マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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鉦講のこと

2009年05月04日 07時45分23秒 | 奈良市へ
念仏鉦の練習は前月2月から毎週土曜日に行われている。

鉦は使わずに机を棒で叩いて称名を唱えるという。

講衆は15名だが鉦は20丁ある。

若いもんが続けてくれているしこれで伝統も安泰や、いつでも引退できるわと会長はいった。

副会長のI氏は40歳のときに加わった。

もっと若いころから入っている人とは比べもんにならんというほど上手い。

親父や兄貴がしていたけどそのときは感心があっても入らんかったという。

家なかで聞こえる鉦と称名は耳に焼き付いてはいたが、いざ使うとなったらそんな簡単なもんじゃないと悟ったそうだ。

数十年も経過したが上手い人は数段も上だと仰る副会長。


鉦講は盆のときも行われる。

そのときは回り当番の三人が担うタイコバン(太鼓番)が加わって太鼓念仏が行われる。

数え念仏もあるといい、八月七日の夜は公民館で「七日盆」で太鼓念仏と鉦念仏を一曲ずつ勤める。

十三日の夜は新盆のシンボトケのアランタナ(新仏、新棚)のある家を回って太鼓念仏と鉦念仏を一曲ずつ唱える。

翌日の十四日も同様にアランタナの家を回り、融通念仏宗の各家すべてを回って太鼓念仏の一曲を唱える。

夜はさらに精進料理の夜食後に墓で太鼓念仏と鉦念仏を一曲ずつする墓念仏が行われる。

太鼓念仏は若死にしたときの逆縁の「地獄地獄」、順当な順縁の「念仏行者」、幼児の場合の「西院の河原」の供養の三曲。翌朝の15日、7時ころから8時ごろ。

線香を持って下の地蔵さんや上のお墓へ行って先祖送りの習俗がある。

各家のことなのでそれ以上詳しいことは判らないとI氏はいう。

かつては隣町の藤原町や古市でも行われていた念仏鉦。

おまえんとこはまだ続いてんのか、といわれるそうだ。

(H21. 3.15 Kiss Digtal N撮影)

八島町涅槃の念仏鉦

2009年05月04日 07時39分59秒 | 奈良市へ
暗くなったころ、奈良市八島の公民館に集まってきた奈良市八島の鉦講衆。

今日15日はお釈迦さんが亡くなった日で涅槃の掛け図を掲げて講を営む夜だ。

市内徳融寺から住職を迎えて始まった涅槃の回向法要。

その直前ではパックの膳をよばれる直会の場。

30年ほど前、かつて家の並ぶ順で決まっていたタキバン(炊き番)と呼ばれる三軒のうち一軒がヤドとなってもてなしをしていた。

カマスゴを蒸したもの。

酢の味がしたというから酢でしめたものであろう。

大鍋で炊いた平たいアブラアゲとドロイモと一緒にヤドの家でよばれていた。

ネハンサンのゴッツオを食べるのが楽しみじゃったんだと懐かしそうに話される。

掛け図の前に供えたオソナエはオシャカノハナクソと呼ぶ。

昔は切り子モチやったが今はあられのオカキ。

一人ずつ持ってきて供えている。

灯明に火を点けて法要が始まった。

住職の読経が唱えている最中に講衆は法被を纏って着替えをしている。

住職のお経の声が聞こえるなか焼香の順が回ってくる。

焼香は一回だけだと決まっている。

法要を終えれば住職の法話。

お釈迦さんの命日は今日で2556回忌。

とてつもなく遠い日だ。

亡くなられてインドから中国を経て日本にやってきたのは涅槃の図。

一般的には在家持ちはないそうだ。

そして始まったチャンカラカンと呼ぶ鉦念仏。

「ナムアミダーブツ ナムアンダー」、カン、カン、カンとお念仏に鉦が叩かれるシセン。

「ユーズーネンブツ ナマイダー」の句が入るバンドとハクマイの三曲を終えたころは外気も低くなってきた。

夜遅くまで鉦の音が館を響かせていた涅槃の夜はこのあとも会合が続いている。

(H21. 3.15 Kiss Digtal N撮影)