一昨日は風呂の掃除、その前の日は寝室、今日はリビングの掃除の予定だ。年末のみに大掃除をしても、17年経過すると、新築マンションの部屋もかなり傷みがきて、もう少し年月が経つとどうしようもなくなるのではないかと不安が残る。かといって、妻も含めて60歳を超えてくると、今更転居を考えるのも煩わしく感じる。
飯能市の事件については、徐々に詳しい状況の報道がされるようになってきた。容疑者は、映画製作者を目指していたが、何らかの理由で挫折したこと。母親と姉と同居していたが、容疑者のDVの為なのか母親と姉は家を出て行ったこと。被害者宅に執拗な迷惑行為をしていて、器物損壊で被害届を出されていたこと。このような多くの例と同じく、警察の容疑者への警告や被害者への防犯的なアドバイスは結果として効果がなかったこと。結局、警察は無力で、被害者も危険を感じたら、自ら転居するなどしなければ身の安全を守れないのが我が国の現状なんだろう。
前にも書いたが、孤独対策が必要だ。我が国では、男性の生涯未婚率は三割となっていて、離婚経験者も含めると孤独者の割合いは年を追うごとに高くなっている。それに加え、未だに、標準家庭幻想があり、過度な競争社会でもあって、脱落者は何らかの劣等感に苛まれがちではなかろうか。しかし、政治家などは、この危機的な状況に全く目を向けてはいない。マスコミも、このような事件が起こっても、被害者側の視点では記事にするが、加害者の置かれている孤独の深刻さを理解しようとはしない。
震災後、「絆」という言葉が取って付けたように一種の流行となってきたが、「絆」を強調しなければならないような殺伐とした世の中になってきたということではなかろうか。都会化した社会は、ただ人を消耗しつくし、人の心から温かみや思いやりということを遠ざけてしまう。人の人生には失敗がつきものであるが、どんな人であってもリベンジ可能な世の中であって欲しい。昔の人はたくましくて、生活力に満ちていたが、世の中自体も、ある種の肝要さや緩さというものがあったのではなかろうか。ところが、今の格差社会の厳しさはどうだろうか。若者が、一度、非正規やアルバイト生活に落ちてしまうと、生涯賃金でも数千万円どころか、場合によっては億の位の収入格差がついてしまう。しかも、この格差は、世代間で継承されがちでもある。東大生の何割に貧困家庭出身者がいるだろうか。おそらく、極めて少数か、全くいないのではなかろうか。そんな社会で良いのだろうか。