青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

青山~それは“新日本プロレス事務所”のこと!

2022-03-03 | 昭和・思い出は色褪せない

「青山」と言えば、僕にとっては「東京の地名」でもなければ、「洋服の青山」でもありません。アントニオ猪木が率いた「新日本プロレス」のことを指します。

1972年3月6日に旗揚げした新日本プロレスは、間もなく50周年を迎えます。新日本プロレスが大発展したアントニオ猪木の最盛期、70年代~80年代には、その事務所は首都高速・高樹町ランプ付近、南青山の井植ビル(5~7階)にありました。当時の写真が非常に少ない、ネットにも上がっていないことが残念です。

営業部はこのビルの5階にあり、刷り上がったポスターやチケットを車に積み込んで、ここから営業部員は全国に出て行きましたし、レスラー達も時々ここに姿を見せていました。

僕が初めてここを訪れたのは、昭和54年(1979年)8月26日の早朝でした。プロレス夢のオールスター戦観戦のために、長距離バス・ドリーム号に乗って東京駅に着いてから、1番に行ったのがこの事務所でした。初めて見たのはその少し前。バスが東京駅に着く前に、首都高速からこのビルが見え、ライオンマークを見て興奮したことが昨日のようです。因みにこの井植ビルは解体されて現存せず、跡地にはヴィラージュ南青山が建っています。

その後、渋谷駅前の立ち食いそば屋で、濃い色をしたつゆの蕎麦を初めて食べ、サントラ盤の専門店である渋谷の「すみや」に立ち寄り、日本武道館に向かいました。この1日のことは、昨日のように思い出すことが出来ます。

1972年3月6日に旗揚げした新日本プロレスの、OBを招いての「旗揚げ50周年セレモニー」が3月1日午後5時からに行われ、団体の歴史を彩ったOBたちが日本武道館に集結しました。
 
 
まず、棚橋弘至、真壁刀義ら正規軍が囲んだリングにリングアナウンサーの田中ケロさんが登場。「2022年、50周年セレモニーの時が来た!歴史を作りし、OBたちの入場です」と絶叫!
 
田中さんのアナウンスとともに、それぞれの入場曲に乗って、井上亘、獣神サンダー・ライガー、小林邦明、80歳の坂口征二・新日相談役、保永昇男、レフェリーのタイガー服部さん、北沢幹之(魁勝司)、ミラノコレクションAT、田中稔、垣原賢人、山崎一夫、藤原喜明、前田日明、越中詩郎、杖をついて入場の木村健悟、同じく杖をついて蝶野正洋、武藤敬司、長州力、藤波辰爾の19人がリングに。初代タイガーマスクの佐山聡はパーキンソン病の闘病中のため、会場には現れず、マスクをかぶってVTR映像で登場。
 
坂口相談役はマイクを握り「ご来場まことにありがとうございます。新日本プロレスは創立50周年を迎えました。長い間ご声援をいただき、こうしてたくさんの選手がいて、今や日本プロレス界のリーダーとして担っています。ますます頑張っていきますので今後とも新日本プロレスにご声援よろしくお願いします」とスピーチ。残念ながら、団体創設者で現在闘病中のアントニオ猪木氏は来場が叶わず、VTR映像での登場もありませんでした。
 
こうして見ると、僕は日本プロレス時代からプロレスを観戦して来たので、新日本プロレスは旗揚げから今日まで、本当に人生を通じて見て来ましたし、いろんなことを学んで来ました。僕にとっての新日本プロレスは現在の団体とは別物の、アントニオ猪木がオーナーだった時代までだと思います。現在の団体は今のファンが支持すれば良いことで、僕にとってのプロレスとは違います。僕の愛したプロレスには圧倒的な真似の絶対に出来ない強さと戦いがありました。
 
人間とは言えないような強さを持った新日本のレスラー達。山本小鉄、星野勘太郎、ストロング小林、マサ斉藤・・もうお亡くなりになった方が多く、この日集まった方の中にもがんと戦っている人や、身体にメスを入れて不自由な身体の方が多い。骨身を削って闘魂をファンに魅せてくれた人々ばかり。心からお疲れ様でしたと感謝しています。
 
最後に・・ご存命なのに、真に新日本を支えた新間寿営業本部長とアントニオ猪木がこの日、この写真の中に不在なのが寂し過ぎます。タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンらにも元気な姿を見せて欲しかったですね。