狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

『Once Upon a Time in Hollywood』

2020年03月18日 16時22分19秒 | 映画・ドラマに関する日記
 昨日の夜は、映画『Once Upon a Time in Hollywood』のDVDを観ていました。

 かつてテレビの西部劇のスターとして名を馳せていた俳優リック・ダルトンは、変容しつつあるハリウッドの中で時代の流れに取り残されて、ドラマの悪役や単発企画へのゲスト出演の仕事しかまわってこなくなっていた。
 リックの親友で専属スタントマンのクリフ・ブースは、過去に自身が起こした出演者とのトラブルもあって実質リックの世話係を務める毎日を送っていた。
 そんな中、シエロ・ドライブにあるリック邸の隣に時代の寵児となりつつあった映画監督ロマン・ポランスキーと売り出し中の若手女優シャロン・テートの夫妻が引っ越してきていた……。

 監督は、クエンティン・タランティーノ。
 出演者は、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー、ラファル・ザビエルチャ、アル・パチーノ、ティモシー・オリファント、ジュリア・バターズ、ルーク・ペリー、ニコラス・ハモンド、マイク・モー、カート・ラッセル、ゾーイ・ベル、エミール・ハーシュ、ダミアン・ルイス、ドリーマ・ウォーカー、ルーマー・ウィリス、デイモン・ヘリマン、マーガレット・クアリー、オースティン・バトラー、ダコタ・ファニング、マディセン・ベイティ、マイキー・マディソンジェームズ・ランドリー・ヘーベルト、マヤ・ホーク、ビクトリア・ペドレッティ、シドニー・スウィーニー、ハーレイ・クイン・スミス、キャシディ・ヴィック・ハイス、ダニエル・ハリス、ブルース・ダーン、ロレンツァ・イッツォ、レベッカ・ゲイハート、スクート・マクネイリー、クリフトン・コリンズ・Jr、マルコ・ロドリゲス、スペンサー・ギャレット、クルー・ギャラガー、マーティン・コーヴ、マイケル・マドセン、ジェームズ・レマー、パーラ・ヘイニー=ジャーディン、トム・ハーティグ、オマー・ドゥーム、デビッド・スティーン、ケイト・バーラント、ブレンダ・ヴァッカロ、ダニエラ・ピック、モーリス・コンプト、リュー・テンプル、ヴィンセント・ラレスカ、コーリー・バートン、レイジ・スチュワート、クエンティン・タランティーノ、ウォルトン・ゴギンズ、ジェームズ・マースデン、ティム・ロス、など。

 1969年にハリウッド女優シャロン・テートがカルト集団チャールズ・マンソン・ファミリーに殺害された事件を背景に、ハリウッド映画界を描いた作品なのであります。


 私は元ネタを知らずに観ていたので、「クエンティン・タランティーノ様は程よくいかれた映画をまたしても作ったのだなぁ」と思いながら観ていたのです。
 ハリウッドの様々な業界に敬意と愛を込めながら皮肉も込める。そして程よくいかれている。うむ。良いぞ良いぞ。と思いながら観ていたのです。
 んで、観終わった後に元ネタのことを知って、驚きました。
 元ネタを知ると、この映画の印象がガラッと変わりました。
 物語を作るということはこういうことなのか……。

 面白かったですよ。
 楽しめました。


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人々を結び合わせる全てのものは善であり、美であります。人々を分裂させる全てのものは悪と醜悪であります。

2020年03月18日 12時41分21秒 | その他の日記
 以下の記事は、論座の越智小枝氏の『福島の経験から見る新型コロナ 「議論の二極化」と「報道依存」 分断と不信を煽る極端な主張ばかりがまかり通るのは何故なのか』と題した記事の転載であります。


『福島の経験から見る新型コロナ 「議論の二極化」と「報道依存」
分断と不信を煽る極端な主張ばかりがまかり通るのは何故なのか』



 CoVID-19(新型コロナウイルス)のパンデミックに世界中が立ち向かう中、日本では「有識者」たちが自説を通すために極端な発言ばかりを繰り返している。
 最近の報道を見てそう感じるのは私だけではないだろう。
 そしてその有様に、原子力発電所事故後の福島を連想する方も多いのではないだろうか。
 災害後の福島に多少関わった人間として今私が特に既視感を覚えるのは、CoVID-19に見る「議論の二極化」と「報道依存」だ。

  甲状腺検査に見た「二極化」
 福島第一原子力発電所事故の後に福島県の子どもを対象に行われた甲状腺検査においては、100人余りの子どもが甲状腺がんと診断された。
 この甲状腺がんが放射能の影響によるものかどうか、ということが、専門家たちの間で大論争となったことは、多くの人の記憶に新しいことと思う。

 これは放射線の影響でなく、「スクリーニング効果」(注)のためである、と考える人々は、「だから全例調査をやることが間違いだったのだ」と主張。
 一方、放射能のせいでがんが増えた、と考える人々は、「全例調査をやめようとするのは都合の悪いデータを隠蔽したい政府の陰謀だ」と反論した。
 さらには互いが自分の主張に合った「科学的エビデンス」を持ち出す泥仕合へと発展し、がんと診断された子どもやその家族を置き去りにする結果となった。
 どちらの説が正しかったとしても、そこにはがんと診断された子どもがいる。
 当時本当に必要だったのは、その子どもたち差別を受けず、安心して過ごせる社会をつくることだったのではないだろうか。
  (注)小さながんを症状が出る前に見つけるため、がんの罹患率が高くなったように見える現象

  その対立は必要か
 それと全く同じことが、今のCoVID-19騒動でも起きているように見える。
 特にPCR検査を希望者全員に行うべきか否か、という議論だけが何故ここまで紛糾するのか、端から見ている人間には理解しがたいものもある。
 そこで見られたのは「希望者全員に検査は不要、だから検査を増やす必要はない」という意見に対し「現場で困っている人がいる、だから希望者には平等に検査を受けさせるべき」という不思議な二項対立だ。
 つまり「全員にPCR検査が必要か否か」の議論と、「今現場で検査が足りているか否か」の議論がない混ぜになり、有識者が二極に分かれて互いを論破しようとしているのだ。
 前者は真実検査の足りていない現場を見ようとせず、後者は設備の整わない施設で検査を行うリスクを見ようとしない。
 しかしそもそもその二極化は「今」必要なことなのだろうか。
 どちらの意見が正しかったとしても、必要な検査が現場に十分行き届いていないことは確かだ。
 だからこそ今は重症の方や感染が強く疑われる方を優先的に検査し、気の毒でも他の方は後回しとせざるを得ない。
 しかし同時並行で検査を拡充し、医療者が安全に検査を行えるロジを確立する必要はある。
 その判断のどこにも、「全例検査」の議論が入る余地はないように見える。

  二極論者が排除する過渡的視点
 福島の甲状腺検査を振り返って見た時、一番の問題は、検査を行ったこと自体ではない。
 当時の住民不安の中、検査の是非を議論できる余裕はなかった可能性もあるからだ。
 むしろ検査を行う前に、「多くの人が検査陽性であった時にどうするのか」につき、十分な議論がされていなかったことこそが問題なのではないだろうか。
 もちろんこれは事後だから言えることだろう。
 しかしその学びはCoVID-19対策へつなげるべきではないか。
 CoVID-19検査キットが普及すれば、軽症の陽性患者が大量に発見されることは必至だ。
 どんなに政府が規制しようと、目の前にキットがあり、困っている患者が要れば、その全員に検査を行う医療者は必ず現れるからだ。
 ではそのとき陽性患者を全て病院隔離するのだろうか。
 数の上では病床は余っている、という人もあるが、それは地域格差を無視した計算だ。
 もし医療過疎に悩む地域で集団感染が発生すれば、地域随一の病院が機能不全となり、地域医療の崩壊にすらつながり得るだろう。
 軽症者は自宅待機するのが良い、という意見もある。
 ではその場合、患者やその家族は、差別を受けずに暮らせるのだろうか。
 また行動を制限された患者が買い物弱者とならないよう、支援を受けることはできるのだろうか。
 個人的には、そのような社会のコンセンサスを得るためのリスコミ(リスク・コミュニケーション)は足りていない、と感じている。
 問題は、このような準備不足の中、誰でもできる簡便な検査キットが着々と開発されつつあることだ。
 開発を喜ぶ前に、私たちは準備もできないままに軽症陽性患者が増え得ることに、もっと危機感を覚える必要があるのではないだろうか。

 二極論者たちはこのような「曖昧な」過渡的視点、生活の視点を排除しがちである。
 現行の対策を批判するのであれば、このような正解のない問いへ答える覚悟が必要だろう。

  今は全国が「災害現場」
 私たちは今がパンデミックという「自然災害」の真っただ中にあることをもう少し認識すべきではないであろうか。
 つまり私たち全員が被災者であり、ここは被災地なのだ。
 他人事のように感染者を数値で語り、自説を通すために檄を飛ばす方々は、そのことを忘れていないだろうか。

 災害医療と救急医療の本質的な違いは、資源の不足にある。
 平時の救急外来では、運ばれてきた患者はどんな軽症でも必要な治療が提供される。
 しかし大規模災害の後に傷病者が急増すれば、限られた資源の中で死者を最小限にとどめるために、病院は運ばれて来た患者を「トリアージ」する必要がある。
 それは、重症患者を優先させ、平時であれば治療を施す患者であっても軽症であれば治療しない、という選択だ。

 今、日本という「災害現場」ではCoVID-19という特定の感染症に対して、そのトリアージが行われている。
 つまり国内でPCR検査が不足しているのは陰謀論でもなんでもなく、「それが災害というものだから」、というだけのことだ。
 有事の不足の中でいかに効率よく資源を回し、今後いかに資源を獲得するか。
 今「有識者」が専心すべきことはそれに尽きるのではないか。

  災害対応に正解や二択はない
 また、「他の国が失敗した=自分の国が正しい」「他の国が優れている=自分の国の対応は悪い」という二項化も、災害対策においては無益であろう。
 先行事例を参照することは重要だが、政策はコミュニティの文化に寄り添い、住民の信頼なければむしろ人々の不安と反感を募らせる「災害」に終わるからだ。

 たとえば英国では今回、「熱が出たらまずは自宅待機して、その後は電話対応、その後病院の隔離施設で検査、検査が陰性でも家で再び自己隔離」という対応が推奨されている。
 しかしこれが速やかに実行できるのは、英国では元々、インフルエンザの時にも病院へ行かず自宅で治す、という文化があるからだ。
 日本のように「インフルエンザで休むのに医師の診断書が必要」と言われるような国では、同じ対策を取るためには事前に入念なコミュニケーションが必要だろう。
 
 災害対策・感染症対策は世界の偏差値でみるものではないし、点数を競うゲームでもない。
 内省的に自国の文化と社会システム、経済、資源を眺め、その中でゴールのない「最善」を目指す、そういうものだと思う。

  分断を煽る報道はなぜ起こるのか
 あまりに当たり前のことばかり長々と述べてしまったが、その当たり前がマスメディア、特に映像系メディアに報道されていないのも事実だ。
 では「当たり前」が報道されず、分断と不信を煽る極端な主張ばかりがまかり通るのは何故なのか。
 私は、これは報道側のリテラシー不足だけではないと思っている。
 なぜなら物議を醸す発言の多くが、報道のプロではなく「メディア素人」の「有識者」から発されているからだ。

 メディアに慣れていない普通の人が、テレビに出ると過激な極論を言ってしまう。
 その傾向は、震災後の福島でも度々見られたことだ。
 私はその一因はメディア露出という行為の持つ耽溺性にある、と考えている。

  福島報道が増幅した不幸体験
 福島第一原発事故の後、多くの報道関係者が被災地を訪れ、住民の生の声を報道して回った。
 届かなかった声を聞いてもらえた、そういう喜びの声はあちこちで聞かれたのも確かだ。
 しかし一方で「楽しそうな顔をしているところにはカメラは回らないんだよな」と、皮肉な口調でつぶやかれる方がある程度いたことも印象的であった。

 その後しばらくして、一部の住民の方々に「歪み」が生じるようになった。メディアは不幸しか報道しない、ということが知られるようになり、報道された一部の方々の中に、徐々に大袈裟な表現を用いて過剰に不幸を売る人が出てきたのだ。
 それまで「ちょっと目立ちたがりだけどいい人」であった普通の方が、報道されたいあまりに復興の遅れや放射能への恐怖を誇張し、鼻血が止まらない、傷口がふさがらない、震災後から白血球数が下がり続けている、など、医学的整合性のない訴えすらするようになる。
 それは異様な現象だった。

 「復興ではなく不幸を売るようになった人々」の数は決して多くはない。
 しかし恐ろしいのは、それがごく普通の方の間に起きたこと、そして自分の中にもそのような依存の芽があることだ。


  「報道依存」はなぜ報道されないのか
 依存症とは、特定の何かに心を奪われて、自分や社会に悪影響を及ぼしていてもそれをやめられない状態である。
 医学的には薬物依存を指すことが多いが、ギャンブルやゲームなどの行為も依存症を引き起こすことが知られている。

 メディアへの露出やSNSの「バズり」などは、時に依存症を引き起こし得る快感を伴う気がする。
 その高揚感があるからこそ、SNSはここまで普及したのだろう。
 問題は、それが行き過ぎて病的になってしまう場合、すなわち「その刺激がないといられなくなる」状態だ。
 その病的状態においては、その刺激がなくなる恐怖から、社会への悪影響を顧みず報道受けする極論に執心してしまう可能性もある。
 報道のプロたちは経験からその自制を学んでいる。
 つまりメディアで刺激的な極論を吐く行為は、そのようなトレーニングを積んでいないごく普通の人間にこそ起こり得ることなのではないだろうか。

 しかしこれを公然と指摘ことはとても恥ずかしいことだ。
 なぜならメディア露出の耽溺性を他ならぬメディアで発信することで、それは強烈な自己批判となって返ってくるからだ。
 報道依存があまり議論されないのは、この葛藤も一因ではないかと考えている。

 もちろん福島と同じく、今メディアに出ている有識者の中でもそこまで依存されている方は少数だろう。
 ただ、メディア露出への誘惑に耐えることは、普通の人間にはそれなりに難しいことだ、ということは報道側の方々にも理解していただきたい、と思う。
 報道による「二次被害者」を減らすためにも、報道者はこのリスクを理解していただき、特に耳目の集まる有事には、過剰な報道により報道された方々が過度の依存に陥らぬような気遣いをいただけないか。
 それは少数ながらも「依存症」を目にした者としての願いでもある。

  「一つの真実」を目指して
 二極化と報道依存。
 両者に共通するのは、有名性が公益性に優先される状態だ。
 そしてそれは、災害という有事にあっては最も避けなければならない事態なのではないだろうか。

 有事の発信において必要なことは、社会的責任を負う発信者が、可能な限り〝一つの真実(one version of the truth)〟を追求すること。
 それは言論統制などではなく、災害時の社会不安やパニックを起こさないための最低限のマナーだ。

 もちろん情報の訂正や、体制への適切な批判は必要だろう。
 また、同じ内容を違った言葉で表現することも大切なコミュニケーション手法だ。
 しかしこの国難にあって、個人の主張のために他者を蹴落とすエネルギーは排除できないものだろうか。

 今私たちは、「なるべく多くの方がCoVID-19に罹らず、かつ健康に過ごす」という高い山の頂上を目指している。
 有識者の役割はその山を別ルートから登る人を蹴落とすことではなく、一人でも多くの人が頂上へたどり着けるために橋を架け、道を作ることだ。

 そのような有識者を支援するために、私たち全員の知恵もまた集結する必要がある。
 福島はじめ古今東西の被災地の学びが、社会を牽引する方々に少しでも届けば、と願っている。

                                転載終わり。



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風に髪を梳かれ、おやすみの口づけを。愛を胸に抱いて震えて眠れ。

2020年03月17日 23時39分48秒 | VSの日記
 本日3月17日は、ムンダの戦いでユリウス・カエサルが元老院派の軍を破った日で、クライシュ族率いるメッカとムハンマドを受け入れたメディナがバドルで激突したバドルの戦いがあった日で、イングランド王エドワード3世が長男エドワード黒太子のためにコーンウォール公を創設した日で、フランスの帝政移行でイタリア共和国で大統領ナポレオン・ボナパルトがイタリア王として即位してイタリア王国に移行した日で、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王国の成立を宣言した日で、愛国社第四大会で愛国社を改称して国会期成同盟が成立した日で、ベネルクス3国とイギリス・フランスの間でNATOの前身となるブリュッセル条約が調印された日で、インドのジャワハルラール・ネルー首相が米ソどちらの陣営に属さない非同盟外交の声明を発した日で、カリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグらが98番元素の合成に成功したと発表した日で、「『ポタラ宮やダライ・ラマ14世を爆撃する』と脅した中国共産党人民解放軍がダライ・ラマ14世を誘拐する」という噂が広がって人々が宮殿を取り囲んだチベット蜂起でダライラマ14世テンジン・ギャツォがチベットからインドへ逃れた日(この出来事で約86000人のチベット人が中国人民軍に殺されたとされている)で、ブエノスアイレスのイスラエル大使館で自爆テロ(29人死亡)があった日で、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュによるイラク大統領サッダーム・フセインへの最後通牒演説が行われた日です。

 本日の倉敷は晴れていましたよ。
 最高気温は十四度。最低気温は零度でありました。
 明日は予報では倉敷は晴れのち曇りとなっております。









 或る夜の事。

 狐は体育座りをして隅の方に――殆ど後ろから見た時には洋灯の影になつて闇が如何しても其の本の表を見せまいと思われる所で一心になつて小説を讀み耽つていた。
 狐は今心一杯に小説の中の哀しい懐かしい物語について何時までも耽ることが出来るのだつた。
 さうして自分の現在の全てを幻のように溶かし込んで夢のような息を吐いていた。
 同じ部屋の洋灯の光の中心には狐の友人達が横になつて何かを話していた。
 友人達はその息も聞こえないような狐について考えなかつたし、又、狐もちんちくりんの狐の体によつて作られた闇の中に閉じ込められてしまつたやうに洋灯の光の方に向き合うとも友人達の話に耳を傾けようともしなかつた。

 『おや? 狐はあんな所で本を讀んでいる』
 不意に一人の友人が隅の方に頁を捲る音を聞いて云つた。
 『うん。さうだろう』別の友人が同時に隅の方を見た。『狐は本を讀みだすと何も聞こえなくなるからね。傍で悪口を云つても聞こえない』其の友人は笑つて云つた。
 『其処は暗いよ』とそれからまた声をかけた。
 狐はふと器械的に振り向いた。
 しかし誰れの顔も網膜に映らなかつた。
 只、明るさが眩しく目についたばかりであつた。
 さうして又すぐ狐は暗い哀しい幻につゝまれてしまつた。

   狐は赫い花が欲しいと一生懸命に前から歩いていた。
   しかし狐の歩いてる所にはなんの花も咲いてなくて道の色は白かつた。
   けれどもやがて狐は遠い所に赫い点のやうなものを見つけて急いだ。
   さうして小さなダリヤの花を一本見つけた。
   それで狐は急いで折り取ろうとするとその花は見るうちに驚くほど大きくなって牡丹の花のように崩れてしまつた。
   驚いて手を引くとずつと前にも赫い血の色の花が一杯に連なつて咲いている。
   さうして其れが焔のやうに崩れては燃えてるのだ。
   狐は驚いて茫然としてしまつた。
   すると狐は足元から蒸すやうな熱さを感じて眩暈がするとそのまゝくら/\と倒れてしまつた。

 翌朝。仄かな暁の光と共に狐は独り目覚めた。
 さうして、朝の新しい光に対する歓喜の為に無意識に床の中から片腕を差し伸べて枕際の窓の帷幕を引きあげようとした。
 けれども狐は急に驚いたような不快な表情をして床の中に再び引込んだ。
 さうして直ちに忌まわしい重苦しいだるい気分になつてどうした訳か時々襲われるように羞かしさが狐の髪の先から足の先までをぞつとさせた。
 さうして夜具の中の両足が物に怯えた様に震えた。

 狐の腕に墨で悪戯書きが書いてある。
 『友人達の仕業だ。おのれ』狐はしわがれた声で呟いた。
 僅かに起き上つては見るけれどもいつものやうに着物を着るだけの元気はなかつた。
 狐は讀書に夢中になつて友人達に無防備に体を晒していたことに深い烈しい苦しい恥羞を覚えた。
 さうして無防備な姿を友人達に晒した不覚を愧じ自らの情けなさに怒りを覚え、其の身を憤懣の炎で焦がした。

 狐は、友人達に無防備な姿を晒した遣瀬なさと恥かしさと不安との為に立上ることも出来ずにいた。
 さうして狐の眼は不安に窓の向うの空を見つめたまゝ暫らく震えていた。
 狐は自分の身体をそつと見た。
 さうして何かしら自分の知らないことがあるやうな気がしてならなかつた。


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『動物のお医者さん』第8巻/佐々木倫子

2020年03月17日 20時33分26秒 | 漫画・ゲームに関する日記
 昨日の夜は、佐々木倫子の漫画『動物のお医者さん』の第8巻を読み返していました。
 H大学獣医学部を描いたコメディです。
 何故、今更『動物のお医者さん』の第8巻を読み返していたかと言いますとそこに『動物のお医者さん』の第8巻があったから。それだけであります。

 破天荒なお人が何人か出てくるのですが、安定のローテンションで笑いに繋げていきます。
 面白いですよ。
 お勧めであります。


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閉じる瞳。そこに潜んでいる刹那い答え。体中が痛いのよ。欲望は果てなくて……。

2020年03月17日 10時06分09秒 | 休日の日記
 本日は私はお仕事がお休みの日であります。
 今日も今日とてプライベートでの雑事が大量に山のようにチョモランマの頂の如く聳えたっているのでおそとをぐるぐるぐるぐると廻ってくる予定であります。
 お休みの日ではありますがやらねばならぬことはやらねばなりません。是非も無し。

 嗚呼。私の平安な時は今いずこ? 
 お休みの日なので遊びたいのですが遊び回りたいのですが、雑事は片付けなければなりません。
 ストレスが……。ストレスが溜まる……。ストレスが私を駄目にする……。かもしんない。
 嗚呼。駄目になってしまいたい……。
 此の身を堕として穢れてしまいたい……。
 滅茶苦茶にされたいモードにスイッチが入りそう……。
 ……なのですが、しかし、雑事が大量に待っているのでそうもいきません。
 今日は、お外をぐるぐるぐるぐると廻って雑事をばったばったと片付けていこうと思っております。

 では皆様。
 素敵な火曜日をお過ごしくださいませ。



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普通の触れ方を知らないから戸惑っていたら 触れてくれた手にどれだけ夜をくぐり抜けてもずっと冷めないままの熱が脈を打つ

2020年03月16日 18時17分53秒 | VSの日記
 本日3月16日は、新バビロニア王国がエルサレムを征服した日で、カリグラがローマ皇帝に即位した日で、長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲されて自害した日で、イングランドでオリバー・クロムウェルが軍を率いて長期議会を解散させた日で、スウェーデン王グスタフ3世が銃撃された(3月29日に死亡)日で、ウィレム1世がネーデルラント連合王国の初代国王に即位した日で、世界で最も古いサッカー大会・FAカップの第1回大会の決勝戦が行われた日で、『時事新報』の社説として福沢諭吉の脱亜論が掲載された日で、アーサー・エヴァンズがクレタ島のクノッソス遺跡を発掘した日で、鈴木梅太郎がビタミンB1の抽出に成功した日で、アドルフ・ヒトラーがドイツはヴェルサイユ条約を破棄して再軍備すると宣言した日で、衆議院本会議の国家総動員法案賛成演説で社会大衆党議員の西尾末広が「スターリンの如く大胆に」と発言して他党から問題視されて議員除名が決議された日で、片岡仁左衛門一家殺害事件が起こった日で、徳田要請問題で日本共産党書記長である徳田球一が衆議院の証人喚問を受けた日で、ベトナム戦争でアメリカ軍によるミ・ライ村虐殺事件が起きた日で、イタリアの元首相アルド・モーロが極左テロ組織「赤い旅団」により誘拐(後に殺害される)された日です。

 本日の倉敷は晴れでありましたよ。
 最高気温は十度。最低気温は三度でありました。
 明日も予報では倉敷は晴れとなっております。




 お鍋はぐつぐつ煮える。
 鴨の肉の紅は御師匠様の素早い箸で反される。
 白くなつた方が上になる。
 斜に薄く切られた葱は白い処が段々に黄色くなって褐色の汁の中へ沈む。
 箸の素早い御師匠様は晴着らしい付下げを着ている。
 傍に和柄鞄が置いてある。
 御酒を飲んでは肉を反す。
 肉を反しては御酒を飲む。

 狐は御師匠様に純米の吟醸酒を注いで遣る
 狐の目は断えず御師匠様の顔に注がれている。
 永遠に渇しているような眼である。
 眼の渇きは口の渇きを忘れさせる。
 箸の素早い御師匠様は二三度反した肉の一切れを口に入れる。
 白い歯で旨そうに噬む。
 永遠に渇している眼は動く顎に注がれている。
 白い手拭いを畳んで膝の上に置いて割箸を割つて手に持つて待つている。

 御師匠様が肉を三切れ四切れ食べた頃に、狐は箸を持つた手を伸べて一切れの肉を挟もうとした。
 御師匠様に遠慮がないのではない。
 其れならと云つて御師匠様を憚るとも見えない。
 「待ちなさい。其れは未だ煮えていません」
 狐はおとなしく箸を持つた手を引つ込めて待つ。

 暫くすると、御師匠様の箸は一切れの肉を自分の口に運んだ。
 其れはさつき狐の箸の挟もうとした肉であつた。
 狐の眼は又、御師匠様の顔に注がれた。
 其の眼の中には怨も怒もない。
 ただ驚がある。

 狐は驚きの眼を御師匠様の顔に注いでいる。
 食べてよいとは云つて貰われない。
 もう好い頃だと思つて箸を出すと、其の度毎に「其れは煮えていません」を繰り返される。
 
 驚の眼には怨も怒もない。
 しかし卵から出たばかりの雛に穀物を啄ばませ胎を離れたばかりの赤ん坊を何にでも吸い附かせる生活の本能は、驚の眼の主にも動く。
 狐は箸を鍋から引かなくなつた。

 御師匠様の素早い箸が肉の一切れを口に運ぶ隙に、狐の箸は突然手近い肉の一切れを挟んで口に入れた。
 もうどの肉も好く煮えているのである。
 少し煮え過ぎている位である。

 御師匠様は切れ長の美しい眼で狐の顔をちよいと見た。
 叱りはしないのである。
 只これからは御師匠様の素早い箸が一層素早くなつた。
 代りの生を鍋に運ぶ。
 運んでは返す。
 返しては食べる。
 しかし狐も黙つて箸を動かす。
 驚の眼は或る目的に向つて動く活動の眼になって其れが暫らくも鍋を離れない。
 大きな肉の切れは得られないでも小さい切れは得られる。
 好く煮えたのは得られないでも生煮えなのは得られる。
 肉は得られないでも葱は得られる。葱は美味しい。じゅるり。






 美味しいものは実力で得るべし。
 鍋を食するは知力と速さと胆力の限りを発揮し死力を尽くす闘いである。

 其の夜。狐と御師匠様は死力を尽くし闘い抜いた。
 凄惨なり。相争う者共よ。
 見事な闘いである。
 狐と御師匠様は激闘の末、ふらふらになつて御店を出た。
 そして御互いの健闘を讃えあい、家路についたのだつた。



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『銀の匙 Silver Spoon』第15巻/荒川弘

2020年03月16日 16時25分54秒 | 漫画・ゲームに関する日記
 昨日の夜は、荒川弘の漫画『銀の匙 Silver Spoon』の第15巻を読んでいました。

 中学性の頃は進学校に通っていた八軒勇吾は、受験の為の競争に挫折して担任の先生に勧められるまま大蝦夷農業高校に入学した。
 将来の夢や希望や目標を見いだせないでいる。
 周囲のクラスメイト達は実家が農業をしていることもあって具体的な目標を持っている者が多い。
 八軒は劣等感を感じながら実習や部活で多くの動物達と触れ合うことになる。
 酪農の世界での動物。人と共に歩んできた動物。経済活動の中での動物。
 厳しい現実の中で八軒は自分なりの答えを出そうとする……。

 高校生で会社を立ち上げた八軒は、大川先輩の社長命令により、急遽、大蝦夷畜産大学を受験することになった。
 さらに、会社への融資と経営相談で父親と対峙することになる。
 苦手な父親と仕事の話をしているうちに……。
 そして、遠く離れた土地で夢を叶える為に奮闘している駒場が、八軒に連絡を寄越す。
 駒場が見据える将来とは……。


 『銀の匙 Silver Spoon』完結であります。

 この漫画の主人公のタイプは珍しいと思うのです。
 真面目な優等生タイプ。通常は脇にまわったり主人公と対立する側にまわったり。物語の中で否定されることが多いです。
 そしてお金儲けを否定しないことも珍しいかも。
 夢を現実にするにはどうすればよいか? やりたいことを実現することとは? 八軒は愚直に突き進み悩みもがいていきます。
 近道は存在せず一発逆転の方法論や一攫千金の方法論はありません。
 きちんと勉強し出来ることをやりきる。その姿勢を貫くことで信頼を得る。
 世界に理不尽なことはたくさんある。その理不尽にどのように対応していくか?
 このようなことを漫画で描き切るのも珍しいかも……。

 面白かったですよ。
 楽しめました。
 お勧めであります。

 
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『Dream Fighter』

2020年03月16日 15時18分27秒 | 曲名がタイトルの日記
 昨日の夜は、Perfumeの8thシングル『Dream Fighter』を聴いていました。
 最近、私はテンションが落ちているようなのでテンションが上がる曲が効きたいと思い聴いておりました。
 疾走感溢れる曲であります。

 昨晩は繰り返し聴いておりました。


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土筆(ツクシ)その7。

2020年03月15日 21時24分58秒 | お花に関する日記
 本日3月15日は、ガイウス・ユリウス・カエサルがマルクス・ユニウス・ブルートゥスらに暗殺された日で、『続日本紀』全40巻が完成した日で、ムガル帝国皇帝アクバルが非ヒンドゥー教徒に対する人頭税の徴収を廃止した日で、江戸幕府が外国船に対して飲料水・燃料の給与を認める法令・文化の薪水給与令を出した日で、琵琶湖疏水の第1期工事が竣工した日で、ウッドロウ・ウィルソン米大統領がパンチョ・ビリャ討伐のためにジョン・パーシング将軍指揮下遠征部隊12000人をメキシコに派遣した日で、ロシア皇帝ニコライ2世が退位させられた日で、三・一五事件が起きた日で、ナチス・ドイツがボヘミアやモラビアを占領してチェコスロバキアが消滅した日で、イランで国内のイギリス資本の石油会社を国有化する法案が成立した日で、ミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦初代大統領に就任した日です。

 本日の倉敷は晴れ一時雨でありましたよ。
 最高気温は十一度。最低気温は三度でありました。
 明日は予報では倉敷は晴れとなっております。





 上の写真に写っているのは土筆(ツクシ)です。
 土筆に関しては、2019年3月15日の記事2016年3月24日の記事2015年3月13日の記事2014年3月15日の記事2013年2月21日の記事2010年3月16日の記事2010年2月27日の記事もよろしかったらご覧くださいませ。
 2019年と2016年と2015年と2014年と2013年と2010年の土筆の記事です。

 茹でて和え物や卵とじや煮物や佃煮にすると美味しいです。
 採取するなら、なるべく胞子の飛ぶ前のものを摘んだほうがよいそうです。

 採取時期は三月から四月。
 シーズンに入っているみたいですね。


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「ねえ、落ち着いて考えてご覧よ。今、俺達が何をするべきなのか。其々の持ち場で何かしなくちゃ、何かしよう……、その結果が状況をここまで悪化させた。そうは思わないか?」

2020年03月15日 18時43分44秒 | その他の日記
 以下の文は、木曽崇氏の『コロナウィルスによる「経済死」リスク』と題した記事の転載であります。



     『コロナウィルスによる「経済死」リスク』

 最初に断っておきますが、私は原則自民党支持者ですし、個別論では色々あれど総論としては安倍政権の政策を支持してきた人間です。
 なので、現在の新型コロナに対する政府施策に関しても一部の方々がやっているような「批判の為の批判」をするつもりは毛頭ありません。
 そういう立場を明確にした上で、昨日行われた安倍総理による新型コロナウィルス対策に関する総理会見の内容には全く支持が出来ません。 

   首相記者会見全文(1)「現時点で緊急事態を宣言する状況ではない」 
   https://www.sankei.com/politics/news/200314/plt2003140016-n1.html
   (※記者による変な「アングル」が付けられてる記事を読むくらいなら、是非会見全文を読みましょう)
 
 まずもって、改正新型コロナウイルス感染症特別措置法の成立にあたり、まかり間違って緊急事態宣言なぞが行われなかったことは良かったと思います。
 日本政府が取った施策が効果を得ており、現在の世界各国でのウィルス拡散と比べると日本のそれが比較的緩慢なものとなっているという発表も朗報ではありましょう。 
 ただね、現在の日本の施策が効果を得ていることは寧ろ「当たり前のこと」であって、そうあって貰わなければ困る話なんですよ。 
 テレビに出て来る「自称専門家」の方々は別として、今回の新型コロナ騒動に際して発される感染症の専門家の方々の情報発信を注意深く見ていると、政府専門家会議の公式情報も含めて実は常に感染被害拡大を防止する為の公衆衛生の保持と経済社会活動の成立の両方が大事ですよっというメッセージが常に発されています。
 例えば、2月25日に政府専門家会議から発された「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」を見ると現時点での対策として; 
  ・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模を抑える。 
  ・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。 
  ・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。 
 という目標が明確に定められており、例えば国内の各種イベント開催に関しても
  イベント等の開催について、現時点で全国一律の自粛要請を行うものではないが、専門家会議からの見解も踏まえ、地域や企業に対して、イベント等を主催する際には、感染拡大防止の観点から、感染の広がり、会場の状況等を踏まえ、開催の必要性を改めて検討するよう要請する。 
 という非常に抑制的な表現が使われているし、どこからか急に降ってわいてきて安倍総理が「政治的リーダーシップ」で急に決定した全国学校の一斉休校なんて専門家会議ではそもそもその必要性自体がビタイチ論議されていないわけです。 

  【参考】学校休校は専門家会議「完全スルー」で決まった、社会不安を生みかねない 
  岡部信彦・新型コロナウイルス感染症対策専門家会議委員・川崎市健康安全研究所長インタビュー 
  https://diamond.jp/articles/-/230489

 要は、政府専門家会議の公式情報も含めて、「本当の専門家」の人達というのは実は常に公衆衛生と経済社会活動のバランスが重要ですよってメッセージを発しているのであって、それを極端な政策論に落とし込むのは妙な「リーダーシップ」をアピールしたい政治であったり、それをオモシロオカシク報じたいマスコミであったりでしかないわけです。 
 逆に言うのならば、今回安倍政権は専門家が「社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる」ことを目的としてあえて抑制的に示していた政策方針のラインを踏み越えて、「政治的なリーダーシップ」でより厳格な、逆に言うと社会経済的にはインパクトが大きな施策を選択したわけですから、その施策がウィルス対策として効果を得ていることは寧ろ「当たり前のこと」であって、そうあって貰わなければ困る話わけですよ。 
 一方で冒頭ご紹介した総理会見の評価に戻りますが、前半部分の施策による効果のアピールは良しとして、後半部分の社会・経済への影響緩和に関する施策部分が驚くほど内容がない。

 以下、安倍総理の会見発言の原文; 
 「われわれはしっかりと雇用を守り抜き、成長軌道に、確かな成長軌道に戻していかなければならないわけでありまして、何をすべきか、何をすべきかということについてはですね、こうした提言も踏まえながら、そして世界経済の動向を注意深く見極めて、さまざまな可能性を想定しながら、今後必要かつ十分な経済財政政策を間髪を入れずに講じていきたいと、こう考えております」 

 「雇用を守り抜きー」とか「成長軌道に戻しー」は良いですけど、それ以下は具体的な内容はおろか、それら検討のタイムラインすらなんら示されていないですね。 
 また最優先事項として我々民間に対して「雇用の維持と事業の継続」を政府は求めており、事業継続と雇用維持の為、休業補償や中小企業向けの無利子・無担保融資などを利用して「なんとかこの場をしのげ」と要請をしているワケですが; 

  中小企業に無利子・無担保融資 臨時休校、保護者の休職中給与補償―安倍首相 
  https://www.jiji.com/jc/article?k=2020030700524&g=pol

 この種の休業補償や特別融資制度は地震や水害など、これまでの様々な自然災害においても普通に設定されてきたものであって、正直、完全に想像の範囲内の通常施策です。
 繰り返しになりますが、今回総理は専門家会議が「社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる」ことも念頭に置きながらあえて抑制的に示していた政策方針のラインを踏み越えて、より強力な新型コロナの封じ込め施策を「政治的リーダーシップ」をもって選択したわけですから、逆にそこから発生する経済・社会的なダメージコントロールに関しても強力な「政治的リーダーシップ」を発揮して頂かなければウソですよ。
 私は今回の総理会見の中で、そういうメッセージを探して注意深く一言一句に聞き耳を立てていたのですが、大変申し訳ないですがその種のメッセージは一切含まれていなかったです。
 
 そもそも、いち中小企業の経営者、そして今最も経済的な痛みを受けている夜の産業および観光産業の専門研究者として申し上げますが、総理は「無担保・無利子の融資制度を用意したのでそれでこの急場をしのげ」と言いますが、今回の総理会見も含めてなんら政府側の施策のタイムラインが示されていない中で、この先1カ月続くのか2カ月続くのか、はたまた半年1年続くのかも判らない毎月の営業赤字を補填する為に借金なんかできる経営者がどれほど居ると思ってるのでしょうか? 

 いや、私は別に「いつコロナ被害が明けるのか?」なんて回答不能な情報を求めているワケでは無いんですよ。
 ただ、各経営者に借入金で何とか急場をしのげと要請する一方で、判断材料が何一つ提供されてないなかで人って借金できるんでしたっけ?ってことを言ってるワケです。
 今後政府はどういうスケジュールでどういうタスクを積み上げて行くのか。
 そして、どういう基準にまで至ったら今の全国的な自粛要請は解除され得るのか。
 何でもいいから「何か」ヒントとなる情報が提供されないと、経営者は借入金でしのぐべきか、それとも早めにギブして「飛ぶ」べきかの判断すらできないでしょう?と。

 企業経営の為に借金なんてビタイチしたことのない政治家と官僚と研究者が、空想のなかで対策を練っているからこんな頓珍漢なメッセージが出て来るのですよ。
 そんな事も判ってない人達が「地域と現場の声を聞きながら対策を講じて行きたい」などとキレイな旗ばっかり振ってれば、それを聞いてるこちらは憎悪こそ湧けども、そこに希望なんて湧いてきませんよ。 

 繰り返しになりますが今回総理は専門家会議があえて抑制的に示していた政策方針のラインを踏み越えて、より強力な新型コロナの封じ込め施策を「政治的リーダーシップ」をもって選択したわけですから、逆にそこから発生する経済・社会的なダメージコントロールに関しても強力な「政治的リーダーシップ」を発揮して頂かなければならない。 
 これより政府は4月に向けて経済対策の策定を急ぐとの事ですが、残念ながら今国側から与えられている情報や施策では正直、各事業者がそれら対策が講じられるまで借入金でしのぐべきか、それとも早めにギブして「飛ぶ」べきかの判断材料すらも一切与えられていない。
 今、各事業経営者が迫られている判断に必要な情報は、将来的、数か月後に発動される経済対策に関する情報というよりは、今日、明日の経営判断をする為の情報ですから、まずもってそちらの補強をお願いしたい。
 「いつウィルス被害が明けるのか」なんていう不確定な情報は要りません。
 政府がこれからどういうタイムスケジュールで何を積み上げて行くのか、今決まってる事をより具体的にしっかりと伝達をお願いしたい。
 今回の総理会見の様な勇ましい口上ばかりで、中身が何もないメッセージをどれだけ積み重ねられても、先に何も決まってないのであれば直ぐに「飛ぶ」判断を各経営者がするだけでしょう。 

 あ、ちなみにここでいう「飛ぶ」は、事業を「飛ばす」の意と併せて、経営者自身が物理的にビルから「飛び降りる」の意まで含んでいます。

 関係各所の皆様方におかれましては、少なくとも私が専門として目が届く範囲の夜の産業、および観光産業は、そのくらい切羽詰まってると思って頂きたいです。


                                 転載終わり。






 マスメディアが真っ先にパニックに陥ってまともに取材をせず恐怖を煽りデマを拡散させている状態なら何をやっても無駄となります。
 私は今回の政府の処置は、真っ先にパニックに陥ったマスメディアの連中に冷や水をぶっかける作用も期待していた、と解釈しています。
 感染症対策には、デマを払拭も大きなテーマとなるからです。
 ようやく、一部のマスメディアは冷静さを取り戻しつつあります。
 日本の社会はマスメディアによって大きな被害を受けました。
 日本政府は早急に大規模な経済対策案をまとめて実行に移して欲しいです。
 動きが止まれば経済悪化は深刻化します。
 一度止まったものを再び動かすには莫大なエネルギーが必要となります。
 大規模な経済対策案が必要です。
 日本政府は早急に大規模な経済対策案をまとめて実行に移して欲しいです。



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『イミテーション・ガール』

2020年03月15日 14時18分56秒 | 映画・ドラマに関する日記
 昨日の夜は、映画『イミテーション・ガール』のDVDを観ていました。

 砂漠に謎の物体が宇宙から飛来して墜落する。
 現場から流れ出た黒い液体は、たまたまそこに落ちていた雑誌のモデルの女性を参考にして人間の女性へと変身した。
 その人間に変身した黒い物体は、ある青年に保護される。
 その青年との生活で、人間に変身した黒い物体は、参考にした雑誌のモデルの女性に興味を持ち……。

 監督は、ナターシャ・ケルマーニー。
 出演者は、ローレン・アシュリー・カーター、マーシャ・ステファニー・ブレイク、アダム・デビッド・トンプソン、など。
 SF映画であります。



 う~む。
 84分の映画なのですが、本来ならばこの84分を20分程度に圧縮して第1幕とすべきなのです。
 つまり、この映画のラストの直前から本格的に物語が始まる、という形にすべきなのです。
 この映画は、主人公の状況を説明しているだけで終わっているのです。
 状況を変える為に主人公の行動が変化する、ということはありません。
 否応なく状況が激変してしまったので主人公はこれまでの行動を変えざるを得ない、ということもありません。
 主人公の悩みを描いているだけなのです。
 葛藤や選択や決断は描いていません。
 そして、実は異星人が登場する意味がこの映画では無いのです。
 異星人が主人公に大きな影響を及ぼす、というわけではないのです(その前にこの映画の物語は終わってしまいます)。
 なので、結論が無い……。
 自堕落故の転落していく人生を描いているわけでもない……。
 う~む。
 お悩み相談コーナーで誰かのお悩みだけを延々と聞かされたかのような……。

 「描きたいものにもっと向き合ってお話を描いた方が良かったんじゃね? 描きたかったものに向き合え切れずに物語を作ってしまったから、安易に流れてSF要素を入れて誤魔化したんじゃね?」と思ってしまった映画でありました。
 このネタなら色々と面白く膨らませられることが出来たのになぁ。
 残念であります。


 
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地獄は善意で敷き詰められている。

2020年03月15日 12時34分15秒 | その他の日記
 以下の文は、論座の唐木英明(東京大学名誉教授、公益財団法人「食の安全・安心財団」理事長)氏の『新型コロナ「収束のカギ」にぎる集団免疫とはなにか メルケル首相が語った「全人口の60~70%が感染する」の本当の意味』と題した記事の転載であります。




       『新型コロナ「収束のカギ」にぎる集団免疫とはなにか メルケル首相が語った「全人口の60~70%が感染する」の本当の意味』

 3月14日現在、新型コロナの感染は世界の110カ国に広がり、感染者は12万人、死者は4700人を超えている。
 政府は国民に外出の自粛、休校、そしてスポーツ・文化イベントの自粛を要請したが、その社会的影響は大きく、市民生活も経済も大きく混乱している。
 新型コロナ問題はいつまで続き、どのような形で収束するのだろうか。

 この見通しを考える上で欠かせないのが、「集団免疫」についての正しい理解である。
 集団免疫とはなにか。
 政府の対策の根拠である専門家会議の見解や各国の状況をよみときながら、そこに登場する集団免疫の考え方やしくみについて検討し、新型コロナ対策の今後を考えてみたい。

  専門家会議の見解と安倍政権の判断のズレ

 新型コロナウイルス感染症への対策を検討するため、安倍首相は第一線の研究者を構成員とする専門家会議(座長=脇田隆字・国立感染症研究所長)を設置。
 専門家会議は2月24日、「ここ1~2週間が、急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際となる」との見通しを発表していた。
 この「2週間後」にあたる3月9日、専門家会議が開かれ、次のような見解を示した。
  1. 現在は爆発的な感染拡大には進んでおらず、一定程度、持ちこたえている。 しかし、感染者数は、当面、増加傾向が続くと予想されるので、依然として警戒を緩めることはできない。
  2. 北海道で2月28日に出された「緊急事態宣言」の効果については、3月19日ごろに公表する。
  3. 今後、国内での急速な感染拡大を抑制できたとしても、世界的な流行が進んでいることから、国外から感染が持ち込まれる事例も、繰り返されるものと予想される。
 要するに、2週間様子を見た結果、爆発的な感染拡大には進まなかったのだ。
 少なくともこれで医療崩壊が起こるような状況が避けられたことは明らかである。
 そうであれば、所期の目的を達成したのであり、社会的な混乱の急速な拡大を避けることも考えて、自粛をそろそろ緩和してもいいと考えられる。
 ところが、政府はそうはしなかった。
 専門家会議の見解を受けて、安倍首相は自粛をさらに10日間継続することを国民に要請し、選抜高校野球大会も中止が決まった。

 ここに専門家会議の見解と首相の判断の間に食い違いが見られる。
 専門家会議は、北海道知事が2月28日に出した緊急事態宣言の効果判定は2週間後の3月19日になると報告したのであって、全国の状況については「爆発的な感染拡大には進まなかった」という結論を出している。
 全国的な自粛を10日間延長する明確な根拠はないのだ。
 だが14日の記者会見でも、首相は改めて自粛の継続を国民に求めた。
 それでは、どのような状況になったら自粛を解除するのだろうか。
 感染者の増加はいつピークを迎えて、減少に転ずるのだろうか。

  ウイルスと免疫——集団免疫とはなにか

 ここで注目されるべきなのが、専門家会議が示した「集団免疫」という考え方だ。
 専門家会議は、2月24日に「今後1~2週間が瀬戸際」との見通しを示した後、1週間後の3月2日にも開かれ、集団免疫について言及している。
 ほとんど報道されなかったが、会議が表明した見解のなかに、次のような重要な一節があった。

 「感染症のなかには、大多数の人々が感染することによって、感染の連鎖が断ち切られ、感染していない人を保護する仕組みが機能できるものもあります」。
 これが集団免疫だ。

 ウイルスに感染しないためには免疫が必要である。
 現在の世界は、新型コロナウイルスに対して免疫を持たない人たちの集団だ。
 だから、ウイルスは自由に感染を広げている。
 感染を止める対策の第1は、感染者を全て発見し、隔離することだ。
 しかし、世界中に広がってしまった新型コロナには、この方法はもはや使えない。
 人の動きを止めることで収束に近づいている中国も、規制を解除すれば再び感染が増加する可能性が高い。
 2番目の方法は、ワクチン接種により全員が免疫を得ることだ。
 しかし、ワクチンは開発中で、1~2年後には実用化すると考えられるが、それまではワクチンなしで事態を乗り切らなくてはならない。
 そこで出てくるのが、3月2日の専門家会議が示した「集団免疫」だ。
 ウイルスに感染し、治癒した人は免疫を獲得して、少なくともある期間は再び感染することはない。
 新型コロナウイルスについては、60~80%の人が感染して免疫を獲得すれば、それ以上の感染はなくなると考えられている。
 逆に言えば、現在の状況では、国民の60~80%が感染する可能性があり、そうなったときに感染が終わることになる。
 そんなことを言ったらパニックが起こるという意見もあった。
 しかし、それを明言したのがドイツと英国だ。

  ドイツと英国、そして日本の状況

 3月12日、ドイツのメルケル首相が、「治療法が見つからなければ、ドイツの全人口の60~70%が新型コロナウイルスに感染する恐れがある」と語ったことが報道された。
 それは、まさにこの事実を述べているのだ。
 ちなみに「治療法」とはワクチンを意味する。
 英国のジョンソン首相も同じ日、科学顧問とともに記者会見を行い、英国内でもすでに5000〜1万人が感染している可能性があり、感染を止めるのは不可能な状況になったので、今後は感染の急速な拡大による医療崩壊が起こらないように注意しながら、集団免疫を獲得する方針であることを明らかにした。

 メルケル首相は物理学の博士号を持ち、英国政府は科学顧問ポストを設置して科学アカデミーと強く連携している。
 ドイツと英国が、いち早く科学的根拠を取り入れた新型コロナ対策を実施したのは、そのような背景によるものと考えられる。
 では日本はどうか。
 14日の記者会見で首相は今後の見通しについて語ることはなかった。
 日本が置かれている状況は、ドイツや英国とほとんど変わらない。
 少し違うのは、休校など、極めて厳重な対策を取っているため、感染者の増加は他国に比べてずっと緩やかなことだ。
 しかしそれは国民にとってメリットがあるのだろうか。
 目に見えるメリットは、今年はインフルエンザとノロウイルスの感染者が少ないことで、それは厳重な対策の副産物といえる。
 では新型コロナ対策としてはどうだろうか。

  日本がたどる道を示す

 新型コロナ騒動は、集団免疫を得るまでは終わらない。
 そうであれば、厳しい対策により感染者をゼロに近づけようと努力するのではなく、ドイツや英国に倣つて、医療崩壊を起こさないように注意しながら、ある程度の感染を容認して、集団免疫を得ることを考えるべきではないだろうか。
 そんなことをしたら死亡者が増える、という反対がある。
 しかし、感染の速度に関わらず、感染者が国民の最低60%にならないと新型コロナ問題は終わらないのだ。
 重症者の治療法を早期に確立して、死亡率を低下させることが最重要の課題である。
 ウイルスが変化する可能性も考えられている。
 新型コロナウイルスにはL型とS型の2種類がある。
 L型に感染しても軽い症状で済むが、S型では重症化する。
 生物学的に言えば、重症化するウイルスは消えてしまい、軽症のウイルスが残るはずである。
 それは、重症化した人は病院に隔離して治療され、ウイルスは消えるが、軽症の人は感染に気が付かず、病院に行かないから、他人を感染させてウイルスが広がるのである。
 現在は感染者の約8割が軽症だが、今後、その割合が増える可能性があるのだ。

 もちろん、今後、ワクチンが開発されれば、集団免疫を得るまでの時間は短縮されるだろう。
 それまでは感染者の増加を極力抑えて持ちこたえようという意見もある。
 どの意見を採用するのかを考えるときに大事なことは、「リスク最適化」である。
 リスクの専門家が言うリスク最適化とは、感染者の増加を緩やかにするメリットと、それを実現するための対策によってどれだけの個人的・社会的・経済的な被害が出るのかを勘案して、リスクの総計を最も小さくする対策をとることである。
 いわば「感染による損害」と「感染対策による損害」のバランス設計だ。
 私たちは、将来の見通しが示されないことに最も大きな不安を抱く。
 どのような対策をとれば、いつごろまでに集団免疫を獲得して、新型コロナ問題が終わるという見通しを政府が示すことで、たとえそれは困難な道であっても、何もわからない現在よりずっと明るい希望が生まれるのではないだろうか。

                               転載終わり。



 インフルエンザで死亡する人の数に比べて新型コロナウイルスで死亡する人の数は圧倒的に少ない。
 その意味では新型コロナウイルスは感染症としては脅威度はかなり低い。
 しかし、ここまでマスメディアが馬鹿騒ぎをしてデマを拡散させてまともな情報を流さず恐怖を煽り人々を混乱させパニック状態に陥れたならば、パニックに陥った人達が医療の現場を崩壊させる可能性がある。そうなれば死ぬ人が爆発的に増えてしまう。
 そしてパニックに陥った人達が社会を壊す行動に出てしまう……。
 安心を求める人達が安全を壊す……。
 人々がパニックにさえならなければ、日本の医療は持ちこたえる力を十二分に持っています。

 このパニックを抑えつつ医療の現場の崩壊を防ぎながら時間稼ぎをしてワクチンの開発を待つ。ワクチンの開発が成功すれば、人々のパニックは収まる可能性が高い。
 現在、感染者数の増加や死亡者数の増加を抑えている国は、この方針を取っています。
 人々がパニックになることの方が恐ろしいのです。
 パニックが拡大していけば大勢の人が死ぬのです。

 しかし、ここまで騒ぎが大きくなったならば、新型コロナウイルスで死ぬ人よりもはるかに大勢の人がマスメディアの馬鹿騒ぎのせいで死ぬことになります。
 もはやこれは止めることができません。
 経済が悪化すれば人は簡単に死にます。
 今の状態は、如何に死ぬ人の数を減らしていくかの撤退戦です。

 今回もマスメディアはデマを拡散させ恐怖を煽り人々を混乱させてパニック状態に陥れました。
 その所為で多くの人が死ぬことになります。
 このようなことはマスメディアは繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し何度も何度も何度も何度も行っていきました。
 今回も同じことが起こりました。
 マスメディアは人を簡単に殺すことができる。
 そのことをマスメディアは全く理解していません。
 マスメディアは、マスメディアの力を使えば善意であっても人を殺すことができるということを全く理解していません。

 残念です。


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今が大好きだって躊躇などしないで言える。そんな風に日々を刻んでいこう。どんな場所にいても。

2020年03月14日 22時51分46秒 | 季節の御挨拶
 本日3月14日は、漢の捕虜となった西晋の皇帝・懐帝が漢の皇帝・劉聡により処刑された日で、アメリカで金本位制を採用した金本位法が公布された日で、国会で片岡直温大蔵大臣が東京渡辺銀行が倒産したと失言して昭和金融恐慌のきっかけとなった日で、ナチス・ドイツによってチェコスロバキアが解体されてスロバキアが独立宣言した日で、内ゲバを繰り返していた新左翼の中核派と革マル派の抗争で中核派の最高幹部で書記長の本多延嘉が自宅アパートで就寝中に革マル派のメンバー十数人に鉄パイプ等で全身を滅多打ちにされて殺害された日で、ベトナムが統治していた南沙諸島・赤瓜礁を中華人民共和国が攻撃して赤瓜礁と永暑礁と華陽礁と東門礁と南薫礁と渚碧礁を軍事占領して奪って統治下とした日で、薬害エイズ事件でミドリ十字が責任認めて謝罪した日で、中華人民共和国が反分裂国家法を制定した日です。

 本日の倉敷は曇り時々雨でありました。
 最高気温は十二度。最低気温は八度でありました。
 明日も予報では倉敷は曇りのち晴れとなっております。




 倉敷川の親水公園から南に植えられている河津桜達はお花を咲かせております。綺麗でありますよ。
 目白と鳩と椋鳥はお花の蜜を狙って三つ巴の抗争をしております。
 「ほけきょ?」の者が現れたら春は本番。
 もうすぐ。
 もうすぐ春本番でありますよ。
 ちょっと気取ってみませんか?
 ちょっと浮かれてみませんか?
 春なのですから。


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戦争は、今は宣戦布告による国家間の統制の取れた戦いではなく、パニックによって起こる終わりの無い戦いになっている。それだけに今、試されているのは、何をなすべきかでなく何をなすべきでないかを決める力です。

2020年03月14日 19時03分13秒 | その他の日記
 以下の文は、ニューズウィーク日本版の小幡 績氏の『安心ばかりを求める社会は滅亡する』と題した記事の転載であります。



   『安心ばかりを求める社会は滅亡する』


 <ひたすら安心を追い求め、そのためにリスクを過小評価したりその反動で過大評価する非合理的な行動は、人類を滅亡させかねない。歴史と行動経済学は教えている>

 新型コロナ肺炎騒ぎは、世界中のものとなった。
 欧米の人々は、中国、韓国、日本のものだと傍観していた。
 あるいは、日本の愚かさをせせら笑っていた人もいたし、正義感か商売なのか、日本の対応の拙さを徹底批判していたメディアも多かった。
 しかし、そのウイルスが、自分たちの身の回りに飛び火した途端、うろたえ、日本の愚かさと少なくとも同じ程度に愚かにパニックになっている。

 彼らの愚かさを批判するつもりはない。
 当初はリスクに対して過少反応、その微小なリスクを自分の都合に合わせてゼロと解釈し、次にその微小をゼロと無視し続けられなくなった瞬間に、その微小確率を異常に過大評価するのは、金融市場でも日常生活でも日常茶飯事だし、とりわけ、金融危機や災害などの危機のときにはパニックとなり、それが何十倍ものひずみとなって、拡大された愚かさとして社会に現れるのは、人類の歴史そのものでもある。

 そうなのだ。これで人類は滅びる可能性がある。
 大袈裟に聞こえるだろうが、そうでもない。
 千年タームで考えれば可能性は十分にあり、少なくとも無視するべき微小確率ではなく、確実にあり得る可能性だ。
 なぜか。

  安心ばかり求めるコスト
 
 人々は安心を求めている。
 危機に直面したときはなおさらである。
 その恐怖感を打ち消し、そこから開放されるためならどんなコストも省みない。
 それは現実逃避のときもあるし、過剰反応でまったく必要のない撲滅運動に発展するときもある。
 魔女狩りなどと物騒な言葉を使うまでもなく、異常な抗菌趣味で抗菌消しゴムまでが流行る日本であるから、これは日常茶飯事だ。
 津波が襲った後は、巨大な防潮堤作りに必死となり、津波以外の災害に対する対応が手薄になる。
 放射能に怯える余り、科学的に十分安全だった除染の基準を無駄に引き下げ、除染した土の持って行き場に困り、無駄に金を使い、結果どこも安全にならない。
 子供たちは、必要以上に屋内に閉じ込められ、精神的な安定性を失い、バランスからすれば被害は拡大した。
 農作物や魚の風評被害についてはいうまでもなく、僅かな安心を得るために、不必要に避けることにより、多くの地域の農業を苦しめた。

 そして、今回のコロナウイルス騒ぎである。
 コロナリスクを減らすために、手洗いうがいを徹底することは、普通の風邪やインフルエンザにも効くし社会的に明らかにプラスだが(昨年以前にもやっていればインフルエンザで死ぬお年寄りがどれだけ減っていたことだろう)、必要のないマスクを世界中で人々が口に当てたり、そのマスクを求めて騒動が起きたり、あるいは無関係なトイレットペーパーを買うためにエネルギーを浪費したり、ぐらいのことなら滑稽ですむ。

 だが、経済活動を不必要に自粛して、経済的に停滞し、その停滞からの苦痛を回避するために政治家や中央銀行がカネをばら撒いて、ウイルス騒動が治まったときに、大きな無駄遣いに気づくなど、世界経済、世界社会を停滞させてしまうことは笑い話では済まされないし、他の医療や介護、教育など、社会インフラに使えた金を無駄な自粛による経済縮小対策としての浪費、ばら撒きにつかってしまうのは、今に始まったことではないが、あまりに愚か過ぎる。

 しかし、今日、私が言っているのは、もっと深刻な問題だ。
 日本人は安心が大好きだ。安全よりも安心を優先させる。
 皮肉をこめて言えば、原発事故以前の原発に対する不安を解消するために、事故が起きたときのシナリオ、対策などの議論を封印して、議論をする必要もないとかりそめの安心を得ることによって、安全を失った。
 これは政治側、行政側に責任があることは間違いがないが、政治、行政に議論をさせない雰囲気を作り上げたのは、国民、社会の側である。

  危険に対する思考停止
 
 だから私は、安心は無駄だ、安全のためにカネとエネルギーを使え、安心は無視しろ、と主張してきた。
 安心を得るために人々は経済的に非合理な行動をする、というのは行動経済学の理論モデルの一つの核だ。
 しかし、さらに大きな問題がある。
 安心を得ようとするのは無駄だが、現実には、人間社会では、人々は合理的でなく、個人よりも社会という集団になるとさらに非合理的な結論、行動に至る。
 これは群集社会学でも明らかだ。
 したがって、これは無駄だといっても現実として受け止めるしかない。
 問題はその先だ。
 人々が安心を得る。社会として安心な社会になる。そうするとどうなるか。
 人々はリスクに対する思考を停止する。
 考えなくて済む、というのが人々の求めている「安心感」であり、一方、常に考えて、頭と感覚を研ぎ澄ませて、リスクが近寄ってきていないか警戒し続けるのが、動物の本能による「安全対策」である。
 ゴルゴ13以外は、日本人だけでなく全人類が今やこれを忘れてしまっている。
 動物であることを失っている。
 動物としての能力が喪失している。
 それが安心ということなのだから、仕方がない。
 しかし、それでは、リスクを察知できず、リスクが実現したときに対応ができず、ただパニックになる。
 個人でもそうなら、社会的判断、政治的意思決定の歪みがさらに拡大している現在、社会は大パニックになる。

 つまり、安心を求め続けた社会は、思考停止社会となり、鈍感社会となり、世の中、世界、あるいは宇宙に起きるリスクに対する感度がなくなり、対応策も準備せず、いざそのリスクが実現したときには、破滅する可能性が高まるのだ。

 現在の新型コロナウイルスの危機は、確かに危機だ。
 しかし、絶望的な危機でもなく、頻繁に起こる、歴史的には普通の、定型的な危機だ。
 この定型的な普通の危機に対し、全世界で、社会的にパニックになっているようでは、本当に予期せぬ危機が来たときに、我々の社会は滅亡してしまうだろう。
 コロナウイルス危機以外の危機は、今、この瞬間にも世界に溢れている。
 紛争の危機、貧困の危機、虐待の危機、あらゆる危機、しかも本質的で解決にエネルギーと知恵とカネのいる危機をおっぽり出して、目先のささいな危機に、パニックから逃避し、安心を得るためだけに世界中のエネルギーを集中するのはどうかしている。
 だから、我々の社会は滅亡の危機にあると私は考えるのである。

                                  転載終わり。


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悪いけれど葡萄酒ならば自分の口唇ダイレクトで。洋杯よりも其の御口に注いで戴きたいのだもの。

2020年03月14日 15時39分01秒 | VSの日記
 或る夜の事。

 狐は先輩と一緒に或るパブリック・ハウスのカウンター席に腰をかけて、絶えずミルクを舐めてゐた。
 狐は以前に友人に「愛しの人に媚びを売りたいのだけれども如何したらよいものか?」と質問されて返答に困ったことを思い出し、如何答えればよいのか経験豊富な先輩に尋ねてみた。
 「愛しの人に媚びを売りたい?」
 先輩は頬杖をした儘、極めて無造作に私に呟いた。
 「ならば取敢えずは愛しのお方の前で猫耳をつけるがよい」
 猫耳???
 「媚びを売るならばいつそのことあざと過ぎるくらい媚びを売つたほうがよい。猫耳をつけて媚びを売つて売つてて売りまくるのだ。バニーちゃんでもよい」
 バニーちゃん……。
 「要は相手を萌えさせて燃えさせればよいのだ。恥じらいつつ恥を捨てよ」
 恥じらいつつ恥を捨てる……。
 「愛しのお方に媚びを売るのならば捨て身でなければならぬ。突貫せよ」
 捨て身……。突貫……。

 因みに猫耳とかバニーちゃんの衣装とか何処で手に入るのですか? と狐は先輩に尋ねました。
 すると先輩は目を綺羅綺羅と輝かせて「ん? 実物を見てみたいかね? 着てみたいかね? 私は持つているぞ」と答えました。
 持つているんですか! 何でそんな物を持つているのですか?
 「勿論、まいすい~とはに~に媚びを売る為だ!」
 ……。左様でございますか。
 「私の部屋に來れば猫耳とかバニーちゃんの衣装とか他にも色々あるぞ。今から私の部屋においで」
 ……。否です。
 「君の猫耳姿とかバニーちゃん姿が見たい! おいでよ」
 ……。否です。先輩は男女を問わず襲いかかる人です。怖いです。
 「大丈夫。怖くない怖くない。一寸だけ一寸だけだから。ね? ね?」
 ……。否です。私は先輩に美味しくいただかれたくはありません。先輩の部屋に行けば私はぺろりと食べられてしまいます。此の身を先輩にだけは穢されたくはありません。
 「襲わないから。何もしないから。猫耳姿を見せてくれるだけでよいから」
 ……。否です。私は先輩に媚びを売りたいわけではないのですから。
 「大丈夫。萌えても燃えても襲わないから。一寸だけ一寸だけだから。ね? ね?」
 ……。否です。先輩は襲う気満々です。先輩の部屋に行けば私は先輩に美味しくいただかれてしまいます。絶対に否です。それに先輩に媚びを売るなど絶対に厭です。あり得ません。唾棄すべき行為です。
 「では私が着るから。私がバニーちゃんの衣装を着るから」
 だから私は先輩に萌えたいとか燃えたいとか思つていないのですから。否です。もし、先輩に萌えて燃えてしまったならばそれは我が一生の不覚。その恥を雪ぐには喉を突いて自害して果てねばなりません。
 「むぅ」


 先輩はお喋りを止めて考え込んだ。
 狐の言葉は先輩の心を知らない世界へ神々に近い世界へと解放したのかもしれない。
 狐はウオッカを注文し、割賦の中でミルクと混ぜ合わせて、それを舐め続けた。
 先輩は言つた。「いけず。私のことが好きなくせに」

 狐は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。
 人の欲望とは、様々なものであるな。面白ひものだ。





 そのパブリック・ハウスは極小さかつた。
 しかしパンの神の額の下には赫い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。


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