最近、DX(デジタルトランスフォーメーションの略)という言葉を聞く。こんな言葉を聞くと、またぞろ、エリート層が、横文字を知ったかぶりで並べ立てて高尚な言葉振りで庶民を愚弄するいつもの手口かと疑っていた。
経済産業省の定義を引用すると「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること。」を指し、DX化とは、DXになった状態、つまりデジタルを用いて競争上の優位性を確率した状態を指す造語だそうな。なんでも、「2025年の崖」と呼ばれる問題があり、それは、複雑化・老朽化・ブラックボックス化した既存システムが残存した場合に想定される国際競争への遅れや我が国の経済の停滞などを指す言葉で、2025年までに予想されるIT人材の引退やサポート終了などによるリスクの高まりなどがこの停滞を引き起こすとされているらしい。
私は、前期高齢者なので、そう言われても正直に言うと良くわからない。そう言えば、2000年問題というものがあった。昔書かれたプログラミングは、年号を2桁の数字で表していて、紀元2000年になると、そのプログラムで動いているコンピューター上で不具合が生じる恐れがあるということで、官庁の一部の部署では泊まり込みまでして問題の発生に備えたこともあった。(しかし、結局、大した問題は発生しなかったし、今となっては笑い話の一つだ。)私も、一時、コボルなどのプログラミング言語の基礎を学んだことがあって、そんな言語で書かれたプログラムで動いているシステムは、最近のシステムに置き換える時に大変な作業を必要とするということも聞いた事がある。或は、2025年問題とは、そんなことをいうのだろうかとも想像する。
ともあれ、本来、IT化とは、これまでアナログな方法で進めていた業務をデジタルに置き換えていくことを指すのに対して、DX化は「目的」であり、IT化はDX化を果たすための「手段」になるそうだ。すなわち、DX化するということは、IT化が、既存プロセスの生産性を向上させるものものに対してDXは、プロセス自体を変化させ、単に「作業時間が減る」「●●の作成プロセスを自動化する」などの分かりやすい変化ではなく、「顧客との接客方法がデジタルを通じて根本的に運用が変わる」「物流の配送計画をデジタルを用いて確認プロセスが抜本的に変わる」など、会社全体に関わるようなドラスティックな変化であるのが特徴とのこと。
例えば、これを中国政府が取っている国民の管理方法と考えると、全国民の個人識別を可能にし、誰が、何時、どのような行動を取っているかを瞬時に当局が把握し、その人のSNSや行動履歴を結びつけることによって、思想傾向や金銭的なものも含む生活状況まで把握しようということも、DXの一つであると言えるのではなかろうか。もし、それが完全になされるとすれば、ジョージ・オーエルが描いた、小説「1984」のような権力による完全な監視社会が実現するとともに、そのような社会となると、権力者側は、「我が国は、コンピュータを活用した共産主義社会の実現の一歩を踏み出した。」と主張するかもわからない。
しかし、覇権主義を伴う一極集中型の権威社会の怖さは、現在のロシア・プーチン政権による蛮行や、中国共産主義政権の拡張主義の怖さにも通じるものがあるかもしれない。これらの国で権力を持った者は、国民を厳格な監視下に置くとともに、まるで19世紀の帝国主義の時代のように、巧妙なプロパガンダなどを駆使したハイブリッド戦を行い、対外的な侵略行動にも出かねないのではなかろうか。
私は、行政や企業が、合理的・効率的な手段としてDX化を進めることに反対するものではないが、そうする場合は、透明性の確保と、一部の者が恣意的に自らだけの利益を獲得する為の手段として使用出来ないように、新たな法規制と、中立的な立場による監視システム、国民からの異議申し立てシステムが必要不可欠であると言いたい。
未来に待ち受けているものが、DXによる人間の奴隷化であってはならない。むしろ、DXは、教育の場などで使われると、それぞれの特性に合わせたカスタマイズ教育を可能にするし、人がそれぞれの能力を伸ばし、自由で生甲斐のある人生を送ることの出来る為のツールであって欲しい。