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my diary

DXについて、馬鹿な考察

2022年06月30日 | 日記
 最近、DX(デジタルトランスフォーメーションの略)という言葉を聞く。こんな言葉を聞くと、またぞろ、エリート層が、横文字を知ったかぶりで並べ立てて高尚な言葉振りで庶民を愚弄するいつもの手口かと疑っていた。
 経済産業省の定義を引用すると「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること。」を指し、DX化とは、DXになった状態、つまりデジタルを用いて競争上の優位性を確率した状態を指す造語だそうな。なんでも、「2025年の崖」と呼ばれる問題があり、それは、複雑化・老朽化・ブラックボックス化した既存システムが残存した場合に想定される国際競争への遅れや我が国の経済の停滞などを指す言葉で、2025年までに予想されるIT人材の引退やサポート終了などによるリスクの高まりなどがこの停滞を引き起こすとされているらしい。
 私は、前期高齢者なので、そう言われても正直に言うと良くわからない。そう言えば、2000年問題というものがあった。昔書かれたプログラミングは、年号を2桁の数字で表していて、紀元2000年になると、そのプログラムで動いているコンピューター上で不具合が生じる恐れがあるということで、官庁の一部の部署では泊まり込みまでして問題の発生に備えたこともあった。(しかし、結局、大した問題は発生しなかったし、今となっては笑い話の一つだ。)私も、一時、コボルなどのプログラミング言語の基礎を学んだことがあって、そんな言語で書かれたプログラムで動いているシステムは、最近のシステムに置き換える時に大変な作業を必要とするということも聞いた事がある。或は、2025年問題とは、そんなことをいうのだろうかとも想像する。
 ともあれ、本来、IT化とは、これまでアナログな方法で進めていた業務をデジタルに置き換えていくことを指すのに対して、DX化は「目的」であり、IT化はDX化を果たすための「手段」になるそうだ。すなわち、DX化するということは、IT化が、既存プロセスの生産性を向上させるものものに対してDXは、プロセス自体を変化させ、単に「作業時間が減る」「●●の作成プロセスを自動化する」などの分かりやすい変化ではなく、「顧客との接客方法がデジタルを通じて根本的に運用が変わる」「物流の配送計画をデジタルを用いて確認プロセスが抜本的に変わる」など、会社全体に関わるようなドラスティックな変化であるのが特徴とのこと。
 例えば、これを中国政府が取っている国民の管理方法と考えると、全国民の個人識別を可能にし、誰が、何時、どのような行動を取っているかを瞬時に当局が把握し、その人のSNSや行動履歴を結びつけることによって、思想傾向や金銭的なものも含む生活状況まで把握しようということも、DXの一つであると言えるのではなかろうか。もし、それが完全になされるとすれば、ジョージ・オーエルが描いた、小説「1984」のような権力による完全な監視社会が実現するとともに、そのような社会となると、権力者側は、「我が国は、コンピュータを活用した共産主義社会の実現の一歩を踏み出した。」と主張するかもわからない。
 しかし、覇権主義を伴う一極集中型の権威社会の怖さは、現在のロシア・プーチン政権による蛮行や、中国共産主義政権の拡張主義の怖さにも通じるものがあるかもしれない。これらの国で権力を持った者は、国民を厳格な監視下に置くとともに、まるで19世紀の帝国主義の時代のように、巧妙なプロパガンダなどを駆使したハイブリッド戦を行い、対外的な侵略行動にも出かねないのではなかろうか。
 私は、行政や企業が、合理的・効率的な手段としてDX化を進めることに反対するものではないが、そうする場合は、透明性の確保と、一部の者が恣意的に自らだけの利益を獲得する為の手段として使用出来ないように、新たな法規制と、中立的な立場による監視システム、国民からの異議申し立てシステムが必要不可欠であると言いたい。
 未来に待ち受けているものが、DXによる人間の奴隷化であってはならない。むしろ、DXは、教育の場などで使われると、それぞれの特性に合わせたカスタマイズ教育を可能にするし、人がそれぞれの能力を伸ばし、自由で生甲斐のある人生を送ることの出来る為のツールであって欲しい。
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覆われる

2022年06月29日 | 日記
 梅雨明けの暑さで日中の散歩は少し厳しいことから、このところは明け方の4時過ぎに散歩しているが、川沿いの遊歩道で、つる性の草に覆われかけている街灯を見かけたので面白いと思い写真に撮った。人から見れば、何のことのない光景かもしれないが、私には面白く見える。また、ある事務所の庭先から甘い匂いのする橙色の花を見かけた。それもスマホで写して、家に帰ってからネットで調べると、見た目は、ノウゼンカズラに似ていると思ったが、ノウゼンカズラには匂いはないと書かれている。もしかすると、クチナシの木にノウゼンカズラが巻き付いていたのかとも思ったが、定かではない。
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チャレンジ(challenge)

2022年06月28日 | 日記
 ふと思ったが、どんな境遇にあっても、どんな環境にあっても、チャレンジする自由はそれぞれの人にある。例え、私のようにaround古希の年齢であっても遅くてチャレンジ出来ないということは無いのではなかろうか。チャレンジするのは個人の権利。しかし、身体に無理が効かなくなっているのも事実だし、失敗することも多々あるだろう。しかし、年だからダメとか、能力が無いからダメというのは主観に過ぎないのではなかろうか。
 
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コロナは本当に収まったのか?

2022年06月27日 | 日記
 コロナ禍が、恰もまるで収まっていきつつあるかのように世間は振舞いつつあり、野球場やイベント会場などは盛況を取り戻しつつあるし、旅行業者からはパック旅行などの広告物が毎日のように郵送されてきている。しかし、本当に収まりつつあるんだろうか。オミクロン株は感染力が強い割には軽症化しつつあるということも本当なんだろうか。2020年から続き、感染研等の専門家と称する連中は、様々なことを述べて来たが、本当に信頼がおけるのだろうか。彼らが話したことが全て当たっていたんだろうか。
 人口動態調査では、昨年から全国の死者数が増加していることが明らかになっているが、コロナでの死者数として発表されている数字は、今までで3万1千人余りしかいない。したがって、死者数の急増は、コロナ以外で亡くなっている人も増加しているとしか思えない。一説によると、コロナ禍での医療機関等への受診控えなどによるのではないかとのことだが、どうも釈然としない。例えば、知らないうちにコロナに感染していて、その後遺症が遠因となって持病が悪化した結果ではなかろうかと想像する。何しろ、我が国の政府は、コロナに対する十分な検査体制を確保出来ず、コロナ後遺症の実態調査も十分に出来ていないのではないか。何よりも、空気感染が主な感染経路であることを長く認めようとせず、未だに、アクリル板や手指消毒に重きを置いた感染防止対策を取ってはいないだろうか。空気感染が主であるとすると、換気対策が十分に取られていない狭い飲食店で飲食することは、コロナ感染の危険性が大きいと言わざるを得ない。それなのに、実態は、そんな店でもアクリル板わ置いてあるだけで堂々と営業し続けているし、最近は、小・中学生や幼稚園・保育所、学童施設などでの感染例が多いにも関わらず、年少者へのワクチン接種も行き渡っているとは言えないのではないか。また、気温が暑くなってきてからコロナの新規感染者として発表されている数が再び増加しつつある。規制緩和や参議院選挙などで人出が増えていることから増加するのは当然だとしても、一つには、換気機能が付いていないエアコンのかかっている室内で過ごすことが増えているのも、感染者数の増加原因としては考えられないだろうか。
 政府は、感染症対策として日本版CDCを立ち上げるそうだが、またぞろ医系技官や感染症の専門家と称する頭の固い人物を組織のトップに持ってきたとしても、機能するとは限らないことは、この三年にも及ぼうとするコロナ禍の医療機関や行政機関のドタバタ劇から見ても明らかではなかろうか。もし、そのような機関を新設するなら、既存の各行政機関や、古い体質の残る医療部門、何よりも利権争いとアピール合戦に終始している政治家どもからの反発や利権争いを乗り越えて行けるだけの、手腕がある人物をトップに持ってくるべきだが、岸田首相に、その覚悟や算段はあるのだろうか。疑問に思う。

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梅雨雷

2022年06月25日 | 日記
 『梅雨雷 ガシャーンにカチーン で悲鳴あげ』
 今朝も暑かったが、昨日よりは少し過ごしやすいかと思っていたが、テレビで「鎌倉殿の13人」の大姫が亡くなった場面に涙した後で、突然、スコールのような大雨が降りだして、ガシャーン、カチーンと何度も落雷が直撃したような音がして驚いた。雨が上がった後は、また、暑さがぶり返したが、梅雨はもう終わりだろうか。
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