清運寺だより

ようこそいらっしゃいました。甲府市にある日蓮宗寺院の住職のブログです。日々の出来事、感想、行事などをご紹介します。

「あれは亡国の哀音です」

2009-05-09 21:55:53 | 法話

ちょっと古い話になりますが、山梨日日新聞に現在連載されている、五木寛之氏の小説 『新鸞』の4月25日掲載の中に 「あれは亡国(ぼうこく)の哀音(あいおん)です。」というセリフがありました。

その場面は、綽空(のちの新鸞聖人)が比叡山をおり、法然聖人のもと、吉水で修行している所へ比叡山での後輩であった良禅が訪ねてきたときのことで、法然聖人の弟子の一人遵西が唱える念仏の独称を聞いた時のセリフです。

 その念仏の独称は美しく、人を酔わせ、女性の中には陶酔してしまうものもいるというものだったのです。

ちょっと昔のグループサウンズのコンサートで失神してしまう女性が出たという感じなんでしょうか。

 それに対し、良禅はこう続けて批判するのです。

「呂も律も無視して、おのれの思うままに歌うておる。女どもは酔いしれて浄土にいるかのような心持らしいが、念仏は歌ではない。」

亡国の哀音、なつかしー。

うんうん良禅君、その気持ちよくわかるよ、というのが私の感想です。

呂、律というのは、西洋音楽でいえば短調、長調に当たるようなものですし、五線譜に書かれた楽譜とは違いますが、やはり決められた型、旋律があります。

 たとえばクラシックの演奏の場合、楽譜に忠実であることが鉄則です。

たまにカデンツァといって、この部分だけは演奏者が自由に演奏してもいいよという部分がある曲もあるのですが。

それなのに、全編アドリブで、その日の気分のままに唱える、規則を無視した遵西のやり方に良禅は我慢できなかったのでしょう。

 日蓮宗でも同じような言葉があります。

日蓮宗の規則本ともいえる『宗定日蓮宗法要式』にも音調に関する記述として、このような音声を用いてはいけないという注意事項があります。

①亡国の声=哀傷愁嘆の音  

 ②人法不和の声=調子はずれの音

 ③短命病患の声=細く弱々しい声

④天魔障礙の声=喧騒散乱の声

 結構今でも、よく一般の方からの声として耳にすることがありますが、あのお坊さんのお経は、ぼそぼそ言ってて頼りないなんていうのが短命病患の声ですね。

それから、調子っぱずれなお経でありがたみがないねなんていうのが人法不和の声。

なんだか脅かされているみたいで怖かったというのが天魔障礙の声でしょうか。

そして、亡国の声、これは「あの人のお経は泣かせるお経だよね」と同業者から言われることの多い唱え方です。

 葬儀などで、その方がお経を唱えたり、回向文を唱えたりすると、聞いている人たちが思わず涙ぐんでしまうということもしばしばです。

しかし、それについてあまり一般の方からの批判の声は聞かれませんし、ありがたがれているようでもあります。

むしろ、泣かせてもらったことで、悲しみの心が浄化されたような心地よさを感じるらしいんです。

小説では人々が酔いしれるということですから、これも一種のカタルシスを作り出し、人気があったのでしょう。

 一般の人には歓迎される亡国の声、なのに小説の中でも、現在の日蓮宗でも、何故よくないことと言われているのでしょう。

 まあ、これは私の単なる推測ですが、ひとつには、法然聖人も新鸞聖人も日蓮聖人もかつては比叡山で修行をしたことのある方々です。

中世期における比叡山は、仏法を学ぶ最高学府としての役割もありましたから、その影響を受けているからということもあるのでしょう。

 そして、泣く、あるいは陶酔するということは一種のカタルシス、浄化作用をもたらし、人々の心を癒すという医学的?効果はあるのですが、一歩間違えば、人の心が操られるという危うい面も持ちあわせるのです。

だからこそ、やってはいけないこととと言われ続けているのでしょう。

それに、葬儀の場合、御遺族の方の心を癒すということも大事なことですが、あくまで主役は亡くなられた方です。

亡くなられた方が、心安らかに安心して旅立てるようすることが大事なのですから、旅立つ方が心配で旅立てないような状況を作ってはいけないと思うのです。

 葬儀や供養ではなく、ご自分のために唱える念仏、題目などでも同じことがいえるのだと思えます。

 でも、人気あるんですよね、哀愁をおびた泣かせるお経。

本当は人々を安心(あんじん=安らかな落ちついた心持)させたり、元気になるような声明の方がよっぽど難しいんですけどね。

よく言われるでしょう、人を泣かせるのは簡単だけど、人を笑わせるのは難しいって。

 現に、お笑い芸人がシリアスドラマに出ても良い演技ができるのに、シリアスドラマに出ている役者さんがお笑いをできるかというと難しいですよね。

 私としてはそっちの方を目指しているのですが、なかなか思うようには行かないものですね。

私も頑張ってみるよ、良禅君。

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蔵の財より 身の財すぐれたり・・・

2009-01-05 19:38:50 | 法話

        <シンビジュームの花芽も伸びてきました。>

昨日始まったNHK大河ドラマ「天地人」。

その中で、豊臣秀吉に家臣になるよう財宝を積まれた直江兼続がその申し出を断るシーンの後にこのようなセリフを話していました。

「蔵の財(たから)より身の財(たから)身の財(たから)より心の財(たから)・・・・」

びっくりしました。

なぜかというと、これは日蓮聖人の御遺文の中にでてくる言葉だからです。

なぜ、直江兼続がこの言葉を口にするのか?

確か直江兼続が預けられて勉強していた寺は雲洞庵という曹洞宗のお寺だったと思うのですが。

まあ、理由はともかく、日蓮聖人の御遺文(崇峻天皇御書)の中では「蔵の財よりも 身の財すぐれたり 身の財より 心の財第一なり この御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」と書かれています。

 つまり、蔵の中にたくさん財宝を積むことができても、健康でなくては何にもならない。

だから、蔵の財より自分の体(財)のほうが大切である。

さらに体が健康であっても心が清く豊かでなくては何にもならない。

この文を御覧になったら、心の財を積み上げるように心がけなさい。

というのが原文の意味です。

 何にもまして心の財が一番だということです。

そして、心の財を積むことが大切であると説いているのです。

 確かにそうですよね。

今でもそのまま通用するのではないでしょうか。

アメリカのサブプライム問題を引き起こした人々も、蔵の財を積み上げてばかりで、心の財を積むことがなかったのでしょう。

もし少しでも心の財を積むことができていたら、こんな金融不況になることもなかったのではないでしょうか。

残念なことです。

今、標語作りをしていますが、その候補の中にこの言葉を考えていたのですが、先に使われてしまったので、別の御遺文から作ることにしましょう。

今年の目標を立てていない方、「心の財を積む」ということを目標にしてはいかがでしょうか。

きっとあなたにとって良い年になることでしょう。

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市川三郷町住職殺害事件によせて

2008-07-11 14:15:12 | 法話

先日、市川三郷町で、末期がんに苦しむ住職がその妻に殺害されるという事件が起こりました。

苦しむ姿を見かねて首を絞めたということらしいですが、詳しい真相はわかりません。

 この事件はいろいろな問題をはらんでいるように思えます。

まず、●緩和ケアについて。

今の時代、がんの痛みは我慢することなく、痛みを和らげる治療を受けることができるのに、そのことがまだまだ理解されていないということ。

 ●看病する人の心のケアについて。

家族など、親しい人の看病をする人というのは、看病される人と同じくらい心のケアが必要です。

しかし、それについて、適切なケアをしてくれる機関があまりないということ。

また、人間関係の希薄さから、なかなか相談できる人がいないというのも現実です。

本来、心のケアはお寺がすべき領域かもしれません。

これから、お寺が本気で取り組んでいかなければならない問題の一つでしょう。

 ●老老介護(看護)について。

お年寄りがお年寄りを介護(看護)しなければならない状況が多々あるということ。

介護、看護等、力になってくれる機関があるのに、情報が届かないため、そこにたどり着けないで、ひとりで抱え込んでしまうということが多いということ。

 そういったいろいろな問題が積み重なって起こった事件のように思います。

新聞でも、「病人を抱える高齢者世帯では他人事ではないと重く受け止められている」(山梨日日新聞7月11日)というようなことが書かれていました。

そして、●お寺特有の問題。

お寺の住人(住職、その妻など)は常に公人として見られ、行動することを期待されています。

 特に、寺庭夫人は住職を助け、法務以外のお寺の仕事はもとより、みんなの面倒を見、相談に乗るという役割を演じることを求められます。

そのため、自分自身の悩みを相談するということが、非常にしにくい立場に置かれていることになります。

それで、事態が悪化するという傾向があるのかもしれません。

どんな屈強な精神の持ち主でも、弱気になることはあります。

しかし、それを隠し続けなければならない辛さは相当なストレスになるでしょう。

そんな、お寺特有の問題も今回の事件の遠因になっているのかもしれません。

 

 人という字は人と人とが寄り添ってできています。

助けたり、助けられたり、お互いに支え合ってこその人間です。

助けられることは、はずかしいことではありません。

お互い様なのです。

困った時は助けを求め、助けを求められたら、気持ちよく手助けする、そういう社会でありたいものです。

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ざくろの花は多けれど、実となるは少なし。

2008-06-20 21:45:21 | 法話

ざくろの花もまだ、たくさん咲いています。

しかし、花が咲き終わって小さな実になったものが、次々落ちてきます。

たこさんウインナーのようなかわいい形です。

柿の実と同じように、ちゃんと実となるものは少ないようです。

日蓮聖人の御遺文に「魚の子は多けれど、魚となるは少なく、あんらじゅの花は多く咲けども、このみとなるは少なし。人もまたかくの如し、菩提心をおこす人は多けれども、退せずしてまことの道に入る者は少なし・・・・」という一節があります。

仏となるべく修行をする志をもっても、それを貫き通すことの難しさのたとえです。

人間も、植物も、最後まで実(成功)となるのは、並大抵のことではないようです。

だからこそ、価値があることなのでしょう。

檀信徒の皆様宛に、本日、清正公吉祥祈願会のご案内を郵送しました。

ほどなくお手元に届くことと思いますので、もう少々お待ちください。

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命に合掌

2008-06-08 23:22:19 | 法話

今日、歩行者天国でにぎわう秋葉原で凄惨な通り魔事件が起こりました。

死傷者も多数出ているようです。

被害にあった方はもちろん、現場に居合わせたことで、あるいは御家族が被害にあったことで、心にきずを負った方もたくさんいらっしゃることでしょう。

たった一人の人間の行動で、多くの方の生活、人生がめちゃくちゃにされてしまう悲惨な出来事です。

人の命は限りあるもの、そして、誰もがそれぞれオンリーワンの大切な命です。

テレビゲームのようにリセットすることなどできません。

自分の命も他人の命もかけがいのない命です。命の重さを今一度思いおこして、大切にしていただきたいものです。

被害にあって亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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昭和に忘れてきたもの。

2008-04-29 10:12:39 | 法話

最近、昭和ブームで昭和を経験したことのない若い人たちまでもが、懐かしいと感ているそうです。

昭和といっても特に「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台となっている昭和30年代ぐらいが、一番人気があるようです。戦後の復興も進み、著しい経済成長を始める時期、これから生活が豊かになっていくという希望にあふれた時代だったからでしょうか。

電話機、洗濯機、テレビ等々、昭和に比べて、平成になった今、確かに文明の機器は目覚ましい発展をとげました。

しかし、人間の心の方はどうでしょう。 昭和の時代の方が、人に対する思いやりの心がたくさんあって、今より豊かだったような気がします。

 便利になった分、心の豊かさという大切なものをなくしてしまったような気がします。昭和を懐かしむという気持ちも、その心の豊かさに対する、あこがれなのでしょう。

昔を懐かしむだけでなく、もう一度、その心の豊かさを取り戻してはいかがでしょうか。

 写真は、昭和30年代に、川崎の溝ノ口にあった、立正幼稚園の弁当箱です。日蓮宗系の私立の幼稚園でしたから、制服はもちろん、弁当箱も御あつらえでした。蓋には、校章と生徒の名前が染め抜かれています。今考えると、昭和は以外に贅沢な一面もあったのかも知れません。

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葬儀の香典は誰のために、葬儀の経済学。

2008-04-12 18:58:43 | 法話

最近、家族葬と称して、家族以外の人を葬儀に呼ばないという形態が増えてきているようです。

他の人に迷惑をかけたくないという表向きの理由を掲げる方もありますが、費用がかかるからというのが本当の理由になってもいるようです。

でも、よく考えてみてください。葬儀は何かと費用がかかりますが、香典というのは貴重な収入源となるのです。

 お焼香に来られる方は、手ぶらではきません。香典を持ってきます。香典を供える意味の一つに、葬儀には費用もかかるから、それを援助するということがあります。

 実際、葬儀を行う場合、弔問客があってもなくても葬儀にかかる費用はあまり変わりがありません。 変わるとすれば、食事代、香典返しなどです。

しかし、食事をされる人も、香典返しを差し上げる人も、それぞれ、香典を持ってきた人が対象です。

 とすれば、香典を持ってきてくださる弔問客が多いほど、経済的に助かるということにもなります。

また、香典を持ってくる方の多くは、以前そのお宅で葬儀があった時に、香典をいただいているからという理由で持ってこられる方もいらっしゃるでしょう。

よその葬儀に差し上げた香典というのは、まわりまわって、いつか自分の葬儀の時に香典としてかえって来るものなのです。

 香典というのは葬儀の相互援助のひとつの方法です。そういう昔のすぐれた知恵を生かさないのはもったいないことではないでしょうか。

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当り前のありがたさ

2008-03-16 18:21:19 | 法話

明日から、春の彼岸が始まります。

「お墓参りなんて面倒くさい」「いつでも行けるからいいや」なんて思っている人はいませんか。

 私たちは、好きな時にいつでも墓参りに行くことができます。だからそんな風に思えるのかも知れません。

しかし、世界中見回してみると、戦争をしていたり、紛争のただなかにあったり、とても墓参りなどできる状態にない国もたくさんあります。

 それを思うと、今まで当たり前だと思っていたことが、とても貴重なありがたいことだと気づきます。

お彼岸には、家族そろってお墓参りに行きましょう。

 今こうして、暮らせること、当り前の幸せにに感謝しましょう。

 そして、これからもその幸せが続くよう皆で努力していきましょう。

写真は境内の片隅に咲くつばきです。

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地籍調査と少欲知足

2008-03-12 16:05:51 | 法話

今日は、地籍調査の仮閲覧。昨年、地元住民立会いのもと境界線の確認を行いましたが、その確認作業です。

土地の面積を確定する本閲覧は9月に行われます。なんでも、この作業は何十年も前から、日本全土を対象に行われているそうです。

今まで、そんなことをしているとは全く知らず、自分の地域に調査が入って初めてわかりました。日本全国の調査が終わるのは、いったい何時になるのでしょう。根気のいる大変な作業です。

土地のことですから、もめることも多いでしょう。思わぬところで、人間の品格が問われそうです。

人間が生きられる時間は長くても百数十年、どんなに財産があっても、土地を持っていても、亡くなる時には、何ひとつ持っていくことができません。

それなのに、結構、欲にとらわれてしまうんですよね。

欲望はほどほどに。欲に取りつかれて自分を見失うことのないよう、気をつけたいものです。

自分ではなかなか気がつきませんが、欲に取りつかれた人間の姿というのは他人からみると、とても滑稽で醜いものです。

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苦しみの真っただ中にいる人へ

2008-02-26 15:47:06 | 法話

どうしてこんなに苦しいんだろう。

なぜ自分だけがこんな目にあわければならないのか?

この苦しみが永遠に続くのではないか。

そんなお悩みの方、外へ出て、木の枝を見てみてください。枯れたように見えている枝に小さな芽が見えるでしょう。

厳しい冬の寒さに耐えた芽は、これからぐんぐんのびていきます。たくましく生きる植物の姿に驚かされることでしょう。

終わらない冬がない様に、あなたの苦しみも永遠ではありません。必ず春はやってきます。それまで、あきらめないで、自分を信じて待ってみませんか。

あなたの心に一日も早く、春が訪れるのを祈っています。  ブログランキング・にほんブログ村へ

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