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my diary

ハロウィン? 私には無関係

2022年10月31日 | 日記
 今日はハロウィンの日らしい。巷には、子供達に仮装させて喜んでいる親もいたりして、確かに想い出にはなるだろう。私には子供もおらず、仮に子供がいたとしても孫の世代となっているだろうし、いよいよ無関係だ。
 さて、韓国のイデオン(梨泰院)とかいう街角の雑踏事故で154人もの人が圧死したとのこと。日本人も2人含まれているという。韓流ブームか何か知らないが、韓国に留学にしていて、有名な街区で人波にもまれて死んでしまったのは何とも残念であったろう。日本でも、この時期になると、渋谷などで仮装してハロウィンの騒ぎを楽しんでいる人達のニュース映像を見ることが多くなってきた。コロナが完全に収束した訳でもないのに、いくら若者は感染しても軽症の人が多いとしても無警戒にもほどがある。
  日本でハロウィンに何故、若者達が集まるのかということについて既に社会心理学などでは様々な分析もされているようだが、そもそも、ハロウィンとは、アイルランドに住むケルト人の習俗であったものがアメリカに渡って現在のような形になったもので、クリスマスやバレンタインデーなどと同様にアメリカの風習に興味を持った人がいて、それに商売人が乗っかって、このようなことになっていったのかもしれない。
 日本では、現代に至っても、弥生時代以降、長年続いてきた村社会の要素が社会生活から抜けきれておらず、そのため、家庭でも、職場や学校でもストレスを溜めがちであり、「自己主張したいのに出来ない」とか、「この機会に仮装でもして騒ぎたい」とか、「みんなが行っているから大丈夫」とかの、情緒性、無責任性、同質性という心理が働きがちになっているとも考えられている。ようするに騒ぎたい、見に行きたいということで、それにスマホの撮影機能とSNSでの情報拡散機能が加わって群衆が集まることになっているのだろう。

 しかし、高齢者である私には、そんなバカ騒ぎはニュースで見るだけにしておきたい。大体、東京などで満員電車などに乗って、自由な動きも出来ずに降りたい駅で降りるのに一苦労した覚えがあるが、何で、好き好んで、そんな群衆の集合するような所に行こうとするのだろうか。コロナも高止まりで、一向に収束しないではないか。それを政府は、「外ではマスクをしなくても良い」とか言っているが、その科学的な根拠はあるのだろうか。そもそも、空気感染の事実すら今年の初めに至るまで認めようとしなかったのは政府ではなかったのか。今になって、外でノーマスクでいても絶対に感染しないとどうして言いきれるのかわからない。ハロウィンでのバカ騒ぎは感染拡大に資するだけのような気がする。
 ところで、先日、5回目のワクチンの接種券が届いた。次回接種までは5か月の経過期間が必要と言っていたのが、3か月となったらしい。朝令暮改とは先日の岸田首相の統一教会への質問権の話だったが、ワクチン接種も朝令暮改が行われているようだ。我が国の感染研究者が欧米よりも劣っているせいなんだろうか。妻も4回目の接種がまだなので、来月中には一緒に接種しに行くつもりだ。未だに、副作用の方が感染するよりも影響が大きいと言っている人もいるようだが、参政党とかいう党の人らしいが、科学的・統計的な根拠に基づいているのだろうか。知りもしないことを大げさに言うのは止めた方が良いと思う。
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ピント外れの政治家

2022年10月27日 | 日記
 鈴木宗男氏が、講演で、「信仰の自由と政治倫理は別問題」と述べたと報じられているが、そもそも、旧統一教会が、自民党の政治家(安倍氏など)と親しい関係にあるということを信者等にアピールして、彼らの宗教への勧誘手段の一つとしてきたことと、いくつかの関連団体を通じて選挙時の政策協定などの形で日本の政治への働きかけてきたことが問題で、彼らの教義が、日本をイブ国として永遠に貢がなければならない存在として規定し、政治的にも教団の支配下に置いて世界統一の手段としようとしていた疑いがあり、それ故、鈴木氏の(以前からのロシアよりの数々の発言も問題ではあるが、老齢の影響なのか、それとも何らかの意図があっての発言なのかわからないが、)今回のピント外れの発言には看過しがたいものがある。維新も、対立候補に扮して中傷ビラを撒くような変な市議がいたり、創始者の橋下氏の相変わらずの傲慢な発言もあったりして、最近は、自民党と同様に、市民感覚から少しズレてきたのではなかろうかと思うことも多い。所詮、政治家という人種は、自らの立場だけを考えているだけで、国民を見下している存在なのだろう。
 私は、安倍元首相を襲撃した容疑者を英雄視するような状況だけは避けるべきだと考えていたが、この問題に対する自民党の腰の定まらない対応を見ていると、何か、この容疑者の行為に対して、何らかの正当性すら感じて仕方がないようになりつつある。どうして、政府・自民党は、この教団に対しての解散命令を裁判所に求めることに躊躇しているのだろうか。また、教団に関係を続ける議員は除名すると言いきれないのだろうか。
 
 



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集団的誤謬

2022年10月24日 | 日記
 何故、プーチンはウクライナへの侵攻という間違いを犯したのか。それについては、プーチンが若い時代にKGBという情報組織の下級幹部でいた時代に、ベルリンの壁の崩壊からソ連邦解体に至る経験をし、その後も、自らの能力とKGB時代に培ったコネで出世してきたことから、欧米に対する強い被害者意識を持ち、少数の信頼出来る者を重視して、自らの意見に反対する者達を追放してきたので、自然とプーチンに阿る者しか取り巻きにはいなくなり、『ウクライナに侵攻しても数日で片付く』とか、『親ロシアのウクライナ国民から歓迎される』とかの誤った情報に基づいてこの侵攻に踏み切ったと言われている。しかも、この行動が誤りだったとわかった後も、その原因を冷静に分析することなく、誤りを是正することはプーチンの取り巻き達の利益を大きく損なうことになり、自らのプライドも傷つくことから、むしろ、ウクライナ国内の原発を攻撃したり、戦術核の使用を検討するなど、誤った行動をエスカレートする方向に向かいつつある。
 このような集団的誤謬というものは、旧日本軍にも見られ、ミッドウェー海戦などで致命的な敗北を喫した後でさえ、講和の方向に向かうのではなく、一億総玉砕などと国民を巻き込んだ狂気の行動に出ようとしていた。このような誤謬は我が国においては決して珍しいことではない。例えば、日本人は、村社会の中で「和」を好む生活を送ってきて、異なる意見を排除しようとする傾向が強いように考えられている。学校内における「いじめ」もそうであり、ともすれば、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という集団の意思が重視されることもある。福島原発でメルトダウンに至った原因でも、千年に一度の大災害の危険性よりも原発運営会社の利益を優先して、津波に対する水防や自家発電装置の高所への設置という対策を取ろうとせず、もしかすると、東日本全体が放射能汚染する可能性もあった。しかし、そのような経験を経た今でも、ともすれば、温暖化ガスを放出しないということで原発の存在をSdgsに結び付けたり、燃料価格の高騰や電力不足を原発の再稼働で補おうとする政治的圧力が高まっていて、CMなどを通じて潜在的に国民の意識を変えようとする動きも見られるようになってきた。
 「長いものには巻かれろ、世間に逆らうな」、これは、村社会で生きる鉄則で、官僚社会や閉鎖的な会社社会で生きる為の知恵でもあるが、しかし、いつまでも、そんなことで良いのだろうか。個人が、何が本当のことなのかを適切に見分ける目を持ち、自らの意見を発信する場を持つ必要がある。現代の政治家は、与野党問わず、自らが当選することのみが自己目的化して、国民の本当の声を代弁したり、国の長い将来のことまで考える能力を失っているように思うが、国民個々のネットでの発信などは、その一つ一つの声は小さいかもしれないが、それが纏まることが出来たとすれば、自らの利益という観点でしか政治的行動をしない政治家どもを動かす作用点ともなる可能性がある。その為には、現在発生している物事の真実を見抜く力を国民一人一人が持たなければならないだろう。
 そういう意味では、陸上自衛隊でのセクハラを訴えて、自衛隊幹部や当事者から謝罪をさせるまでに至った元女性自衛官の存在などは、女性だけではなく、多くの国民を勇気づけるものである。安倍元首相などと結びついてきた旧統一教会に対して、教会から脱退した女性信者などが会見などを通して、その不当性を訴えているのも勇気ある行動と思う。山上容疑者の行動自体は是認出来るものではないが、安倍の蓋とも呼ばれる障害が除かれ、オリンピックに絡む不正疑惑など様々なものが明らかになりつつある。考えてみれば、長く権力を持ち、お友達に便宜を図ってきたと言われる元首相とその取り巻き達も集団的誤謬をなしつつあったのかもしれないと想像したりする。
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これからのスタート

2022年10月22日 | 日記
 ドラフト会議の中継を見ていて、指名された選手のうち何人が野球で生活していけるのだろうかと心配した。彼らの内の多数は、数年を経ずして戦力外の通告を受ける可能性がある。そして、その後の人生が保障されている訳ではない。いわば、ドラフトというのは公衆の面前の人買いショーで、買われた選手は、今後、怪我をしたり能力が発揮出来なければ冷酷に馘首されるということであり、テレビの前の視聴者は、そのドラマを見て楽しんでいるということだろう。しかし、それでも夢見る若人達はプロ選手を目指して挑戦しているが、果たして人生の最終章に至っても彼らは後悔をしたりしないのだろうか。
 小室圭さん夫妻についても大衆は同様の見方をしているのかもしれない。彼が元内親王の夫として相応しくないと多くの人が思っていて、マスコミも長年にわたって一貫してそのような報道を流していた。複雑な家庭環境と過保護な母親を抱えた彼と、皇族に生まれたばかりに赤子の時からマスコミを通じて好奇の目で見られ、自由を束縛されていた彼女が出会って、お互いに惹かれあったものの、マスコミによって彼の複雑な家庭環境が報じられたことなどによって、結婚の許しがなかなかに得られず、彼女の皇族離脱という決意によって、ようやく結婚がかなったものの、彼が異国の弁護士資格試験に落ち続けた為に更に批判にさらされ続けてきたが、今回の合格発表があって、一変して、彼の挑戦を評価する声が出てきた。マスコミや大衆というのは、このように勝手なものである。そうだとすれば、彼らの声に一喜一憂するのは馬鹿らしいというしかない。御夫婦にとっては、ようやく第一歩を踏み出す端緒についたということだろうが、これからは、自らの力で自分達の運命を切り開く必要があるだろう。
 
 ところで、30年ぶりかの円安になってきた。思い返せば、あの時代は、高度経済成長期が過ぎたといっても、まだまだ、国民生活も貧しく、今ほどには、インフラなども整っていなくて国民も今ほどの贅沢はしていなかった。しかも、石油危機の時代の前後などは物価も高騰していたが給料の伸びも高く、国民は、ある種のゆとりと将来に向かっての夢を持てていたように思う。最近の円安局面については、アベノミクスの後遺症だと論ずる人もいるが、確かに第三の矢が不発に終わったということでは正しいと思える。しかし、今回の円安・物価高の局面を必要以上にマイナスと見做すことには異論がある。中国等に進出して我が国の競争力を弱体化させてきた製造業などは、この円安を契機に国内回帰の動きも見せるだろうし、貿易収支は赤字となっていても政府の外貨準備などからすると円安はその面では利益をもたらしているのではなかろうか。勿論、日銀が金利を上げられないのは、低金利もあって、やっとのことで生き延びている多くの企業の存在や、変動金利のローンを抱えた多くの債務者などの存在もあるだろう。したがって、金利を上げるべきだという論には安易に賛成することは出来ない。この円安局面と物価上昇、国民の実質所得の下落は、数年間は続く可能性もある。イギリスのように、税金の減額を国民に約束しても、それで、首相が辞めざるを得なくなるようなことは我が国ではないだろうが、かといって、我が国では、財務官僚の力も強く、思い切った減税にも踏み切ることは出来ないだろう。しかし、何をしたとしても、この支持率の下落傾向は岸田首相にとっては痛手だろう。国政選挙が暫くは無いということや、自民党内では誰が首相になっても同様の傾向が続くだろうが、かといって、野党に現与党に取って代わるだけの勢いも能力もなかろう。ここは、やはり、岸田首相には批判にさらされ、泥まみれになっても頑張ってもらうしかないと思う。
 我々のような年金生活者や、低収入の人などには、消費者物価の急騰による生活面での打撃は大きい。何を削って、何に少ない収入から消費するか、新たな視点からスタートしなければならないと思う。
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日本人のデリケートな心

2022年10月21日 | 日記
 日本人の人口当たりの自殺率は高いと言われていて、特に最近は、サイトなどで知り合った他人に自殺を手伝ってもらうというようなニュースも多くなっている。また、心の弱さから統一教会などのカルト的な宗教にのめり込む人も一定数いる。最近の円安傾向の中、海外に職を移した日本人が高い給与をもらってゆとりのある生活を送っていると聞く半面、多くの日本人には、語学の壁もあるが、外国に出るというリスクの高い行動に踏み切れないという現実もある。一方、我が国の政界などを見ていると、必ずしも合理的な活動が行われていないようでもあり、地域や職場においても、「和」を必要以上に大切にしがちで、マスコミなども、我々の持つ集団心理を必要以上に煽り勝ちなところも見られる。これらを総合的に考えてみると、日本人の持つ心理的な弱さとか、学校教育がもたらしている集団行動的な教育が、個の自立という面でマイナスの要因となっている可能性があるのではと思ってならない。以下に少しまとめてみると、

・デリケートな心と不快な現実からの逃避
 日本人の多くはデリケートな心を持っていると言われている。デリケートな心の持ち主はストレスに対して不安感や緊張感などの感情的な反応が生じ易く、不快な現実を直視することを避けようとする傾向がある。(例えば、希望的観測に縋りつく)
・「和」の重視と、問題の先送り、「いじめ」の構造
 デリケートな心を持ち、歴史的に農業を主体とした生活を送ってきた日本人は、対立点を曖昧にすることによって「和」を図ることが多い。これは、問題の先送りや決断の遅さを招きかねない。また、集団から外れているとみなされる者を「いじめ」で村八分的な対応をすることも多い。
・「リスク」を取ることへの忌避と、失敗を許さない社会
 また、日本人は、(強いストレスに晒されかねない)リスクを取る生き方が苦手であり、このことは反面、失敗を許容しないという空気を生みやすい。

 上記のように日本人の心がデリケートであると仮定すると、最近の話題となっている統一教会の問題、コロナ感染への政府と社会の対応、安全保障問題への取り組みの遅さと平和憲法聖典主義的な一部の知識人の意識など、様々な出来事が解釈可能であると思われる。

  ともあれ、The squeaky wheel gets the greese.  という諺もあるようで、声を出さなければ人には気づいてもらえない。 
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