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my diary

大晦日 コロナ忘れて 大はしゃぎ

2021年12月31日 | 日記
 新型コロナウイルスもオミクロン株に変異し世界的に感染者数が増加しつつある中で、年末年始を故郷で過ごそうという人の数はコロナ前に復しつつあるという。お目出度いというべきか、怖さ知らずというべきか、子供にも感染しやすいという変異株が流行りつつあるのに、スーパーなどは子連れの人で満員だ。テレビをつければお笑などの年末年始の番組だらけでうんざりする。かといって、高齢者はうかつに外出した時のコロナ感染リスクが怖い。
 選挙対策なのか、はたまたコロナ対策なのか、政府は、大胆なバラマキ財政で歳出を増大させているが、子どもが減っていく5倍近いスピードで高齢者が増えている現実があり、出生率の減少だけではなく非婚化も進み、人口減少が急速に進む社会では、現役世代が高齢者等を支えるという社会福祉制度の限界がすぐそこに見えてきている。
 更に、最近、全国で相次ぐ地震活動は、南海トラフ巨大地震などの大災害が近づいている気配を強く感じさせる。台湾有事が日本に及ぼす安全保障危機も懸念されるが、戦後77年間、平和に慣れて親しんで来た日本人にとって、自然災害はともかく、戦争危機などは遠い世界のことになってしまっている。しかし、いざ、そのような事態が発生すれば、日本中で、流通がストップし、物資が欠乏し、多くの人命が失われることが普通になるという悲惨な事態になる可能性がある。これは、自己利益しか考えない政治家に政治を委ねて来た我々の責任でもあるし、平和憲法の名の元、米国に安全保障を丸投げにしてきた戦後政治のつけであるとも言えるだろう。
 労働人口の減少については、70年代には既に予測されていたことであるが、日本は、人件費の安い中国などに余りにも安易に生産拠点を移し、国内での3k職場などには研修生の名目で外国から低賃金労働者を招き入れ、日系人の派遣労働者も増加させた。その為、国内でのサラリーマンの賃金は、過去30年間大部分の業種で増加しないことになった。アベノミクスなどは、経済統計の誤魔化しであって、購買力平価では、日本は、台湾、韓国などの下の33位に落ちてしまっているのが現実ではないか。女性労働者の増加にしても、非正規労働者の増加につながってきたが、経営者は、あくまで非正規労働者を正規社員の雇用の調整弁としか見ていない。我が国では、大部分の人々がサラリーマン化してしまった結果、益々、お上の方針に逆らおうという人が少なくなり、企業内労働組合は経営と一体化して、本来の機能を喪失してしまった。
 ここに至って、我が日本は、世襲政治家の指導の元、老害国家、衰退国家となりつつあり、農林水産業などの担い手も減少した上、経済的には、先進国の地位さえ失おうとしている。これに対して、学歴社会で選別されたエリート達は、その責任を果たすことなく、自己保身に走り、海外へ移住しようとする人も増えている。こんな日本に誰がしたのだろうか。
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年末

2021年12月29日 | 日記
 昨日で、我が家の大行事である大掃除がほぼ終了した。後は、来年のカレンダーを買うとか台所の換気扇のフィルターを交換する位だ。ここ数日は、寒さを感じることが多い。我が県は南国なので、夏は蒸し暑く、冬も暖かい日が多いが、このところは炬燵の中に入り込んで寒さに震えている。玄関の結露も多くなってきて、朝は、結露の拭き取りが日課となっている。
 予想通り、オミクロン株が大都市圏を中心に感染拡大しつつあり、年末年始の移動期を迎えて更に広がりそうだ。オミクロン株の症状が軽いとか、飲み薬が出来ているとかの安心材料があり、それに加えて、ワクチン効果への過度の期待、二年間の自粛期間に疲れたと言い張る人もいて、政府も国民に伝わるような明確な警告をしないこともあり、年末年始における流行拡大が懸念されている。学者によれば、国民の5割近くが感染する可能性があるという。100年前のスペイン風邪では、全国での患者数が2,300万人、死者が38万人とのことだが、もしかすると、この新型コロナでも、そこまでいかなければ流行が収まらないかもしれないと思う。ワクチンのブースター接種が効果があるとのことだが、例によって、政府の動きは遅鈍であり、ワクチンの供給量にも限りがあるという。この二年間、巨額の予算を費やしながら政府は何をしていたのだろうか。世界の笑いもののアベノマスクを全国民向けに配るくらいなら、もっと何らかの手立てがあるはずだったと思うが、縦割り行政、厚労族の既得権、国民の危機感の希薄さもあって、この体たらくだ。やたらに危機を煽るな、それよりも経済が大事だという声もあるが、感染を早期に収束させることが経済対策上でもっとも効果があるということにどうして気づけないのだろうか。
 日本は、世界でも有数の学歴社会となり、学歴格差が貧富等の格差となっているが、近年目立ってきたのは、そのエリート達の自己中心的脆弱さという気がしてならない。しかし、コロナ後の社会は、学歴での評価ではなく、文字通り実力での評価が尊重され、終身、一つの職場に留まるのではなく、多様な価値観から流動性の高い社会となると推測される。その際、重要なのは、本当の意味でのライフワークバランスであろう。封建的な家制度に捉われるという時代は昭和で終わったし、恋愛や結婚も、場合によっては自らの性別選択も自由であるという方向に進みつつある。自分がどう生きたいのかが益々問われる時代となってきているが、私に関しては、アラウンド古希であり、為るべくは、楽で楽しい生き方をしたいとしか思っていない。来年も、南海トラフ大地震が来ないように、新型コロナ感染症に罹患しないように、健康で何事もなく過ごしたいものだ。
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今更の社交不安障害(Social Anxiety Disorder)か?

2021年12月27日 | 日記
 私は、幼い時から内弁慶と親に良く言われていて、近隣に出来た保育所に一年通ったが、保育所では、給食で出されたオカズなどには手を付けられなくて醤油をご飯にかけて食べるなど変わった子供として保母さんにも認識されていたらしい。幼友達はいたが、小学校に入学してからクラスメイトと馴染むことが出来ず休み時間などは独りで過ごすことが多かった。また、音楽の時間、一人で歌うことを要求されても、人に聞き取れないような小さな声でしか発音できなかった。また、中・高とクラブ活動にも参加せず、特に高校では、何かのクラブ活動に加入するようにと担任から指導されても自分一人だけしなかった。高校でも、孤独癖のある特異な人間としてクラスメートから見られていたことだったろう。某私立大学に進学はしたが、そこでも友達は一人も出来ず、ついに、不登校となり除籍されるに至った。そもそも、そこまでになると、人と付き合うこと自体が億劫であり怖かった。
 父から、職安に行って就職先を見つけるように叱られ、職安で紹介された某会社に入社し、派遣のような形で関連工場で三か月程働いていたが、父親に公務員試験を受験するように言われ、補欠の補欠のような形であったが、幸いにも公務員に採用された。職場での最初の挨拶も出来かねるような私であったが、それから約40年、与えられた仕事を自分なりに懸命に勤めて定年となった。そんな私は、今でも人前で話をすることが苦手で極度に緊張もする。大学の卒業資格は定年前に放送大学に入学して、約十年間で三回のコースを卒業して取得することが出来た。放送大学では心理学の科目も何科目か選択したが、それでも、自分自身に向き合うことを避けていたが、最近になって、自分はどういう人間だったのだろうかということを良く考えたり、深層心理的に、あえて避けていたと思う子供の時の記憶を思い出すことも多くなった。そんな時、私は、社交不安障害の子供であったし、今も、それから完全には抜けきっていないことに気づくようになった。
 重度の社交不安障害(Social Anxiety Disorder )の場合、ひきこもりのようになったり、そういう子供が絵の才能に優れていたりということも聞いたりするが、私には特に優れた能力は無い。それどころか、音楽、技工、運動など、手先を使ったり機敏さを必要とする能力は人に劣っていると自覚している。かといって、記憶力や判断力にも優れた点は無い。高齢になってからは、ただでさえ無い能力が益々欠けてきつつある。考えて見ると、よく40年も勤められたものだ。
 最近、特に思うのは、機敏さや、忍耐強さ、勇気などは、スポーツと関係があり、子供の時に適切な時期に適切なスポーツをすることは、これらの能力を高めるだけではなく、勉強や、大人になって仕事に就いても、その経験が大きく影響するのだろう。私は、水泳ですら、大人になって30歳を超えてから一人でプールに行って、初歩の水泳の本を見て、自己流で出来るようになった。そもそも小学生の時は学校にプールは無かったし、高校でもきちんと基礎を教わったという記憶が無い。今にして思えば、水泳などは、子供の時にやっていたら楽しかったのになあと後悔している。学校スポーツなどは、優れた能力を持った生徒を優先し、能力に劣った生徒を平均にまでしようという気がそもそもない。運動などは、適切な指導さえあれば、出来ない子供と雖も、そこそこにまではなると思う。しかし、今のスポーツでは、その視点が根本的に欠けていると思う。だから、私は、エリートの祭典としてオリンピックは見る気もしなかった。これは、僻み・嫉妬なんだろうか。パラリンピックにしても、障害があるが優れた能力のある選手を育てるだけで、平均以下の人がスポーツに親しむ契機となっているのだろうかと疑問を持っている。私は間違っているのだろうか。
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早暁の 寒さ堪えて 青空市

2021年12月26日 | 日記
 寒い朝なのに、薄暗いうちからボーリング場の駐車場にトラックや自家用車が多く駐車し、自転車で来る人も多く、荷台を開けたトラックの周辺で何か品物を売っているようだ。桃太郎旗が駐車場の入り口にたててあり、青空市と書かれていた。見ると、大根などの野菜や櫁などを買った人が自分の車に積み込んでいる。年末のせいかスーパーなどにも人出が多くなっているが、スーパーで売っている物は、野菜にしても果物にしても去年よりも高い値段がついている。お年寄りなどが青空市に集うのは、少しでも値段の安い物を手に入れようとしてのことだろう。物価が高騰しつつあるのに、年金などは減少しつつある。子供に10万円をばら撒いて、国の財政赤字は積みあがるばかりで、経済成長には繋がりそうもない。
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幸せな幻想で思考停止

2021年12月24日 | 日記
① 昔と同じ感覚での公費を浪費
 北海道で再度の冬季オリンピックを企図する人達や、大阪万博やIR事業を推し進めている人達には辟易する。そもそも、この国の公務員や政治家達は、予算をつけて、それを消費することを持って自らの実績としようとする癖がある。それが過ぎて、小さなイベントを企画するにしても、予算付けをするのは良いが、それをイベント会社に丸投げしようとする。小さなイベントであれば、ボランティアを動員するとか自らが働くとかして、予算の使用を最小限にすべきであるが、公務員の定員削減もあって、公務員自らが汗を流して行おうという意図が初めからないことが多い。大きなイベントにおいては、そのイベントをすることが目的化し、例えば、先の東京オリンピックに莫大な公費を費やして、その反省もない。先のオリンピックに費用対効果がいかほどあっただろうか。疑問だ。万博にしても、IR誘致にしても、冬季オリンピック誘致にしても、半世紀も前の発想である。既に、我が国では、十分すぎるくらいのインフラは存在し、半世紀前にオリンピック等が目指した、そのイベントを開催することによる公共インフラの整備等の効果は減少している。コロナ禍がなくても、観客も、昔ほどは来ない可能性もある。それだけの巨額の予算があるなら、今の我が国の抱えている課題解決の為にこそ使うべきだ。
② 台湾有事
 中国が台湾に侵攻した場合、台湾だけのことで済まないというのは軍事的な常識ではなかろうか。侵攻に先立って在日米軍基地も彼らの攻撃対象となるだろうし、台湾から避難する人達の受け入れ先の問題もある。香港のようには台湾はならないだろうし、大量の流血の惨事になることは明白ではなかろうか。それでも、中国共産党首脳部が敢て台湾に侵攻する決断をするだろうかという疑問はあるが、専制国家である中国は、ヒトラーやスターリンのような思考回路を持っているのかもしれない。これに対して、台湾有事の時には米軍は勿論出動するだろうし、在日米軍基地等が攻撃された場合に黙ってはいないだろう。当に、日本全土が戦時下に置かれることとなる(沖縄や南西諸島だけの話では無い)。それだけのリスクがあるのであり、それが嫌なら、我が国も中国共産党のしもべになるしかないだろう。しかし、そうなった場合、今までの経済的な繁栄はあり得ないし、自由に発言することも出来ないし、マスコミやSNSは統制下に置かれるだろう。それなのに、アベノマスク氏は後先を考えずに勇ましい事ばかり言うし、野党やマスコミも、未だに非現実的な平和主義に凝り固まって思考停止状態にある。我が国がこれからも存立してゆく場合に何が重要かは、硬直した平和志向のみでは語れないし、軍事的な観点だけでは述べることは出来ない。
③ コロナ・オミクロン株流行に対する備え
 年末を迎えて、多くの海外在住の人達の帰国ラッシュとなっている。その人達の中でコロナ陽性者の数がかなりいるし、検疫の時に陰性でも、数日後に陽性となって発熱等の症状を持つ人も多くいる。それに加えて、在日米軍関係者が検疫無しに来日しているという問題もあり、国内でのオミクロン株流入は、時間の問題であったかもしれない。現に、大阪や京都で市中感染者が発見されており、大都市圏を中心に、既にオミクロン株の流行が始まったと言えるだろう。それが、年末年始の人流の盛んな時期に、これから、どれだけ全国的に流行するかは、目に見えるような気もする。第五波を超える大流行が起こり得る可能性もある。しかし、これに対する政府の国民に対する明確な警告が無いせいもあって飲食店やスーパーなどへの人出は、コロナ前の様相に近づいているようでもある。我が国民の能天気さにも呆れるところがある。
 これらの非常事態が本当に起こった時、戦時中に焼夷弾などが落とされた時や食料も満足になかった窮乏生活を知っている人が少なくなっている現状で、どれだけの人が生き残っていけるのだろうか。今こそ、政府や国会議員は、国民に対して、起こりうるかもしれない事態について説明するとともに、我々も、何が本当に大切にすべきかを考えて見る必要があると思う。
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