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my diary

人であること

2023年01月31日 | 日記
 昨日書いたことの続きになるが、人とAIと比べた場合の、人であることの意義は何処にあるのだろうかと考える。人は、失敗も沢山するし、欲望に負けることも多い。AIは、論理的に考えるし、失敗もしない。今後、人の仕事のかなりの部分がAIに置き換わっていった時、AIに比べ欠陥が多い人間という存在は、どうなってしまうのだろうか。単なる生産機械として人を見た場合、明らかに人は間違いばかりする欠陥品だろう。現在でも、有名大学を出た偏差値の高いエリート達の中には、他の人間を欠陥品と見做している者もいるのではなかろうか。また、プーチンなどの権力者は、人を自らの欲求を叶える為の消耗品としか見ていないような気もしてならない。確かに権力者の立場で論理的に思考した場合、人もまた消耗品であり、大ロシアの復活などの目的にとっては、ウクライナやロシアの民衆の命は消耗品でしかないのだろう。そこに、覇権主義的権力体制の恐ろしさがあるし、場合によっては核戦争で地球が滅亡しても厭わないという考え方も生まれてくるのだろう。『人は消耗品ではないし誰の奴隷でもない。自分の意志で自由に行動したい。』ということが、民主主義や自由主義、人間主義の根幹にあると思う。 
 人間の能力をAIが超えるというシンギュラリティを迎えても、誰にも必ず訪れる死の恐怖や、自らの弱さ・欠陥を自覚しつつ、それぞれが、懸命に生きていこうという所に人間らしさを見出すことが出来るのではなかろうか。
 自分と異なった人や、目立つ人を対象とする「いじめ」は、人格を破壊する行為であることは言うまでもない。人は嫉妬する生き物であるが、一方では、弱い人を助けようという愛情も人にあるのではなかろうか。そこが、現在のところでAIと人との違いなのかもわからない。しかし、将来は、それすらもAIが身に着けるかもわからない。
 一方、統一教会問題などから、宗教の存在価値が問われているが、キリストにしても、仏陀にしても、人とはどういう存在なのかということを真剣に考え抜いたのではなかろうか。今、再びそれが、全人類個々に問われているのではなかろうか。

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シンギュラリティが間近なのか?

2023年01月30日 | 日記
 シンギュラリティという言葉が注目を集めるきっかけを作った米国の発明家レイ・カーツワイルは「人工知能が人間の知能と融合する時点」と定義しており、AIが人間と融和する形で進化していく可能性が指摘されている。
 
 OpenAIが開発する「ChatGPT」は、テキストで会話が可能なAIとなり、2022年公開以降各業界で話題となっています。近い将来Googleにとって代わる新しい検索エンジンになると予想する人もいる、期待の次世代AIです。 

 なんでも、chatgptとは、質問事項を入力すると、世界中の数多く存在するデータベースから検索して、テキスト形式で回答してくれるらしい。日本語翻訳に設定しておくと日本語でも対応してくれるとのこと。テーマをchatgptに示すと小説も書いてくれるらしいし、excelなどの表も作成してくれるとのことだが、このようなサービスが一般化して高度化すると、いよいよ、一般職的な事務仕事は用無しとなる可能性があるし、なんちゃて診断しか出来ない医者や、単に法律を知っているだけの弁護士なども必要ないことになる。自動運転や無人販売所などは、今でも一部で実用化されつつあるが、それらと組み合わせれば、自動学習を続けるAIが、人の行っている大半の仕事を担う時代が近いうちに来るかもわからない。当然、監視システムの高度化も併せ、権力者に悪用される可能性もあるが、シンギュラリティの時期が到来してAIが人の能力を上回るようになった時に人とは何なんだろうという根本的な疑問が起こってくるだろう。
 ハインライン、クラーク、レム等のSF小説を、もう一度読み返してみようかという思いがするようになってきた。 
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雛人形の供養で思ったこと。

2023年01月29日 | 日記
 この土・日に限り、勝浦町の人形会館で古くなった雛人形を引き受けてくれるとのことで、昨日、妻の嫁入りの時に持ってきた雛飾りの人形を持って行ってきた。供養料に5千円いるとのことで思いがけない出費であったが、毎年2月後半から開催される阿波勝浦ビック雛祭りには何度も来たこともあるし、奥勝浦で民家の軒先に並べてある雛人形も見に行ったこともあるので、供養料は、このような文化の継承の為もあるだろうと思って快く出させてもらった。土曜日にも関わらず、同じような想いの人もいるのか、人形会館の前の駐車場には、ひっきりなしに来客があり、ボランティアの人達もチームワーク良く、サービスも良かった。隣の道の駅で特産品であるミカンなどを買って家路についたが、その街角には、昔日を思い出させるものがあり、『そういえば、数十年前に鶴林寺などにマウンテンバイクに乗って来たこともあったなあ。」と、寺に通じる長い山道や階段の石畳についた苔の匂いまで蘇るような気がした。
 人形供養については、妻が、「ゴミに出すわけにもいかないし、人形に魂があると言う人もいて気味が悪いから。」と言うので、止むをえず妻に同行して持っていったものだが、人形に魂があると言うのは眉唾物だとは思っている。  
 そもそも、時間の概念すら、物理学的には疑いもあると聞くし、まして、人形どころか、人に魂があるかどうかは大いに疑問だと思う。古代インドの修行僧などは、禅かヨガかは知らないが、修行によって、人の思考についての深い考察をしていて、人の持つ欲望というか、生きてゆく上での雑念を取り去れば、今、生きているという認識や記憶すら(昔は脳の電気エネルギーや化学反応が思考の原点であるとは判らなかったと思うが、)あやふやなものであり、この世に定まったものはなく、死後の世界の存在も不明であると考えるに至ったのではないかと推察する。結論的には、死の恐怖であるとか、様々なことを考えても仕方がないし、取り分け世俗のことなどを考えても仕方が無いので、ひたすら修行によって心頭を滅却して何も考えないという悟りの境地に達しようと考えたのではなかろうか。
 
 SNSで儲け話で不特定の参加者を募り、組織から抜け出せないようにして、複数の広域強窃盗団を組織して犯行に及んでいた「ルフィ」名の指示役の者が、実は、フィリピンの入国管理事務所の収容所にいたとのことで話題を呼んでいるが、このような事件が多発するのは、20年近く前から続いているのに特殊詐欺撲滅に有効な対策を打てなかった捜査当局と、この国の社会システムの硬直性(例えば、都道府県警という縦割り組織の弊害、加害者に温和な司法システムの在り方)などにも原因があるだろうが、何よりも、愈々、貧富の格差が拡大し、それに伴う社会的格差(教育格差も含む)がのっぴきならない所まで来つつあるのではないかという感じもする。また、電通元専務の高橋氏が関与したとされる収賄事件でもわかるように、一部のセレブ層や政治家達は、法律の抜け穴を利用して金儲けに走り、それをブラック企業である広告企業に勤めるエリート層の会社員や官僚達が支えているという構造があるようにも思える。一方、この過酷なまでの学歴社会から落ちこぼれた者達は、益々、社会の下層に追いやられ、再チャレンジのチャンスすら与えられることは無い。昔は、それでも社会にある程度の緩さと寛容さがあり、貧困層に生まれた者でも、学歴が無い者でも、チャレンジ出来る可能性は、まだ、微かにあったようにも思うが、今は、その可能性は限りなく狭められているのではなかろうか。それでは、そういったエリート層やセレブ層が、果たして、人としての幸せを得ているのだろうか。高橋容疑者の場合は、晩節を汚したと言っても良いだろうし、オリンピック誘致に尽力してきた森元総理の場合はどうだろうか。汚名のみが後世に伝えられることにはならないだろうか。銃撃に倒れた安倍元首相しかり、今、話題の三浦瑠麗氏しかりではないか。虚飾の宴という言葉もあるが、三浦氏夫の弁護士が、統一教会信者で有名な人だというのも、何か、安倍元首相と統一教会問題、その取り巻き達の構図に思えてならないことも皮肉ではある。
 色即是空、空即是色、虚栄の雑念に捕らわれていても結局は虚しさだけが残るだけではないか。己を中立にして、雑念を無にしたいものだ。

※ と、思いつつも、私は、株価が、そろそろピークに来ていると考え、売り時を探ろうとしている。
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「〇〇washing」の不都合な事実

2023年01月27日 | 日記
 元々、不都合なことを覆い隠すということを「ホワイトウオッシング」と言うらしいが、それから波及して、スポーツウオッシング、SDGsウオッシング、グリーンウオッシング、ピンクウオッシングという言葉まで生まれているという。
 例えば、北京オリンピックは、オリンピックを利用して自国の人権問題から国際社会の注意を逸らそうとしたとも言われているが、東京オリンピックでも、オリンピックを利用した金儲けが行われていたことは、森元総理の強い推薦を受けた高橋容疑者の事件でも取りざたされている所でもある。アスリートファーストという言葉も聞いたが、それに対して東京オリンピックの裏で何が行われていたのであろうか。国費や東京都の巨額の予算を費やして、何のレガシーが残ったというのだろうか。今、防衛費や子育ての予算で増税の論議がされようとしているが、果たして東京オリンピックでの浪費はどうだったのだろうか。SDGsやグリーンウオッシングについては、例えば、東京都が打ち出した新築住戸に太陽パネル設置の義務付けが適切なものだろうか。三浦瑠麗氏の夫の疑惑も取り沙汰されているように、これらの綺麗ごとで反対の少ない問題の裏で何が行われているのだろうか。ピンクウオッシングについては、lgbtqに関係して言われているが、近年、特に降ってわいたように、この問題が取り上げられているように思えてならない。ゲイとかレズとかは、戦国・江戸時代などでも存在していたとのことだが、性同一性障害の人も一定数存在することは確かだろうし、それが差別の対象となってきたり、そういった人々の個人の幸福追求の障害でもあっただろうが、本当に、純粋な問題意識だけで、この問題が取り上げられるようになったのだろうかという疑問も少なからずあるように思えてならない。私は、何よりも、我が国における性教育の欠如が、援助交際という名の少女売春につながったり、性病のかってないほどの蔓延につながっているのではないかとの恐れを抱いている。性の自由化は結構なことだが、それが性道徳の破壊につながったり、ひいては、何らかの犠牲者の上に成り立つことのないようにして欲しいものだ。
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デヴィ夫人を見直した。

2023年01月26日 | 日記
 ホステスからスカルノインドネシア大統領の三番目の夫人になり、クーデターでスカルノ大統領が退任してからフランスなどへ渡り、女性でありながら大変な苦労をしながら元大統領夫人であるという誇りを忘れずに今まで生きてきた日本名「根本 七保子」さんは、その経歴や、日本でのタレント活動から、一部で偏見を持って見られがちであるが、何とも大した人物であることが、今回のウクライナ訪問で再認識されている。
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