conscience

my diary

昨日のあれこれ

2021年01月29日 | 日記
 昨日は、スシローに行って昼食(テーブル席に座ったが、真向いのカウンター席の二人連れの客が大声で会話していたのが不快、これでは、飛沫感染するかもしれない)。その帰りにケーズ電機でオーブントースターを買った(閉店セールとなっていたが、その割には値引きはそれほどでもない)。電気屋でテレビやパソコンなどを見ていると、時代の流れから取り残されているのではとの恐れを感じた。しかし、ここ20年くらい前からすると、画面が4k化などで綺麗になっただけで、家電の本質的な機能には変化が無いように思う。バブル崩壊後の停滞の時代のせいか。

 年末調整や血圧の薬をもらいに病院に行かなければと思いつつも、つい、後延ばしにしてしまう。妻も、最近は出不精になって、夜は朝の3時過ぎまでテレビを見ていて、10時過ぎぐらいまで寝ていて、それから近くのイオンまで歩いて買い物に行くのが日課となっている。ポケモンゴーを未だにしていて、1日に6千歩程度は歩いているそうだが、太り気味の腹を見ていると、私も人の事は言えないと思いつつも、運動不足であると心配してしまう。

 ところで、この所、よく夢を見る。今朝見た夢は、元の職場のロッカーに食べ物を置いていたが、そのロッカーが何処だったかわからなくなってしまい右往左往している夢だった。呆けかかっているという前兆だろうか。元の職場では、闇金被害者からの相談が良くあったが、最近のニュースでも、給与ファクタリングなどと称するものがあるそうだが、手口名などが変わっても質的なものは変わっていないと思う。昔と少し違うのは、手口が少しソフトになっていることかもわからないが悪質性には変化はない。昔は、借金苦で追い詰められて強盗に入った人もいたし、家を差し押さえられて自宅に放火して死んでしまった人もいた。今は、コロナ禍のせいで、非正規で働いていた人達やシングルママなどが苦境にあると思う。しかし、「明けない夜はない」と思い頑張って欲しい。松任谷由美に「ファイト」という歌があるが、聞いていると涙が出てくる。

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After night comes the day

2021年01月28日 | 日記
 私の知らない間、26日から27日の朝にかけて徳島東環状線の橋桁仮設工事が行われたようだ。世の中がコロナ禍で沈鬱な状態にあっても、日々の暮らしは少しづつ変化し続けている。
 安倍・菅等のどうしようもない政策によって、コロナウイルスが全国に拡散し、本県でも、毎日数人から数十人の新規陽性確認者が出ている。最初は、県外の人や県外に出かけた人から感染者が出て、それが介護施設などに持ち込まれ、高校などでのクラスターも発生したが、毎日、経路不明者も数人出るようになっているので、既に市中感染の初期段階に入ったのかもしれない。しかし、明けない夜はない。専門家被りを装った人の中には、「感染が拡大して集団免疫が出来るまで待っていろ」と馬鹿げたことをいう人や、未だに、「コロナは風邪の強いものだから過剰に心配するな」という人もいる。若者の大部分は、感染しても重体にならないと思い、マスクもせずに外出したり、大騒ぎをしている者もいる。しかし、感染者のうち、かなりの割合の人が後遺症に苦しんでいたり、コロナ禍がもたらす経済的打撃が回りまわって日本全体が不況になって、アルバイトを首になつたり、就職先がなくなったり、財政赤字が若者世代に負担させられたリと、全ての世代で人ごとではなくなりつつある。このように考えていると沈みがちになるが、本当の危機の時期にこそ、冗談の一つも言って笑っていたいものだ。


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カレーが好きだ

2021年01月26日 | 日記
 カレーは子供の時から大好きだ。60年近く前、我が家で食卓に肉が上るのは、すき焼きか、カレーの時で、私が小学生の時は月に数回程度だった。それが、少しすると、偏食であった私が好きだというせいもあって、母が何週間に一度、鳥肉の入ったカレーを作ってくれるようになった。父は、そんなカレーは嫌いであったように思う。自宅以外でカレーを食べたのは、小学校の時の修学旅行でドライブインに立ち寄った時であった。福神漬けは、その時始めて食べた。

 今は、ココイチなどでもカレーは食べるし、インドカレーのレストランにも行く。ただし、自宅でカレーを作ると、食べ過ぎてしまうのが困ったことだと思う。インスタントでレンジでチンとするカレーも食べるが、未だに思い出すのは、母が作ってくれたカレーの味だ。
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ボッチの思い出

2021年01月26日 | 日記
 ふと、高校時代のことを思い出した。ホームルームの時だったか、ある女子が全員の前で、私の事を「何を考えているのかわからない。」というような発言をした。それに対して、私は何も反論しなかった。まるで、教室の中にいても自分が存在していないかに振舞っていた。教師から全員参加の校則があると言われてもクラブ活動に参加せず、美術の授業でも、宿題となっていたスケッチを最後まで提出しようとしなかったし、授業でサッカーをしても、偶々私の所に来たボールは必ずラインの外に蹴りだしていた。他の生徒にすれば、何を考えているのか判らない不気味な存在であったかもしれない。
 小学生の時から、人と接する、人の気持ちを察するということが苦手で、仲間の輪の中に入って行けず、独りぼっちの生活が続いた。それは、今に至っても尾を引いている。家庭が貧しく、両親が私達子供に対して独善的に接していて、甘やかす割には、独りで何かの役割をさせるということをさせなかったのに原因があるのかとも思うこともあったが、今となっては、全てが私の責任であるというしかない。
 昨今のコロナ禍では、人と接することに感染のリスクがあるとされている。人と触れ合いたい、人と遊びたいと思い、このコロナ禍でもそれに耐えきれない人も多い。しかし、私にとっては、人と接さないことに左程の苦痛はない。それが良い事なのかどうか、人は社会的生き物であると言うが、それなら、群れから仲間外れになった人間には生存していく権利はないのか。余りにも理不尽であったという思い出も多い。
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命あれば くらげも骨に会う

2021年01月25日 | 日記
 命の大切さは言うまでもない。人間の自己意識というものは、単に神経や脳に流れる電気信号を、あたかも意識が存在すると錯覚しているに過ぎないという説もあるが、しかし、それにしても、一人の身体の中には、何億個もの細胞やバクテリアなどがあって、それで奇跡的に命というものが成り立っていると考えると、人は自分の命というものを仇や疎かには出来ないと考えるべきだ。また、将来、コンピューターに人の意識を移し替えたり、コンピューター自身が意識を持つような時代が来たとしても、今、現在生きている個々の人間という存在の貴重さが、それで損なわれるということではない。
 しかし、また、その人間の生命は何とも儚いものでもある。新型コロナウイルスに罹患しても、高等国民である某議員や某横綱などは、大した症状がなくても入院させてもらえるのに対して、下等の大多数の国民は、熱があって息苦しいとしても、医師でもない単なる保健所職員の判断によって、入院もさせてもらえず、毎日、何人もの人達が死んでいくという悲惨な状態にある。これが果たして先進国と言えるのか、また、例え、病院に行っても、入院を拒否されたり、治療もしてもらえないということになると、医師法に反していないというよりも、一人の医師としての良心が痛まないものだろうか。こんな日本という国では、一方では、未だに美容整形などのコマーシャルが流されている。そこにも、医師や看護師の有資格者がいるではないのか。彼らには、コロナで苦しんでいる人は関係ないのか。
 70歳定年制の議論があるが、人は、誰しも老いる存在であり、稀には90歳になっても記憶や判断力がしっかりしている人もいるが、それは、何百万人に一人であり、ガース首相や2F氏が、それにあたると言うことではない。彼らは、感染症で損なわれる国民の生命よりも経済が優先であるとして、gotoを推進した。言うことにこと欠いて「gotoに感染を拡大させたエビデンスはない」と言い切った。誰が考えても、ウイルスは人間が運ぶものであり、そんなことは学者に聞かなくても常識だろう。それを専門家会議などを隠れ蓑にして、良くも言い切ったものだ。
 そんな自己利益だけを考えて居る政権与党幹部には失望してやまないが、かといって枝野氏を筆頭にする野党にも、政権担当能力があると思えない。先日、伊東潤氏の「走狗」という小説を読んだ。明治維新や西南戦争で活躍して日本警察の創設者となった川路大警視をモデルにした小説で、明治初期の権力抗争という面も描かれていて、その点では、少しデフォルメ化されている部分もあると思ったが、例えそうだったとしても、近代国家を作り上げるという点で、明治期の政権幹部には、それぞれの間で理想というものがあって行動していたのではないかと強く思った。それに対して、今の日本政府の在り方はどうだろうか。観光協会会長か何か知らないが、観光業者の為になら、国民の安全がどうなっても良いのか。それに忖度する政府・官僚も何だろうか。呆れて物も言えない。
 国民も国民だ。gotoで感染を拡大した政治家、入院治療を拒否して自己の利益のみを考えている一部の医療機関、与党のあらさがしに奔走し政権担当の意欲を見せない野党議員達、もう、いい加減に目を覚ませよ。ワクチンも期待された効果もないなら、河野であろが、小泉であろが、小池であろうが、与党・野党問わず、政治家全てに不信任を突きつけるべきだ。
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