長野県の猟銃殺人事件の容疑者の犯行動機として、「ぼっち」と言われたと思ったということが報道されている。私も、対人能力に欠けていて「ぼっち」と言われとも仕方が無いと思っている者であるだけに、彼の心情もある程度は理解できるように思う。
私の場合は、親が過干渉の割には、私が人として自立する為のことは何もしてくれなかったという思いはある。勿論、戦前生まれの両親にとって、子供は全て同じではなく、人と接することが苦手な者もいるとか、我が強い子供もいるとかいうことまで理解して私に接することを期待しても無理だっただろう。それどころか、戦後の雰囲気が濃厚に残る田舎では、祖父母とも同居する中で、他人たちの目を過剰に気にしながら、自分達が生活してゆくことに精一杯だっただろうし、他の子供と比較して自分の子供が変わっているなどと思っても、それに、どのように対処すべきかという知識もなかっただろう。両親の出来ることとしては、自然に、私が近所の子供達と同化するようになることを期待するだけだったかもしれない。
この容疑者と私との共通点は、田舎の農家の後継者と見なされる者であったということと、大学生活がうまくいかず中退してしまったこと、対人関係が苦手で、人と接することに途中から諦めを感じてしまったことだったかもしれない。この容疑者も、農業を手伝ったり、ジェラート店を手伝ったりと、彼なりに努力はしていたのではないかとも思う。しかし、報道されていることから推察すると、親の言われた通りにしていただけで彼の自発的な行動動機というものではなかったかもしれない。おそらく、父親は市議会議長にもなるような行動力と社交性に富んだ人だっただろうし、母親も同様であったようで、その点では似あいの夫婦であったかもしれないが、それだけに、精神的な原因も若干あったかもしれない彼の孤独感は、年々深まっていったと思われる。私は、若い時に彼と同様の孤独感を抱えていたが、ただ、私には「鈍感力」とでもいうものがあったように思うし、彼のように少年野球などに入ったような経験もなく、元々、他人と親和して活動したような経験がなかっただけに、自分で空想物語を心の中で作ったり、少し大きくなった時には、読書の中に自分の世界を見つけたりして孤独感を中和していたように思う。彼も、また、サバイバルゲームなどに自分の居場所を見つけていったのかもしれない。しかし、私と彼の大きな違いは、青年期に経過した時代の違いにあるのかもしれない。私の場合は、就職したのが、第二次オイルショック期で、田舎においては、労働力不足で就職が容易な時代であった。そのおかげで高卒の資格しかなかった私でも、就職が出来たし、職場の中で数々の蹉跌はあったにしても、何とか約40年間を過ごすことが出来て、結婚も出来たが、彼の場合はどうだっただろうか。大学を中退しても、彼の場合は、実家がそれなりに裕福な農家であり、両親の言うがままに農家の手伝いをすることも出来たし、長続きしないまでも、地元の青年グループにも一応は参加する機会があっただろう。しかし、その裏で、彼の自立心や達成感というようなものを獲得する機会が少なかったと推察する。サバイバルゲーム好きから、猟銃の所持許可を取ろうということは、彼が孤独感から脱出する大きなチャンスではあっただろうし、彼の両親も、それに対して大きく反対しなかったのであれば、あるいは、彼が変わる機会と捉えていたのかもしれない。(警察の所持許可時の審査が形式的で甘いというのは全国同じで、近年では標準審査期間というものまであり、警察担当者が少し不審に思っても、その期間内に、形式的要件が合致するのにも関わらずに許可を出さないとなると、逆に問題視されることもある。精神病の有無なども、診断書を発行した病院で、本人が異常が無いと主張するだけで通ってしまう。)しかし、本来は、サバイバルゲームが好きという動機が分かれば、警察に申請した段階で許可にストップをかけられるべきであった。孤独感に苛まれていた彼にとっては、猟銃の所持許可が下りたことが、結果として最悪となってしまった。勿論、最初の犠牲者はサバイバルナイフで殺害された訳であり、銃の所持には関係が無いという人もいるかもしれない。でも、他の事では達成感の持てなかった彼にとっては、そのことで自己像を拡大していったのかもしれない。
政府は、少子化対策としての予算を捻出しようとして、高齢者の年金財源や社会保険料にまで手を付けようとしているが、そもそも、金を配ったからといって子供の数が増えるものだろうか。例えば。過度な受験競争にかかる費用や若者の所得の低さ、そして、子供を持つことの面倒さがあるのではないかと思う。近年、明らかに治安が悪化して、男女間トラブルによる殺人事件や、闇バイトを使った強盗事件などが頻発しているように思う。50-80問題など、高齢の親を抱えた介護等に困難さを覚えている子供による家庭内殺人事件も多い。昭和のサザエさん的標準家庭の崩壊とともに、これらの事象が生じている可能性もある。現代では、子供を持つということが、明らかにリスクの一つとなっていて、個人生活の犠牲も伴うが、昭和のままの教育政策や、子育て政策を続けている政府には、この現状が把握出来ているのだろうか。孤独対策も単に若者の失業対策に予算をつけるだけとすれば、孤独感を抱えている若者にとっては、依然として住みにくく将来に希望が持てそうもない。また、高度経済成長以来、国は、全国的に都市化を進め、結果として、人と触れ合う機会を少なくしてしまっていることもある。でも、「ぼっち」が、それほどいけないことなんだろうか。他人の余計な言葉に惑わされず、世間の出来事を客観的に概観することも出来る。その為には、社会文科系の学問こそ、ある程度の年齢がいってから学びなおすということも良いのではないかと思う。
日銀の金融政策のせいか、我が国では、約30年か40年の間、物価や賃金が上がるということが過度に抑えられ続けていた。それが、ウクライナ戦争のせいか、安倍の蓋が開いたせいかどうかはわからないが、物価の上昇が止まらない。近所のイオンでは、モールの店舗のうち、コロナ禍で耐えていた店が持ちこたえられなくなったのか十数店舗が閉店するなどしている。イオン自体には、土日を中心に客足が戻ってきつつあるのとは反対であることが皮肉でもある。しかし、イオンに行っても、値段が高すぎると、年金暮らしの当方にあっては買うのに躊躇を覚えてならない。昨日は、靴下と肌着を購入すれば20%ポイント還元とのことだったので買ってしまった。食品売り場でも、つな缶が値上がりするというので、それもパックで買った。高い物価には慣れてきつつもあるが、値段の高い物は買わないということが習慣にななりつつある。(赤札爺の独り言)