「ところでさぁ~、こんなことは言いたくないんだけど、そろそろ終わりにしないかっ!?」
夢の中でも主語抜きのいつもの海老尾の癖(くせ)が出た。
『…何を、です?』
所長の蛸山と同じような口調でレンちゃんが訊(たず)ねた[微細なウイルスには当然、口などないのですが、飽くまでも夢の中での会話ですから、ある訳です^^]。
「何をって、この話をさっ!」
『この話って、ユーモア科学小説ウイルスを、ですかっ!?』
「ああ、そうだ…」
『そんなことは僕の一存では決められません。書いておられる作者の方に(き)いて下さい』
「君がこの小説の主役だから訊いたんだけど、君だけじゃダメなんだね…」
『というか、僕には決める資格とか権利がありませんから…』
「つまり、君にはこの先がどうなっていくかは分からない・・ってことになるけど…」
『そのとおりです。僕には、この先の筋書き[プロット]がどうなっていくのかが分かりません…』
「要するに作者自身の発想の問題だと、君は、こう言うんだね?」
『ええ、そのとおりです。ウイルスの僕にもこの先がどうなるかは…。海老尾さん、あなた方人類の文明に対する考え方次第なんじゃないですか?』
「それは、そうなんだけどさ…。こうしたらいいとか、ああしたらいいとか、僕達に対するアドバイスはないのかい?」
『そりゃ~ありますよ。決まってるじゃありませんか。七十年ほど前に文明を戻(もど)してもう一度、やり直せば、僕達ウイルス全体が味方につくかも知れませんよ』
「七十年前・・といゃ~敗戦直後だな…」
『そうなります。共生は作者の思っておられることなんですが…』
「作者の気持が君、よく分かるね?」
『そりゃ~分かりますよ。私は作者の創作した作品の中のウイルスですからっ!』
「なるほど…。ということは、私の考えてることも作者は?」
『もちろんですっ! 作者が海老尾さんを作られたんですから…』
レンちゃんは断言した。どうも、作者である私自身が、この話の結末の鍵を握っているようなのである。しかし、今の段階では、作者の私にもどうなっていくのか? という先行きが、ウイルスの終息時期のように不透明だった。
続
その頃、海老尾の深層心理に住むレンちゃんは極悪ウイルス消滅後の残務整理に余念がなかった。
『これで、しばらくは楽になれると思いますが…』
『ああ、君はよくやったよ』
『何をおっしゃるやら…。僕は老ウイルスさんに情報を提供しただけです。活躍されたのはあなたじゃありませんか』
『ははは…いや、私は何もしていない。実行したのは、すべて私の配下だよ、君』
老ウイルスは笑う代わりにレンちゃんの周りを一回転した。
『いや、ご謙遜を…。これで私達ウイルスの問題は終わりましたね』
『その考えは甘いよ、君。極悪ウイルスは今後も形を変えて出現する可能性はあるんだ』
『そうなんですか? それを食い止める手段は?』
『今後の人類次第だな…』
『と、言われますと?』
『人類が今後、どのように文明を進めるか? によって・・ということだよ、君』
『進め方次第で今後も出現する可能性があると?』
『ああ、まあそういうことだ。私達ウイルスにも生活がある。人類が生み出す化学物質に私達は打ち勝たないと生存が出来んだろ?』
『ええ、まあそうですよね』
『生存するには、どうすればいい?』
『進化するしかないですよね』
『そうだっ! 打ち勝つ進化・・すなわち変異するしかない。となれば当然、人類の生存を脅かす力を持つ新たな極悪ウイルスが出現する・・と、話はまあ、こうなる訳だ』
『なるほど…』
理解できたレンちゃんだったが、自分の力では解決しない問題だけに、今一つ納得出来なかった。
『まあ、ひとまず今回は・・ということだ。だが、すぐに次の極悪ウイルスが出現するということじゃないから安心しなさい。人類の文明の進め方次第では少しずつ可能性が高くなる・・と理解しなさい』
『はいっ!』
レンちゃんは先生の授業を受けたような返事をした。
続
「ははは…まあ、こんなもんだよ」
蛸山はガックリと肩を落とした訳でもない元気な声でそう言った。だが本心は、かなりガックリしていて再起不能状態だった。
「なんと言ったらいいか…」
海老尾としても受賞を確信していたからか、返す言葉がすぐ見つからない。
「私はどうも、賞に縁遠いようだ…」
「いや、これは…何かの手違いでしょう。世界を救った所長をノーベル賞にしない世の中なんてのはどう考えても妙ですっ! 所長、もうウイルス研究はやめにしましょう!!」
「ははは…馬鹿なことを言うんじゃない。私達は国立微生物感染症化学研究所の職員なんだよ、海老尾君」
蛸山は、今日は噛まずに上手く言えたな…と思いながら海老尾を窘(たしな)めた。
「すみません、つい、興奮して…」
「いや、正直なところ、私も少し予想外だったのは確かだ…」
「ですよね。世界を救った研究の第一人者を外(はず)すというのは、どう考えても合点がいきません…」
「合点がいかなくても、これが現実なんだから…。私達は研究を続けるしかないんだよ、海老尾君。出世や名声は研究する者にとって無用だと、今回の件は教えてくれたんじゃないか?」
「まあ、所長がそうおっしゃるなら、そうなんでしょうが…」
今一つ合点がいかない海老尾は、怒りが収まらない声でそう言った。
「海老尾君、今日は残念会だ、一杯やろう!」
「はいっ!」
笑顔の蛸山に、海老尾は涙を流しながら返した。
ところが、世の中とは奇妙な世界である。何がそうさせたのかは分からないが、その次の日、事態は急変した。蛸山がノーベル生理学・医学賞の受賞者として追加発表されたのである。
「ぅぅぅ…所長!!」
「海老尾君っ!!」
感激の大声を上げ、二人は、しっかと抱き合った。
「ははは…今日は、残念会の取り消し会だっ!」
「はいっ!」
二人は、笑顔でしっかと握手した。
続
ノーベル賞の発表が行われたのは、それから三日後だった。蛸山も海老尾も朝からソワソワと動きにゆとりがない。というのも、受賞決定となれば電話がかかることになっていたからである。ところが昼前になっても、いっこうかからない。^^
「海老尾君、電話、故障してるんじゃないかっ!?」
「いえ、そんな筈(はず)はありません…」
海老尾は、つい先(さっき)、店屋物を頼んだじゃないですか…と言おうとしたが、グッ! と我慢して心に留(とど)めた。
それからしばらくして、デリバリーした鰻専門店[蒲末(かばすえ)]の店員がピンポン!! とドアベルを押すと同時に入ってきた。
「鰻重、ここへ置いときますっ! 器(うつわ)は、いつものように次でっ! 毎度っ!!」
鰻専門店[蒲末(かばすえ)]の店員がアルミ製のおかもちから鰻重と肝吸い入りの薬缶を取り出し、アグレッシブな大声で言った。動きは素早く、器を置いたかと思うと、もう姿は消えていた。研究室の勘定は月払いの振り込みだった。
「所長! 昼にしましょう…」
海老尾がデスクから立ち上がり、大きく背伸びをしながら言った。
「ああ…」
返す蛸山の声はやや湿(しめ)りがちで小さい。明らかに電話がないことが原因…と海老尾には思えた。
「発表、遅れてんじゃないですかっ!」
海老尾は見かねて元気づけようとした。
「そうかね…」
やや持ち直した声で蛸山が返す。二人が食べ終えたとき、すでに一時は回っていた。
「それにしても…」
焦(じ)れた海老尾がテレビのリモコンを押すと、画面に映し出されたのはノーベル賞発表のニュースだった。
『蛸山正雄氏の受賞は今回、見送られた模様です…』
アナウンサーが深々と頭を下げ、ニュースは終わった。海老尾は最悪のタイミングだな…と思いながら蛸山を窺(うかが)った。
続
「ああ、分かりましたっ!」
蛸山は隠しきれず、喜色満面に応諾した。
〇▽テレビの局員、烏賊田(いかだ)が帰ったあと、蛸山と海老尾は賑(にぎ)やかに喜びながら握手した。
「先生、やりましたねっ!!」
「いやいや、テレビに出てくれってだけの話だからさ…」
蛸山は、暗にノーベル賞決定じゃないんだから…と、言いたげに謙遜した。
「なに言ってるんですかっ! テレビの局がオファー[出演依頼]に来るってことは、決定ってことですよっ!」
「そうかな? だと、嬉(うれ)しいんだが…」
蛸山は、決定は疑う余地がない…と思いながら、余り期待していないように弱く言った。
「間違いないですよっ?、いうことは、僕はどうなるんです?」
「決まってるじゃないかっ! 君は僕の片腕なんだから、私と同じだよ」
「そうでしょうか?」
海老尾は、当たり前だろっ! とは思ったが、その気分を隠すように訊(たず)ねた。
「ああ、この研究は二人の成果なんだからさ」
「ですかね…」
海老尾は、って言うか、僕の発見なんでね…という気持を隠して返した。
「そうとも…」
蛸山は、君はどうでもいいんだが…と、海老尾を煙たく思いながら、その気分を隠して答えた。
「あとは、受賞決定を待つだけですね」
「ああ、だといいが…」
蛸山は、そうそう! という気分を隠して言った。
「間違いないですよっ!」
海老尾は待ってるくせに…という気分を隠し、ヨイショした。
続
そうこうして数日が経ったとき、研究所へテレビ局の社員が訪れた。
「蛸山所長さんでしょうか?」
「はい、そうですが…」
蛸山は、ひょっとするとひょっとするぞ…という期待感を抱きながら、態度は素知らぬ態(てい)で肯定した。
「私、〇▽テレビの烏賊田(いかだ)と申します」
烏賊田は自己紹介をしながら名刺を手渡した。名刺には、[〇▽テレビ チーフ・プロデュサー 烏賊田釣男]と書かれていた。
「はあ、そうですか…。で、なにか御用で?」
「実は、来週の水曜日なんですが…」
「はあ…」
「報道番組の[時の人]って番組、ご存じでしょうか?」
「[時の人]ですか? ええ、時々、観ておりますが…」
「この番組にご出演願えないでしょうか?」
「来週の水曜ですか? 何時からです?」
「午後二時なんですが…」
「海老尾君っ! どうだねっ!?」
「空いてます、所長っ!」
海老尾は、いつだって空いてるじゃないですか…と思いながら少し離れたところから返した。
「ははは…だ、そうです」
「それじゃ、OKってことで、よろしいんでしょうか?」
「ああ、喜んで…」
「それじゃ、昼一時に車でお迎えに上がりますから、よろしくお願い致します」
続
恐竜絶滅のような人類の絶滅を未然に防ぐ新ベクター治療ワクチン"#$%&#の成果に、やはり世界は目を閉ざしていた訳ではなかった。メディアの記者が頻繁に研究所へ出入りするようになったのは、それから半月後である。我が国で広がり始めた極悪変異ウイルスによる死者の数も皆無となり、ひとまず政府は戒厳令を解除した。全国民の外出の自由が回復したということになる。政府の監視下に置かれ、研究所で缶詰状態だった蛸山と海老尾も自宅通勤が許されるようになっていた。
「所長、エントランスが急に騒がしくなりましたね…」
「ああ、何かあったのかい?」
ノーベル賞かも知れんぞ…と薄々、分かっていた蛸山だったが、知らぬ態(てい)で海老尾に返した。
「所長! ひょっとするとノーベル賞の候補にっ!」
「んっ!? ははは…それはないだろ、海老尾君」
「いや、分かりませんよ。そろそろ時期ですし…」
海老尾はノーベル賞の発表時期が近づいていることを、暗に言った。
「そうかねぇ…」
そうに違いないっ! と確信していた蛸山は知らない態で暈(ぼか)した。
「その可能性は高いです。他にコレといったことも起きてませんし…」
「ああ、そういや、そうだね…」
「所長! おめでとうございますっ!」
「ははは…まだ、何も知らせは入っていないよ、海老尾君」
蛸山は、まんざらでもない気分で笑った。
「いや、そのうちニュースになるか電話が入りますって!」
「いやいやいや、それはないだろ…」
蛸山は、そうだね…と思ったが、真逆の言葉を海老尾に返した。
「僕の考えすぎですかね…」
「ああ、そうだよ…」
蛸山は、また暈(ぼか)した。
続
蛸山と海老尾の研究者コンビは、傍(そば)から他人が聞けば、恰(あたか)も超有名漫才師にも似て面白いのだが、二人はそのことに全く気づいていなかった。
ひと月後である。新ベクター"#$%&#ワクチンの配布後の効果は絶大で、瞬く間に世界の死亡者は激減していった。蛸山と海老尾の開発コンビ[二人だからチームではない^^]によるワクチン開発者としての名声は全国各地、いや世界各地に広がった。となれば、蛸山所長が密かに期待するノーベル賞の呼び声である。^^ ところが、蛸山が待てど暮らせど、いっこうに呼び声はかからなかった。
「死者が激減しているようじゃないか…」
「はい、結構なことです…」
整理ファイルの入力に余念のない海老尾へ、珍しく蛸山の方から声をかけた。パソコンのファイル入力に集中する海老尾にとって、蛸山の声は雑音である。
「ははは…私達の名も世界に知れ渡ってきたようだ…」
「えっ!? あっ! はいっ! そのようですね…」
海老尾の攣(つ)れない返しに、蛸山は、それを言うなら、いよいよノーベル賞ですねっ、だろっ! …と少し怒り気味に思った。
「知れ渡ると、やはり私達を放ってはおけないだろうな…」
「そんなことはないんじゃないですか。誰が開発したなんて、すぐ忘られちまいますよっ!」
「そんなものかねぇ~」
蛸山は、そういう言い方はないんじゃないかっ! と、強めに思った。
「ええ、世間てぇ~のは、そんなもんです。有難がられるのも、ほんの一時(いっとき)です!」
海老尾は断言した。
「いやいや、そうでもないんじゃないか…」
「所長は忘られたくないんですね?」
「んっ!? いや、そういうことでもないんだが…」
蛸山は受賞したい気分の真逆言葉で返した。
「まあ、ノーベル賞の呼び声は、そろそろかかるんでしょうが…」
「だなっ!」
蛸山は、それを先に言えっ! と、怒りながら笑った。
続
その後、新ベクター"#$%&#は、蛸山と海老尾の実用段階への応用が功を奏し、第一相治験[臨床薬理試験]のみで治験第二相[探索的試験]なしで緊急承認された。そうなると、各地の病院への増産が緊急課題となる。数日後、厚労省の民間製薬会社各社への協力要請もあり、製薬各社は収益抜きで増産体制へと入った。この迅速な行政→民間の連携した動きは人名が優先されるべき・・という第一義の発想に基づくものだった。
「所長、よかったですね…」
「なにが?」
蛸山は、また主語抜きか…と思いながら、海老尾の顔を見た。
「"#$%&#ですよ、嫌だなぁ~」
「嫌なのは私だよ。まだ、終息してないんだからね…」
「ええまあ、それはそうなんですけど…」
「とにかく私達がやれることはやったんだから、その点はいいんだが…」
「そうですよ、僕達にはこれ以上やれることはないんですから…」
「ああ、そらまあそうだ…」
春先から苦しんだ課題がようやく峠を越した頃、すでに梅雨入りが迫っていた。新ウイルスは罹患前の投薬[ワクチン]が大前提となる。予防薬が即、治療薬となる訳だ。全国各地の病院への新ベクター"#$%&#ワクチンの配布は、各県が先を争う形で輸送が始まった。
「所長、始まりましたね…」
「なにが?」
蛸山は、いつもの主語抜きか…と思いながら、海老尾の顔を呆(あき)れたように見た。
「"#$%&#ワクチンの配布ですよっ!」
「配布して、それで済んだって話でもないだろっ!?」
「ええまあ、それはそうなんですけど…」
海老尾の返答を聞いた蛸山は、この前もそう言ったな…と馬鹿馬鹿しく思った。
続
こちらは蛸山と海老尾がいる研究所である。
「それにしても、君の潜在能力には恐れ入ったよっ!」
蛸山が海老尾を褒(ほ)め称(たた)える。
「いや、そう言って頂くと、かえって恐縮します。マグレですよ、マグレっ!」
海老尾は笑いながらマグレを強調して言った。海老尾の潜在意識の中に住むレンちゃんと老ウイルスが極悪ウイルス群のアジト殲滅(せんめつ)させたことを海老尾自身は知らない。海老尾がその事実を知るのは少し先の夢の中の遭遇である。
「ははは…マグレで、こう上手(うま)くはいかんよっ! あっ、そうだった!! 官房副長官の蟹岡君に知らせんといかんっ!」
「それそれっ!! 一刻を争います、早く早くっ!!」
気づいた蛸山に海老尾が同調して煽(あお)った。蛸山はすぐに携帯を手にした。
「蛸山ですっ! ああ、はいっ! ただいま、新ベクターの"#$%&#が発見されました。直ちに実用段階の応用に入りますっ! 岸多総理および関係所管にはよろしくお伝え下さいっ! … はい、分かりましたっ! ではっ!」
「どうでした?」
「取り急ぎ、よろしく頼みます・・とのことだっ!」
「ウイルスが広がってるようですっ! 所長、急ぎましょう!!」
「ああ…」
海老尾はすぐ、席へ座り直し、蛸山も自席に戻(もど)った。極悪ウイルス群の国内への浸潤は早まっていた。一刻の猶予も許されないのである。新ベクターの"#$%&#の培養を急がねばならない。蛸山と海老尾のふたたびのバトルが開始された。相手は見えず手に負えない極悪ウイルス群である。戦闘相手が見えないのは盲目で争うにも等しい。ただ一つ、使える武器は電子顕微鏡のみであった。
その頃、そんなことになっていようとは露ほども知らない海老尾の潜在意識の中のレンちゃんと老ウイルスは赤穂浪士の討ち入りの引き上げのように、粛々と現場を離れていた。極悪ウイルス群のアジト察知こそ、新ベクター"#$%&#による効果といえた。
続