・。亡くなった兄への母の思い出は強烈だったらしく比較してよく聞かされました。
(10)震災後四年を経にしも未だ仮設老いたる人は明日を語らず(阪神淡路) 1995年の阪神淡路大震災では6000名もの人が犠牲になりました。高速道路の崩壊などもあり、衝撃的な事でした。学校でも募金などに取り組んだのでしたが、被害が大きくなかなか仮設住宅も解決しないのでした。このたびの東北地方の大震災でもいまだ多くの人が仮設などに入り、原発事故の福島では13万人も郷里から離れて暮らしています。明日の希望など語れる状況ではないですね。 (1999年)
(11)人類の力に余る原子力畏怖を忘れバケツ使いし(臨界事故ニュース) 福島の東電原発事故の前にこんなひどいことがあったのを覚えているでしょうか。
1999年の東海村の原発事故です。この時にも、漏れた水をバケツで処理するなどということが最新鋭を誇るという原発で行われており驚いたものです。福島の事故はこれに比べられないほどの規模ですが、現場の人々の大変さは計り知れません。 この東海村の原発も完全に廃炉にはなっていません。各地の原発の老朽化が進んで廃炉の話がありますが、廃炉までは何百年単位でしょう。それなのに再稼働とは! (2000年ころ)
(12)官憲の取り囲むなか山宣の石碑建てしと農民の言う
道端の山宣の碑は無産者の怒り悲しみ今に伝えし
信州上田市の別所温泉に行った時に発見しました。比較的大きな石碑でした。山宣は山本宣治。教科書にも載っている戦前の代議士で、あの「弁士中止」の時代に、治安維持法に反対の声を上げていました。
貧しさに苦しむ労働者・農民に味方として活動していたために、官憲から狙われ、この石碑の建立も大変な中で行われたということです。この石碑によって長野でも多くの農民に慕われたことが分かります。
(資料)
京都生まれで、カナダに留学後、同志社、京大などで教鞭をとっており、男女平等や性教育の分野でも生科学者としても有名。しかし、貧しいものが苦しむ社会の変革が必要と政治家になり、「大衆の中に根差し、大衆とともに生き抜く。」と決意。戦前の第一回普通選挙で労農党から衆議院議員に当選。普通選挙法と抱き合わせに成立した治安維持法に反対の先鋒にたった。
1929年の帝国議会では有名な、「・・・、山宣ひとり孤塁を守る、だが僕はさびしくはない。背後には多くの大衆が支持しているから、・・・・」との発言草稿を用意していたが、発言を封じられ、自宅に来た右翼青年の凶刃に倒れた。長い間、京都の寺には墓碑さえも許されず、建ててもコンクリートで碑銘を塗られたりしたという。(詳しくは、山本宣治で検索可能) (2000年頃)
(13)ネズミ寄りカラス飛び来るゴミ置き場飽食の果ての残飯の山
日本の残飯の量は途上国数か国か国分もあるとか。最近は身近なごみ置き場はきれいになって来ましたが、それでも大量の生ごみが捨てられている所も見かけます。
贅沢は一度するとなかなか戻れないと言いますし、自分も反省すべきはいっぱいありますが、進むところまで行くのでしょうか。もったいない精神を・・・・ですね。
平和のこと環境のことなど・・・・。
(8)今もなお疼くとう膝さすりつつ凍てるシベリア大地を語る
戦後帰国した人の話を聞く機会がありました。50年以上たっているのに未だ苦しんでいる人が大勢いるということでした。知人の父親も抑留されてようやく帰れたとその経験を話してくれましたが、戦場では何があっても不思議ではないということで想像を絶するような悲惨さを話してくれました。1998年
(9)シベリアの凍てる大地に捕虜たりし兄の戦死を未だ疑う シベリアでなくなった人々の話を聞くにつけても、兄のこともすぐ思い出しました。
帰ってきた遺骨というのも半信半疑のままであるし・・・・。亡くなった兄への母の思い出は強烈だったらしく比較してよく聞かされました。
(10)震災後四年を経にしも未だ仮設老いたる人は明日を語らず(阪神淡路) 1995年の阪神淡路大震災では6000名もの人が犠牲になりました。高速道路の崩壊などもあり、衝撃的な事でした。学校でも募金などに取り組んだのでしたが、被害が大きくなかなか仮設住宅も解決しないのでした。このたびの東北地方の大震災でもいまだ多くの人が仮設などに入り、原発事故の福島では13万人も郷里から離れて暮らしています。明日の希望など語れる状況ではないですね。 (1999年)
(11)人類の力に余る原子力畏怖を忘れバケツ使いし(臨界事故ニュース) 福島の東電原発事故の前にこんなひどいことがあったのを覚えているでしょうか。
1999年の東海村の原発事故です。この時にも、漏れた水をバケツで処理するなどということが最新鋭を誇るという原発で行われており驚いたものです。福島の事故はこれに比べられないほどの規模ですが、現場の人々の大変さは計り知れません。 この東海村の原発も完全に廃炉にはなっていません。各地の原発の老朽化が進んで廃炉の話がありますが、廃炉までは何百年単位でしょう。それなのに再稼働とは! (2000年ころ)
(12)官憲の取り囲むなか山宣の石碑建てしと農民の言う
道端の山宣の碑は無産者の怒り悲しみ今に伝えし
信州上田市の別所温泉に行った時に発見しました。比較的大きな石碑でした。山宣は山本宣治。教科書にも載っている戦前の代議士で、あの「弁士中止」の時代に、治安維持法に反対の声を上げていました。
貧しさに苦しむ労働者・農民に味方として活動していたために、官憲から狙われ、この石碑の建立も大変な中で行われたということです。この石碑によって長野でも多くの農民に慕われたことが分かります。
(資料)
京都生まれで、カナダに留学後、同志社、京大などで教鞭をとっており、男女平等や性教育の分野でも生科学者としても有名。しかし、貧しいものが苦しむ社会の変革が必要と政治家になり、「大衆の中に根差し、大衆とともに生き抜く。」と決意。戦前の第一回普通選挙で労農党から衆議院議員に当選。普通選挙法と抱き合わせに成立した治安維持法に反対の先鋒にたった。
1929年の帝国議会では有名な、「・・・、山宣ひとり孤塁を守る、だが僕はさびしくはない。背後には多くの大衆が支持しているから、・・・・」との発言草稿を用意していたが、発言を封じられ、自宅に来た右翼青年の凶刃に倒れた。長い間、京都の寺には墓碑さえも許されず、建ててもコンクリートで碑銘を塗られたりしたという。(詳しくは、山本宣治で検索可能) (2000年頃)
(13)ネズミ寄りカラス飛び来るゴミ置き場飽食の果ての残飯の山
日本の残飯の量は途上国数か国か国分もあるとか。最近は身近なごみ置き場はきれいになって来ましたが、それでも大量の生ごみが捨てられている所も見かけます。
贅沢は一度するとなかなか戻れないと言いますし、自分も反省すべきはいっぱいありますが、進むところまで行くのでしょうか。もったいない精神を・・・・ですね。
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