この土・日に限り、勝浦町の人形会館で古くなった雛人形を引き受けてくれるとのことで、昨日、妻の嫁入りの時に持ってきた雛飾りの人形を持って行ってきた。供養料に5千円いるとのことで思いがけない出費であったが、毎年2月後半から開催される阿波勝浦ビック雛祭りには何度も来たこともあるし、奥勝浦で民家の軒先に並べてある雛人形も見に行ったこともあるので、供養料は、このような文化の継承の為もあるだろうと思って快く出させてもらった。土曜日にも関わらず、同じような想いの人もいるのか、人形会館の前の駐車場には、ひっきりなしに来客があり、ボランティアの人達もチームワーク良く、サービスも良かった。隣の道の駅で特産品であるミカンなどを買って家路についたが、その街角には、昔日を思い出させるものがあり、『そういえば、数十年前に鶴林寺などにマウンテンバイクに乗って来たこともあったなあ。」と、寺に通じる長い山道や階段の石畳についた苔の匂いまで蘇るような気がした。
人形供養については、妻が、「ゴミに出すわけにもいかないし、人形に魂があると言う人もいて気味が悪いから。」と言うので、止むをえず妻に同行して持っていったものだが、人形に魂があると言うのは眉唾物だとは思っている。
そもそも、時間の概念すら、物理学的には疑いもあると聞くし、まして、人形どころか、人に魂があるかどうかは大いに疑問だと思う。古代インドの修行僧などは、禅かヨガかは知らないが、修行によって、人の思考についての深い考察をしていて、人の持つ欲望というか、生きてゆく上での雑念を取り去れば、今、生きているという認識や記憶すら(昔は脳の電気エネルギーや化学反応が思考の原点であるとは判らなかったと思うが、)あやふやなものであり、この世に定まったものはなく、死後の世界の存在も不明であると考えるに至ったのではないかと推察する。結論的には、死の恐怖であるとか、様々なことを考えても仕方がないし、取り分け世俗のことなどを考えても仕方が無いので、ひたすら修行によって心頭を滅却して何も考えないという悟りの境地に達しようと考えたのではなかろうか。
SNSで儲け話で不特定の参加者を募り、組織から抜け出せないようにして、複数の広域強窃盗団を組織して犯行に及んでいた「ルフィ」名の指示役の者が、実は、フィリピンの入国管理事務所の収容所にいたとのことで話題を呼んでいるが、このような事件が多発するのは、20年近く前から続いているのに特殊詐欺撲滅に有効な対策を打てなかった捜査当局と、この国の社会システムの硬直性(例えば、都道府県警という縦割り組織の弊害、加害者に温和な司法システムの在り方)などにも原因があるだろうが、何よりも、愈々、貧富の格差が拡大し、それに伴う社会的格差(教育格差も含む)がのっぴきならない所まで来つつあるのではないかという感じもする。また、電通元専務の高橋氏が関与したとされる収賄事件でもわかるように、一部のセレブ層や政治家達は、法律の抜け穴を利用して金儲けに走り、それをブラック企業である広告企業に勤めるエリート層の会社員や官僚達が支えているという構造があるようにも思える。一方、この過酷なまでの学歴社会から落ちこぼれた者達は、益々、社会の下層に追いやられ、再チャレンジのチャンスすら与えられることは無い。昔は、それでも社会にある程度の緩さと寛容さがあり、貧困層に生まれた者でも、学歴が無い者でも、チャレンジ出来る可能性は、まだ、微かにあったようにも思うが、今は、その可能性は限りなく狭められているのではなかろうか。それでは、そういったエリート層やセレブ層が、果たして、人としての幸せを得ているのだろうか。高橋容疑者の場合は、晩節を汚したと言っても良いだろうし、オリンピック誘致に尽力してきた森元総理の場合はどうだろうか。汚名のみが後世に伝えられることにはならないだろうか。銃撃に倒れた安倍元首相しかり、今、話題の三浦瑠麗氏しかりではないか。虚飾の宴という言葉もあるが、三浦氏夫の弁護士が、統一教会信者で有名な人だというのも、何か、安倍元首相と統一教会問題、その取り巻き達の構図に思えてならないことも皮肉ではある。
色即是空、空即是色、虚栄の雑念に捕らわれていても結局は虚しさだけが残るだけではないか。己を中立にして、雑念を無にしたいものだ。
※ と、思いつつも、私は、株価が、そろそろピークに来ていると考え、売り時を探ろうとしている。