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水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

愉快なユーモア短編集-28- 昔の子供遊び 2> 線切(せんき)り

2018年09月20日 00時00分00秒 | #小説

 その2>として線切(せんき)りという遊びがある。これも年相応の方ならお分かりだと思うが、実にシンプルな遊びで、五寸釘(ごすんくぎ)が1本あれば事足(ことた)りる遊びなのである。五寸釘も呪(のろ)いで人形を木に打ちつけるのと違い、こういう有効で愉快な使い方もある訳だ。^^ 子供の数だが、余り多いと投げて出来る線がややこしくなるから、2、3人が適当である。
 まず、2.3人の子供が五寸釘を持って集まることから遊びは開始される。続いて、釘が刺さりそうな適当な土質(どしつ)の場所を選ぶ必要がある。選べば、ジャンケンをして、釘を刺す順番を決める。そして遊びが開始される。ここでは、2人の子供が遊ぶ場合を紐解(ひもと)きたい。前の話と同様、解いてもらわず括(くく)ったままでいいっ! という方は眠っていてもらっても、いっこう構わない。^^
 最初に投げる子供は、釘を土に向かって投げ刺す。続いて次の子供が刺す。最初の子供→次の子供→最初の子供→次の子供と投げていけば、刺された点と点で線が出来る。サスペンス小説ではないが、^^ [点と線]で、蜘蛛(くも)の巣(す)が大きくなるように円が広がっていく訳だ。さて、そのままではコトは始まらない。^^ ここで相手の線を切れれば、相手の描いた線の外へ、もう一度投げることが出来て出られる・・という寸法だ。
 二人の子供がお寺の境内の一角で線切りをしている。
「よしっ! 切ったぞっ!」
「あああ…やられた~」
 いいところまで二人の切り合いは続いたが、残念なことにお昼が近づいた。
「じゃあ、またっ!」
「うん!」
 二人の子供は、愉快な顔で、いとも簡単に釘刺しを終わると家へ帰っていった。
 釘刺しは勝ち負けに拘(こだわ)らず、すぐにやめられる愉快な昔の子供遊びなのである。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-27- 昔の子供遊び 1> 缶蹴(かんけ)り

2018年09月19日 00時00分00秒 | #小説

 戦後、ようやく日本が立ち直ろうとしていた昭和30年代前半、愉快な子供遊びといえば、今のような物資に恵まれた時代ではなかったから、外での遊び道具は作ったり廃品を工夫したりして遊んだものだ。さてこれから、昔の子供遊びを1>~10>に分け、紐解(ひもと)きたいと思う。いや! 紐解かずにそのまま括(くく)っておいて欲しい…と思われる方は読まずに眠っていてもらっても、いっこう構わない。^^
 まず1>として缶蹴(かんけ)りという遊びがある。年相応の方ならお分かりだと思うが、いわば、隠(かく)れんぼの缶バージョンといえるだろう。遊び道具を買う必要もなく、空(あ)き缶が一つあれば、数人の子供達が愉快に遊べたのである。遊び方は実にシンプルで、数人の子供がジャンケンをし、負けた子供が鬼になる。鬼は土の上へ小さな円を描(えが)き、その真ん中へ缶を置く。そして鬼以外の子供の一人が缶を勢いよく蹴り、鬼以外の子供達は走って逃げる。遊びの始まりだ。鬼は蹴られた缶を拾(ひろ)って円中央へ置かなければ捕らえられない。その間に鬼以外の子供達は思い思いの場所へ隠れるのである。鬼は見つけてタッチ[身体に触れ]さえすれば捕らえたことになる。全員を捕らえれば鬼の勝ちとなるが、誰かが鬼のいない隙(すき)に缶をカ~~ン!! と蹴れば、捕らえられていた子供は逃げることが出来る。音に気づき、しまった! と鬼が戻(もど)ってもあとの祭りで、最初からやり直しになってしまう訳だ。
 すでに、大部分の子供が鬼に捕(つか)まっていた。
「僕が出て誘(さそ)うから、その隙にっ!」
「わかった!」
 残った二人の子供が小さな声で密約(みつやく)を交(か)わした。まるで幕末の薩長同盟のように…。^^
 その後、一人の子供が飛び出し、鬼を誘った。鬼は罠(わな)にかかり、その子供を追いかけた。その隙に、もう一人の子供が缶をカ~~ン!! と勢いよく蹴った。捕らえられていた子供達は一斉(いっせい)に逃げ散った。音に気づいた鬼は、しまった! と戻ったが時すでに遅(おそ)しで誰一人いなかった。辺(あた)りを夕焼けが照らし、カラスがカァ、カァ~と鳴きながら帰っていく。鬼には、それが、バァ~カ、バァ~カ・・と聞こえた。
「もう、やめようよぉ~~!!」
 鬼の負けとなり、子供達はそれぞれの家へ帰っていった。
 長閑(のどか)だった昔の子供遊び、缶蹴りの愉快なお話である。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-26- 救済(きゅうさい)

2018年09月18日 00時00分00秒 | #小説

 夏も終わり近くになると、お地蔵さまを囲こみ、各地で地蔵盆(じぞうぼん)と呼ばれるお盆の供養(くよう)が行われる。日本に古くから伝わるレトロ感覚のいい風習である。津島盆(つしまぼん)[今から考えれば神さまのお盆というのも妙な話だが…]というのも昭和30年代当時は存在したが、今の時代も続いているかは定かでない。枝葉末節(しようまっせつ)となったので話を地蔵盆へ戻(もど)すが、僧侶(そうりょ)の読経(どきょう)のあと、子供達は手に持つ大きな袋の口を開け、並んでお下がりのお菓子を入れてもらう・・という救済(きゅうさい)を受ける。このことがお地蔵さまが子供の味方(みかた)といわれる由来(ゆらい)? なのかどうかは別として、子供達は有り難~~い功徳(くどく)を受け、愉快になる訳だ。だがこれは、お菓子も乏(とぼ)しかった昭和30年代前半の子供達の感じた愉快な気分で、物が有り余った今の子供達に通用する話なのかは分らない。昭和30年代の子供達といえば、すでに老人の域へさしかかろうとする際(きわ)どい世代である。^^ この時代の子供達は、朝からお菓子の救済を受けるぺく? ^^ お地蔵さまや神さまの祠(ほこら)を水で洗いながら束子(たわし)で必死にゴシゴシと磨(みが)き、ひとまずその場は撤収(てっしゅう)したものだ。そして暗くなると、袋を密(ひそ)かに潜(ひそ)ませた浴衣などを着てお参りするでなく現れるのである。この愉快な感覚は、物資の乏しい時代だったからこそ言えることで、現代では味わえない感覚なのかも知れない。
 二人の男がお地蔵さまの前に敷かれたバランシートの上に座り語らっている。
「ほう! 時代も変わりましたなぁ~。昔は茣蓙(ござ)でしたが…」
「ははは…時代ですよっ、時代っ!!」
「ですなっ! 時代、時代っ! ははは…」
「で、津島盆はっ?」
「さぁ~…? 今もやってるんですかなぁ~? ははは…ゴシゴシとっ!」
「ははは…ゴシゴシでしたなっ!」
 救済された愉快な気分で遠い過去を話し合う二人の男の姿が、行灯(あんどん)の微(かす)かな光りに浮かんでいた。

                                 


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愉快なユーモア短編集-25- 軽く生きる

2018年09月17日 00時00分00秒 | #小説

 生き方として重い? 軽い?・・どちらが生きやすいか? を考えた場合、果たしてどうなのか? それを理詰めで考える風変わりな一人の教授がいた。教授は、60の還暦近くになった頃、初めてこのことに気づき、研究しようとしたのだか、皆から馬鹿にされるように思え、秘密裏(ひみつり)に研究やそれに伴(ともな)うシミュレーションを重ねるようになった。そしてようやく今、その成果の一部が実を結ぼうとしていた。
[1]重く生きる→よく考えて慎重にコトを運んだ結果、生きる上での失敗は少なく、実利を得やすい。しかしその反面、意外性が欠如し、面白味が乏(とぼ)しく、愉快な気分では生きにくい。
[2]軽く生きる→深い熟慮(じゅくりょ)もなくコトを運び、心の趣(おもむ)くままに生きるから、失敗をしやすい。しかしその反面、以外な発想が以外な新事実を生む場合もあり、面白味が多い。当然、失敗も多いが、愉快な気分で生きやすい。
「まあ、軽く生きる方がベターか…」
 教授が小声で呟(つぶや)いたとき、助手が研究室に入ってきた。
「先生! 教授会で来年の学部長に名が上がってるようです!」
「なにっ! それは本当かっ!」
「はいっ! 間違いありませんっ!」
 その日から、愉快な気分で軽く生きていた教授は、不愉快な気分で重く生きるようになった。
 欲が出ると愉快な気分が消え、軽く生きることは出来ないようだ。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-24- 思いよう

2018年09月16日 00時00分00秒 | #小説

 どんな物事でも思いようによって、その後の展開が大きく変化する。カッ! となって言ったり、やってしまう短慮(たんりょ)も、思いようによってはカッ! としなくなり、冷静に対処(たいしょ)することで、その後の展開がスムースに運ぶのである。
 とある宝籤(たからくじ)売り場に一人の男が籤を買いに来た。
「またダメかな…」
 ひと言そう呟(つぶや)くと、来た男は店頭へと近づいた。すると、一人の別の男が籤を買い終えたところで、立ち去ろうとする矢先だった。
「フフッ! また当たるかな…」
 別の男は、来た男とすれ違いざま、ニヤリ! と笑い、そう言い残して去った。来た男は、当たることは当たるんだな…と思った。籤を買ったあと、来た男は歩きながら思った。俺は、いつも当たらない・・と思ってるから当たらないのかも知れない。ものは思いようだ…と。そうしてその後、来た男は当たるに違いない、当たるに違いない! …と、自(みずか)らに言い聞かせることにした。
 月日は巡り、当選発表の日が来た。来た男は結果を見たあと、愉快な気分で笑った。買った籤は、ものの見事に当たっていたのである。…3等・・賞金¥3,000が1本。
 思いようによって好結果? が得られた・・という愉快なお話である。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-23- 鰯(いわし)の頭(あたま)

2018年09月15日 00時00分00秒 | #小説

 古い諺(ことわざ)に、━ 鰯(いわし)の頭(あたま)も信心(しんじん)から ━ というのがある。歴史だと、鎌倉時代の元寇(げんこう)で吹いたとされる神風(かみかぜ)がその鰯の頭で、先の世界大戦で多くの尊い命を散らせる因にもなった。普通常識として考えた場合、鰯の頭は、ただの魚(さかな)の頭なのだが、信心する人からすれば、節分に柊(ひいらぎ)の葉とともに挿(さ)せば、家の魔除(まよ)けになる・・という。ただの愉快な慣習に過ぎないのだろうが、信心する人からすれば、それで魔や鬼が退散する! というのだから怖(こわ)い話である。
 これは古い江戸時代のお話である。とある深夜のこと、とある村の野原に落ちた隕石(いんせき)は、次の朝、村人達を驚愕(きょうがく)させた。その年、村は数十年ぶりの水不足に見舞われ、凶作が心配されていた。
「ピカッと光って落ちてったのは、どうもこれだな…」
「ああ…そうだべ」
 村人達は落ちた隕石を取り囲み、ああだこうだと騒いでいた。
「こりゃ~、神様がお祀(まつ)りしてけろ・・と言ってなさるにちげぇねえで」
「ああ、んっだ…うらも、そう思う」
「お祀りすりゃ~、お恵(めぐ)みの雨を降らして下さるだぁ~よぉ」
「んっだ、んっだっ!」
 一人の村人のひと言で、その隕石は鰯の頭になったのである。次の日から村人達は総出(そうで)で祠を作り、その隕石をご神体(しんたい)として祀った。すると、不思議なことが起こった。祠が出来た数日後、潤(うるお)いの雨が村に降り注(そそ)いだのである。田畑の作物は、たちまち息を吹き返し、村は飢饉(ききん)から救われたのだった。祠の隕石は水神様として、村人の鰯の頭になり続けた・・というお話である。
 鰯の頭はご利益(りやく)を齎(もたら)し、人々を愉快な気分にさせるようだ。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-22- 先々(さきざき)

2018年09月14日 00時00分00秒 | #小説

 愉快なことは先々(さきざき)の結果がはっきりと分かることである。分かればその対処や対策も可能で、自然と愉快な気分になる・・という寸法だ。いくら優勢な状況にあったとしても、先々の結果が分らなければ不安だし、とても愉快な気分にはなれないだろう。戦国時代、桶狭間の戦いで軍勢の数では圧倒的に優勢だった今川軍が少数精鋭の織田軍に敗れ去ったのが、そのときの心境を物語るいい例だ。僅(わず)か数千の軍勢が何万もの大軍に勝つことなど、常識では到底(とうてい)考えられないのだが、先々を読み切った武将の決断力と行動力は、後世の殺伐(さつばつ)とした現代社会でも模範(もはん)とされる確固とした先々の読みなのである。
 一人(ひとり)の老人がホカホカで美味(うま)い饅頭(まんじゅう)を買いにやってきた。この饅頭はかなり評判が高く、店頭(てんとう)には長蛇の列が出来ていた。が、しかしである。老人は慌(あわ)てることなく、いっこうに動じる気配がなかった。それは老人に先々が見えていたからである。おそらくは長時間、並ばねばならないことは誰の目にも一目瞭然(いちもくりょうぜん)だったにもかかわらずである。
 老人が列の最後尾(さいこうび)に並び、数分が経(た)ったときだった。
「すいませぇん~~!! 本日は完売でございますぅ~~!! またのお越しをぉ~~!!」
 高い声の若い女店員が急に店から飛び出し、そう叫(さけ)んだ。人々はガックリと肩を落としたような表情で散(ち)り散(ぢ)りに消え去った。ところが、老人は一歩も動かなかった。しばらくすると、老人以外、店頭から人の姿が消えていた。老人は辺りをキョロキョロと見回すと、店の入口の戸をコンコン! と叩(たた)いた。
「はぁ~いっ!!」
「いつもの年寄りでございます…」
 老人は厳かな声で、ひと言(こと)、そう言った。
「ああっ! いつもの、でございますね? 取ってございますっ!」
 女性はニコリとした笑顔で出来立てでホカホカの饅頭入りの紙袋を手渡すと、深々と一礼した。この老人こそ・・誰あろう! 恐れ多くも畏(かしこ)くも、先の副将軍、従三位(じゅさんみ)中納言、水戸光圀(みとみつくに)公! ・・ではなく、この一帯の土地地主だったのである。老人はひと袋を残し、饅頭が完売されたという先々を知っていた。
「ホッホッホッホッ…どうもありがとう」
 老人はホカホカの袋を手にすると、愉快な気分で待たせた高級車へと乗り込み、消え去った。

                                 


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愉快なユーモア短編集-21- 文明の進む方向

2018年09月13日 00時00分00秒 | #小説

 文明の進歩とともに私達は快適に暮らせる時代を手に入れた。快適に暮らせれば、言わずとも愉快な気分で心地よく生きられる・・ということになる。だが、しかしである。ここで問題が派生(はせい)する。快適にさえ暮らせれば文明は果(は)てしなく進歩していいのか? という素朴(そぼく)な疑問が生じるのだ。文明の進む方向の問題である。進む方向によって人の愉快な気分は阻害(そがい)され、逆に不愉快 極(きわ)まりない事態にも立ち至る訳だ。
 高級車を脇道に止め、二人の男がようやく稲が色づこうとする田園地帯の細道を歩きながら話をしている。
「昔に比べりゃ、随分(ずいぶん)、楽(らく)になったようです。それに収穫量も増えたと聞きますが…」
「ああ、そりゃそうでしょ! 今は牛が泥田(どろた)の中を動き回る時代じゃないですからなぁ~」
「昭和30年代前半ですねぇ~。あの頃はコンバインもなく、手で刈ってられました…」
「そうそう! 長閑(のどか)な時代でした」
「あの頃に比べますと、文明も進歩しましたが…」
「そこ! なんですよ、問題はっ! 文明の進む方向ですっ!」
「? と、言われますと?」
「つまりは、本当に進歩したのか? ってことです」
「? …どういうことです?」
「確かに収穫量も増え、人手(ひとで)もいらない時代になりました。しかし、ですよっ!! 二毛作が一毛作となり、飽食(ほうしょく)の時代ですっ! 農業だけでは食べられず、減反(げんたん)政策で休耕(きゅうこう)地、耕作放棄(こうさくほうき)地ですよっ!」
「それで進歩したのか? ってことですか…」
「そう! そのとおりっ!!」
 二人はそんな会話をしばらくしたあと、車の人となり、美味(うま)いステーキを高級レストランで、しこたま頬張(ほおば)った。
 今の文明の進む方向は、愉快なこの二人の感じだ。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-20- 程度(ていど)

2018年09月12日 00時00分00秒 | #小説

 物事(ものごと)には程度(ていど)というものがある。いくら素晴らしいことでも程度が過ぎれば素晴らしくなくなる。これと同じように、愉快な出来事も度(ど)を超(こ)せば不愉快になるから、程度はことの他、難(むずか)しいといえる。
 湧水(わきみず)家の細めの大黒柱、恭一が、珍しく父で今年、古稀(こき)を迎えた恭之介の肩を揉(も)んでいる。
「ほう! なかなかいい具合だぞ、恭一。ははは…嵐にならんといいがなっ!」
「ははは…私だって、たまには肩くらいは揉みますよっ、父さん」
「いや、だから怖(こわ)いんだ。お前が親孝行? …考えただけでも不吉(ふきつ)だっ!」
  恭之介の愉快な気分は、たちまち消え失(う)せた。
「まあ、そう言わないで下さい…」
 恭一は、やんわりと恭之介の肩を揉み解(ほぐ)していたが、不吉と言われて腹が立ったのか、一瞬、揉み手に力が入った。
「ウウッ!! い、痛いっ!! な、なにをするっ、この無礼(ぶれい)者(もの)っ! そこへなおれっ!!」
「す、すみませんっ!!」
 恭一は恭之介の剣幕(けんまく)に恐(おそ)れをなしたのか、足早(あしばや)に離れから去った。
 これが、程度の難しさなのである。^^
物事(ものごと)には程度(ていど)というものがある。いくら素晴らしいことでも程度が過ぎれば素晴らしくなくなる。これと同じように、愉快な出来事も度(ど)を超(こ)せば不愉快になるから、程度はことの他、難(むずか)しいといえる。
 湧水(わきみず)家の細めの大黒柱、恭一が、珍しく父で今年、古稀(こき)を迎えた恭之介の肩を揉(も)んでいる。
「ほう! なかなかいい具合だぞ、恭一。ははは…嵐にならんといいがなっ!」
「ははは…私だって、たまには肩くらいは揉みますよっ、父さん」
「いや、だから怖(こわ)いんだ。お前が親孝行? …考えただけでも不吉(ふきつ)だっ!」
  恭之介の愉快な気分は、たちまち消え失(う)せた。
「まあ、そう言わないで下さい…」
 恭一は、やんわりと恭之介の肩を揉み解(ほぐ)していたが、不吉と言われて腹が立ったのか、一瞬、揉み手に力が入った。
「ウウッ!! い、痛いっ!! な、なにをするっ、この無礼(ぶれい)者(もの)っ! そこへなおれっ!!」
「す、すみませんっ!!」
 恭一は恭之介の剣幕(けんまく)に恐(おそ)れをなしたのか、足早(あしばや)に離れから去った。
 これが、程度の難しさなのである。^^

 ※ 湧水家のお二人は、風景シリーズからの特別出演です。^^

                                 


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愉快なユーモア短編集-19- 落ちつく

2018年09月11日 00時00分00秒 | #小説

 落ちつく・・という心の有りようは、愉快な気分になる源(みなもと)である。何故(なぜ)かといえば、落ちつけば慌(あわ)てないからだ。慌てれば、心に乱れが生じ、愉快な気分どころの話ではなくなる。そればかりか、失敗をしやすくなり、益々(ますます)、負(ふ)のスパイラルを引き起こすことになりかねないのである。そんな訳で、ということでもないが、落ちつくという心の有りようは愉快な気分になるための必須条件なのかも知れない。
 夏休みである。夫婦と子供二人の家族四人が列車旅行をしている。愉快な気分でお茶を飲みながら駅弁を頬(ほお)張ったあと、父親が上着、ズボン・・と、ポケットを弄(まさぐ)って何やら探している。
「あれっ? 俺、財布、渡したよなっ!?」
「なに言ってるのっ! さっき、駅弁買うって言ったから渡したじゃないっ!」
 母親がすぐ全否定した。
「? …ああ、そうだ。そのあと、返したじゃないか」
「返してないじゃないっ!」
「いやいやいや、確かに返したっ!!」
「馬鹿言わないでよぉ~~!!」
 さあ! 偉いことになった・・と、父親は座席から立ち上がり、座席、座席の下・・と、慌てながら財布を探し始めた。しかし、財布は見つからなかった。父親の顔が少し蒼(あお)ざめ、愉快な雰囲気は消えていた。なにせ、財布の中には旅費の大部分が入っていたからである。旅館の宿泊代はすでに旅行社を通じて先に支払っていたからよかったものの、これでは土産(みやげ)さえ買えない。
 するとそこへ、トイレに行っていた小学校2年の長男がルンルン気分で戻(もど)ってきた。
「パパ、どうしたのっ?」
 長男は訝(いぶか)しそうな顔つきで訊(たず)ねた。
「んっ? ああ、財布がな…」
 父親は罰(ばつ)が悪いのか、小声で呟(つぶや)くように言った。
「財布? 財布って…」
 長男は首からぶら下げたポシェットのチャックを開け、中から財布を取り出した。
「あああ…!!」
 父親は、長男に財布を預けていたのを、すっかり忘れていたのだった。たちまち、父親ばかりか家族全員に愉快な気分が戻った。
 落ちつくことで、愉快な気分が戻る・・という一例である。^^

                                 


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