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日記(9.2)チャスラフスカ

2016-09-02 14:28:10 | 日常
9月2日  (金曜日)   晴れ
「サクラ」と「1964」のメルアドは・・・?
 
メキシコ五輪を目前に控え、強化合宿の真っ最中だった。
1968年8月、ソ連軍の戦車が突如、
当時のチェコスロバキアに侵攻する。


4年前の東京五輪の女子体操で、
3つの金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカさんに危険が迫っていた。

民主化運動「プラハの春」を支持する「二千語宣言」に署名していたからだ。
人けのない山に逃げ、枯れ木を練習台にするしかなかった。
それでもメキシコに乗り込むと、ソ連のライバル選手を破って、
再び栄冠を勝ち取る。

凱旋帰国したチャスラフスカさんに、
当局は二千語宣言の撤回を執拗に迫った。
断固として拒否すると、一切の仕事を奪われ、生活は困窮を極めた。
「ビロード革命」で復権し
政府の要職を務めたチャスラフスカさんに、新たな試練が襲う。
息子が元夫を死なせる事件をきっかけに、
心を閉ざす日々が14年間も続いた。

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ようやく元気を取り戻したチャスラフスカさんは、
作家の長田渚左(なぎさ)さんにこう語っている。
>「日本はあの悲惨な大戦から19年後、
 東京五輪を立派に開催して、
 自分たちの底力を世界に見せつけました」


日本人の生き方が、人生に大きな力を与えてくれた」。
確かに戦後19年目でオリンピックをやったんだなあ~今振り返れば日本国は凄かったんだ。
2020もそうあってほしいものだが、お金の問題のイヤなニュースも・・きな臭い!
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長田さんによると、その人生には東京五輪で男子体操の個人総合を制した
故遠藤幸雄さんをはじめ、多くの日本人が深く関わっている(『桜色の魂』集英社)。
チャスラフスカさんにとって日本は、「第二の祖国」だった。

東日本大震災が発生すると、被災地を訪れ、子供たちをチェコへ招く
旅行を企画して実現させた。

4年後にはこちらから、ぜひ東京に招待したかった。
昨日訃報が届いた「五輪の名花」のメールアドレスには、
「サクラ」と「1964」の文字が使われていたという。

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★当時 高校では体操選手だったので、一番凄い選手を見て育った・・
 遠藤選手 鉄棒の小野選手 床の相原選手・・と凄かった。
 女子に”チャスラフスカ”さんがすごい綺麗な演技で・・見とれたなあ~!

数年前に旅に
チェコとスロバキアに分離した国を旅行した。
プラハの春も終えて・・・・落ち着いている街並
チェコには世界一美しいと言われる”チェスキークルムロフ”がある。
街が大きな巾着の様にバルダ川が流れる。

今のプラハを歩く・・・すれ違う若い女性の目の色がビー玉の様にいろいろに光る。
一寸気味悪かったなあ~!
バルダ河=「モルダウ」川にかかるカレル橋を渡るときにやっぱり
スメタナのクラシック曲のモルダウが思い出される。
カレル橋からプラハ城が遠く見える。
とにかく綺麗だった。



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1928年までは


戦争で領土の奪い合いでチェコスロバキアは大変だったんだ!

★チャスラフスカさんが亡くなってチェコの通りを思い出している。
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コメント (1)
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