西洋文学はことごとく旧約聖書ヨブ記をベースにしている。
そう言う人は多い。
私は西洋文学に疎いので、自信をもってそう言い切れないが。
ヨブのクライマックスは、以下かな。
わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
I despise myself and repent in dust and ashes.
ヨブ記 42:6 (新共同訳)
とてつもない不条理に遭って、でも神は全然優しくなくって、上から目線どころかトンデモなく高い「神から目線」で
You shall answer me
お前、答えてみよ
ってのたまう、、、
そんな不条理の上の不条理に遭っても、ヨブは
in dust and ashes 塵と灰になって
文字通り這いつくばって、謙虚どころか、それ卑屈なんじゃないのって感じで、
despise myself and repent
自分を退け、悔い改める
と。。。
論語で言う
天を怨まず、人を咎めず
ですね。
松下幸之助が言う
雨が降っても自分のせい
ですね。
徹底的な自責。
どんな宿命も受け止める。
ガンと受け止める。
憎まない。怨まない。
自分の運命を愛する。受け止める。引き受ける。
そんな、自責と宿命への忍従、『李陵』でいう「運命の笑殺」が、ヨブ記。
新井奥邃が言う「有神無我」の境地も、このヨブのdust and ashes ですね。徹底的に、神の前で無になる。
どんな不遇、悲惨、不条理に遭っても、
そんなボールを神は投げてきたかぁ
と受け止める。「人生の意味を神に問うのではなく、我々が意味を問われている」というV.フランクルの「コペルニクス的転回」も、ヨブ記をモチーフにしているはずだ。
ChatGPTもそう言っている。フランクルとヨブ記との関係はまた機会あったら勉強したい。
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※ 「塵灰」という言葉は、ヨブ記に由来するのですね。
ChatGPTがそう言っています。