夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

「政治的中立」を要求する極めて政治的な圧力

2016-03-11 16:13:13 | 政治

高市発言

 2016年2月8日、高市早苗総務大臣は衆院予算委員会で、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した。それに対して、例えば読売新聞によれば賛否両論があったと言う。その後批判する側から、田原総一郎等の民放のニュースキャスター7人が「憲法と放送法の精神に反している」と「怒りの」声明を挙げた。また、池上彰は、「欧米の民主主義国なら政権がひっくり返ってしまいかねない発言だ」(朝日新聞2016.2.26「新聞ななめよみ」)と非難している。

 高市早苗の発言は、一般的な民主主義における言論の自由という観点からは、ヴォルテールの考えを言い表した言葉(ヴォルテール自身の言葉ではない)「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という精神に真っ向から反していると言っていいだろう。自分たちに都合の悪い報道を、放送法と電波法を盾に威圧しているからだ。それに対し、反対の側からは、例えば八木秀次麗澤大教授は、「高市総務相批判に異議あり。テレビに偏向放送の自由はない」(月間正論4月号)と高市発言を擁護している。要するに、テレビ局は「政治的中立を守れ」と言っているのだ。

 これには話の前段があって、2015.11.15に読売新聞と産経新聞に載った「私たちは、違法な報道を見逃しません」という意見広告があった。それは、安保法案に批判的なNews23の岸井成挌キャスターを批判するものだった。高市発言は、その流れに沿ったものだと解釈できる。

一連の出来事

 こういうことは、テレビ局だけの話しかと思えばそうではない。同じような最近の政治的な言動に対しての批判や抑制を新聞等から列挙すれば、次のようなものがある。

文部科学省は高校生の政治活動を、届出制を容認するなど、事実上制限する通知を出す。

神戸市で毎年開催されている、所謂護憲派の「神戸憲法集会」の講演依頼を、兵庫県と神戸市の教育委員会が「『政治活動に関わりがない』に抵触する」として拒否する

MARZEN&ジュンク堂渋谷店の「自由と民主主義のための必読書50」が偏向しているという非難から中止に追い込まれる。

 これらに共通するものは何か? それは、すべて安倍政権に対する批判的な言動を問題にしていることだ。始めの高校生の政治活動とは、安保法案や原発に反対するデモや集会を念頭に置いていることは、最近の実際の動きからも明らかだろう。そもそも、政治的なデモや集会は現状への批判がほとんどであり、現政権を支持するためのデモや集会をわざわ行うなどということは極めて稀だ。このことから政治活動の制限が、現政権批判を封じる狙いがあることは想像に難くない。神戸市の場合も、改憲をもくろむ安倍政権に対し、護憲を掲げているので、批判にさらされているのだ。MARZEN&ジュンク堂も「必読書50」の中に、SEALDsや高橋源一郎、ウオール街占拠などの、安倍政権から見れば好ましくないない書物が多いことから、圧力を受けたのである。高市発言も安倍政権を批判するテレビ報道を問題にしていることは、間違いない。

日本の民主主義の現状

 なぜこのような自らの政権に批判的な言動に圧力をかけることがまかり通ってしまうかと言えば、池上彰の言うとおりなのである。「欧米の民主主義国なら政権がひっくり返ってしまいかねない」ほど民主主義に反すると池上彰は言う。まさに、そのとおりなのだ。日本は欧米ではなく、欧米の民主主義観とは異なる考えを持つ者がいるということを表しているのだ。民主主義観はその者の立場によって異なる。高市発言がテレビ局に対する圧力だとニュースキャスターが抗議したが、そのニュースキャスターは読売新聞系列の日テレと産経新聞系列のフジとは縁の薄い者たちだけだ。読売新聞も産経新聞も高市発言をまったく批判していないことが、そのままテレビ局に反映されているのだ。安倍政権支持の論調が目立つ読売新聞と産経新聞は、池上彰の言う、「民主主義国なら政権がひっくり返ってしまいかねない」ほどの民主主義の問題とは捉えていないということだ。だから、安保法案に批判的なキャスターを非難する意見広告がこの両紙にだけ載ったのである。つまり、民主主義に対する考えが異なるのだ。では、読売新聞と産経新聞の民主主義とは一体どういうものなのか?

 前出の、産経新聞に転載された月間正論4月号の中で、八木秀次は「偏向放送に自由はない」と言っているが、彼は民主主義などどうでもいいと言っているのではなく、それが彼の民主主義観の一端なのである。では何が「偏向」なのか? 八木は『労組や左翼政党、外国勢力からの「不偏不党」「自律」を確立すべきだ』と言う。逆に言えば、「労組や左翼政党、外国勢力」の考えが「偏向」していると言っているに等しい。この中で、「外国勢力」というのが少し分かりづらい。「外国」といっても、日本に最も影響力のあるアメリカのことではない。これは、極右歴史修正主義者の代表挌である八木秀次が、常に問題にしている「自虐史観」の中の「慰安婦問題」や「南京虐殺」に関連している韓国や中国のことである。これには、歴史修正主義が常套手段としている論理のすり替えがある。「慰安婦問題」や「南京虐殺」が歴史的事実か否かという日本の近現代史に関する問題を、故意に韓国や中国の政府の主張と絡めているからだ。韓国や中国の政府の主張がどうであれ、日本の近現代史の事実がそれによって変わるわけがないのは、誰が考えても分かる理屈だが、故意に向こうの政府の主張と絡めることによって、問題をすり替えるのだ。これによって、「自虐史観」を主張する者は、韓国・中国の手先というようなイメージを与えるのだ。だから、慰安婦の国家による強制性や人数に関係なく南京虐殺はあったと推定されると考える者は、「反日」と極右は言うのである。ここで、八木が「外国勢力」と言っているのは、そのような「反日」のことである。

 「労組や左翼政党」は、それほど難しくない。「左翼政党」とは、共産党、社民党、「労組」である連合の支持を受けている民主党の一部、その他の極左を含めた左派政党ということだろう。それは、日本だけに「左翼政党」があるわけではないので、ヨーロッパの主要政党であるフランス社会党やドイツ社民党、中南米の多くの左派政権党、アメリカで言えば、自らを社会主義者socialistと公言しているバニー・サンダースを支持している民主党の一部も含まれるのだろう。それらすべてを八木は「偏向」していると主張しているのである。

 これは、八木秀次だけの考えではない。高校生の政治活動も、護憲派も、「必読書50」も、「左翼的偏向」と、右派全体から非難されているからだ。つまり、かねてより、「日教組は偏向している」と自民党をはじめ右派全体から非難されてきたことと同じものなのだ。右派からの非難、だから、右派である読売新聞も産経新聞も高市発言を擁護ないし黙認しているのだ。こばやしよしのりなどの一部の例外を除いて、多くの右派にとっては、それが民主主義なのである。

 しかし、ヴォルテールの思想を表した「反対意見を主張する権利」が、100パーセント守られた統治governmentなど歴史上あったのだろうか? 極めて疑問である。それは単に、ファシズム体制下やスターリン的強権体制下だけの話ではない(因みに、この両体制を全体主義と呼ぶのは、非論理的だ。この二つは共通性はあるがまったくの別物であり、それを同じというのは、下品な言い方をすればクソミソ一緒である。色や形が同じでも別物なのである。)現在でも多くの国で、手を変え品を変え、敵対する勢力の言動を封じ込めようと、画策されていると考えられる。そのことは本質的には、民主主義が政治的な闘争の産物として生まれたことと関係しているだろう。フランス史の中の三部会で言うところの、聖職者も貴族も、「おっしゃるとおり」と、おとなしく自分たちの特権を失う平民の主張を受け入れたわけではない。平民の主張を認めさせるのには、暴力、非暴力を問わず、彼らの政治的闘争が必要だったのだ。そしてその闘争は、ブルジョアジーから労働者や農民などとさまざまな主体を変え、現在も続いているのだ。このさまざまな政治勢力の闘争が現状の政治的状況をつくりあげているのだ。

 フランスで、政権党である「左翼政党」の社会党Parti Socialisteの意見を「偏向」しているなどと言う者はいないだろう。ではなぜ、日本には堂々とそのようなことを言う者がいるのか? それは、日本の政治的な状況がそれを許しているからだ。その理由は二つある。一つの理由は単純に、「左翼政党」が弱体であるからである。そしてもう一つは、「右」と「左」の概念が、混乱しているからだ。あたかも「右翼」とは街宣車に載っているような者だけをさし、「左翼」とは共産主義者だけをさすように、マスメディアは使用している。(政治的左右の言葉の始まりであるフランス国民議会の時代に共産主義者が存在している筈はなく、「左」が共産主義者だけではないのは当然だろう。)だから「左翼的」とは、「一部の頭の硬い共産主義者」だけのことというようにイメージされてしまうのだ。それは、社会の基本的な対立が見えなくなってしまうことも意味している。なぜ、ヨーロッパや中南米における政権を争う選挙が、概して「右」と「左」の対決になっているのか、これでは分からない。「右」と「左」の代わりに、保守とリベラルなどという言葉を日本のマスメディアは好んで使う。それでは、社会の基本的な対立である、富者と貧者、1パーセントと99パーセント、持つ者と持たざる者、働く者と資産で生活できる者、資本と労働者(因みに、マルクスの資本論で言う資本家とは資本の擬人化である)、そういった基本的な対立が隠れてしまうのだ。勿論そこには、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」といった、そのような対立は終わったというイデオロギーが潜んではいるのだが。日本のマスメディアが「保守とリベラル」などという言葉を好むのは、アメリカのジャーナリストが多用するから、それをまねているのであろうが、それもそろそろ終わりだろう。日本の「左翼政党」は当分強大にはならないだろうが、「保守とリベラル」の本家のアメリカでも、ついにバニー・サンダースという自他ともに認める「左」が、極右から中道右派までの「保守とリベラル」というに「右」対して、戦いを挑み、善戦しているからだ。

 

 

 

 

 

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